158話 夫婦として、王と秘書として
宮廷の大広間が静寂に包まれる。日の入りとともに執り行われた高位の外交会議は終わりを迎え、列席した貴族や使節団が次々と退出していく中、王妃ミカはただ一人、議場に残って草稿の修正を進めていた。
そこへ、すらりとした影が入ってくる。歩みは優雅だが、威厳を揺るがせず、まさしく「王」であることを示す佇まい。アーク=ヴァルツだ。
彼は静かに席に着き、机の上にそっと書簡を置いた。
「ミカ――これ、読みましたか?」
その書簡は、他国代表から届いた、軍事同盟提案の返答依頼だった。
ミカは目を上げ、小さく頷いた。
「はい、読みました。ほとんど準備は済んでおりますが、“この一文”だけは迷っています」
アークはそれを引き取り、軽く指でなぞった。
「『相互理解と誓約の絆を深める』とありますが、“絆”というのはやはり曖昧な響きでは……」
ミカは柔らかく微笑んだ。
「……“絆”は曖昧だからこそ、力を持つ言葉です。相手との距離を測りつつ、信頼を築く。書けたはずの言葉が、重く感じるからこそ妥当なのです」
アークはその言葉に少し戸惑った顔を見せながら、やがて唇を緩めた。
「ああ……さすが、私の王妃にして秘書たる者だな」
「はい、それでも、王妃たる者の立場を考え、慎重に。主権を渡すつもりもなく、しかし共に道を歩む意思は示せるように」
ミカの視線は真っ直ぐだ。言葉は柔らかいが、その芯は確かだった。
やがて床の石の音が、二人だけの時間に響く。アークは一歩前へ進み、ミカの手を取った。
「君がいなければ――私は、こんなにも落ち着いて書簡を扱えない」
ミカは少し目を伏せながら答える。
「王妃であり、秘書ですから。あなたが安心して踏み出せる一歩が書けるよう、私はここにいます」
その言葉にアークはうっすらと微笑んだ。
「……しかし。時々思うのだ。君と私が出会う前、私は俺であった。君と出会う過程で、私はずいぶん変わった」
彼の言葉にミカは顔を上げる。
「あなたが“魔王”である前に、“アーク”なのは、その通りです。変わったのは、私が“秘書”として寄り添うからでしょうか」
「ああ、そうかもしれん。君と出会う前は――」アークは柔らかいまなざしを向けて続けた。「――俺は、自分が“魔王としての俺”を全うするだけで精一杯だった」
ミカはそっと、書簡を隣に置かせた。
「そして、王妃としてのあなたは“秘書”から“妻”へ。“公”に加えて“私”を生きている。私は、そこに惹かれました」
アークの胸中に、小さな震えが走る。
白銀の月光が窓から差し込み、柔らかな光の帯を二人に落とす。
アークは立ち上がり、ミカと向き合った。
「……君の存在が、俺の惑いを救っている。王と夫、魔王と父、その両立を果たせる気がする」
ミカは小さく頷いた。
「共に試し、共に歩む――私は、あなたにそれ以上の頼りはありません」
言い終えると、彼女の肩にそっと手を添えるアーク。
その手にはもう「秘書として導く者」という職責だけではなく、「夫として、愛おしむ者」の温かみが宿っていた。
一瞬の静寂の後、ミカの小さな笑い声が広間に響いた。
「では、せっかく“夫婦”として向き合うのなら――」
そう言いながら彼女は懐から小さな砂糖菓子を取り出した。
「お茶会でも、楽しみましょうか?」
アークはその菓子を受け取り、微笑んだ。
「……いいだろう。書簡は明日の朝一で送れば、十分間に合う」
ミカは丁寧に礼をしてから、二人で優雅にお茶を淹れ始める。カップの音と水音だけが、夜の静寂を包んでいた。
そして、小さくて安らかな時間が流れる。
アークがグラスを傾け、そしてそっと言う。
「……君といると、俺も“普通の男”としていられる気がする」
ミカはちらりと見上げ、温かに答える。
「それは、夫婦の特権ですね」
アークは軽く笑い、礼を返した。
「では、明朝はまた“魔王”に戻るとしよう」
ミカはカップを差し出しながら、ささやくように言った。
「ええ、私は“秘書”として戻ります」
そして――二人は同じ空間で、それぞれの笑みを交わし合った。
政務と愛情。責務と個人。王と夫であるアーク。その隣で、秘書と妻であるミカ。
二人は時に硬く、時に柔らかく、夜の王宮で共にあり続けた。
その姿こそが、「魔王城」が抱える最深の秘密であり、最強の光でもあったのだった。




