176話 “最強”という呪い
城の訓練場に、乾いた木剣の音が鳴り響いていた。初夏の朝日が石畳を照らし、仄かな汗の匂いが風に乗って揺れる。
ルシア・エストレーラは、一本の剣を振り下ろしていた。父であるアークの面影を宿す鋼色の瞳は、何かを見据えるようにまっすぐ前を向いている。
「ルシア殿、もう十分では……」
稽古相手を務めていた武人が、やや息を荒げながら声をかけた。だが、ルシアは首を横に振る。
「まだです。父は、ここで百八十回の連続斬を成功させたと聞いています。僕はまだ、百二十二回目……」
「……ですが、あなたはまだ十歳にも満たぬご年齢。あの御方は“魔王”ですぞ」
ルシアは黙って剣を構え直した。
その日も、彼は「魔王の子」としての自分をなぞるように、父の背中を追い続けていた。
午後、ミカが差し入れに訪れたとき、ルシアは訓練場の片隅で、静かに膝を抱えていた。濡れた前髪が額に張りつき、傷のある手にはうっすらと血が滲んでいる。
「ルシア……もう、やめにしませんか。あなたはあなたであっていいのよ」
「……母上は、僕が“最強”でなくてもいいと思いますか?」
問いかけは唐突で、けれど真剣だった。
ミカはそっと、彼の隣に膝をついた。
「ええ、もちろんよ」
「でも、僕は“魔王の子”です。父上は、誰よりも強くて、揺るがない存在で……。僕も、そうでなければいけないと思っていました」
「それは誰かに言われたの?」
「……いいえ。僕が、勝手にそう思い込んでいただけかもしれません。でも、街の人々が僕に向ける目が――“いつか父のようになる”ことを期待してるように、見えるんです」
ミカは、そっと彼の手を取った。傷口に薬草の軟膏を塗りながら、目を細める。
「あなたは、誰かの期待の形になるために生まれてきたわけじゃない。父上は“最強”だったかもしれない。でもそれは、彼が自分で選んだ道」
「じゃあ、僕は……?」
「あなたは“導く者”よ。強さだけでは人は導けない。あなたには、優しさと知恵がある。……それは、誰にも真似できない“強さ”よ」
夜。執務室にて、アークは一枚の報告書を読みながら、ふと視線を窓辺に移した。外には月が浮かんでおり、淡い光が書類の端に落ちていた。
「……父上」
扉の前に、ルシアが立っていた。
「どうした」
「少し、お話があります」
ルシアはアークの前まで歩み出ると、姿勢を正し、まっすぐに父の瞳を見つめた。
「僕は、父上のようにはなれません。力も、威圧も、求心力も。……でも、僕は、違う形で人を導きたいと思うようになりました」
アークは黙って頷いた。
「“最強”でなければ、王にはなれませんか?」
その問いは、幼いながらに覚悟を帯びていた。自らの運命を見据え、初めて“自分の言葉”で父に問うているのだ。
アークはそっと椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「最強とは、孤独だ。信じてくれ。私は、君たちが生まれるまで、その孤独に蝕まれていた」
「……父上」
「君が歩むべき道は、君だけのものだ。私の背中ではなく、君自身の歩幅で、君の道を作れ。私が君を見ているのは、“最強かどうか”ではない」
アークは振り向き、静かに手を伸ばした。
「君が誰かのために心を砕き、悩み、進もうとするその姿勢こそ――王たる資質だ」
ルシアの胸に、なにかが溶けるような気がした。
「……ありがとう、父上」
アークは微笑むと、彼の頭に手を置いた。
「ルシア。私は君の父で、君の王だ。……そして、君の“味方”でありたい」
ルシアが部屋を出たあと、アークは窓辺に立ち尽くしていた。
その瞳には、かつて“最強であらねばならなかった自分”の影が微かに揺れていた。けれど今は、子らの中に“未来”を託せるという、希望の光が確かにあった。
「最強でなくてもいい。……ただ、真っ直ぐであればいい」
その言葉を、アークは静かに胸の中で繰り返した。
やがて、彼のもとに夜風が吹き抜けた。
まるで、ルシアの新たな旅立ちを告げるように。




