表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
158/237

158話 夫婦として、王と秘書として

宮廷の大広間が静寂に包まれる。日の入りとともに執り行われた高位の外交会議は終わりを迎え、列席した貴族や使節団が次々と退出していく中、王妃ミカはただ一人、議場に残って草稿の修正を進めていた。


そこへ、すらりとした影が入ってくる。歩みは優雅だが、威厳を揺るがせず、まさしく「王」であることを示す佇まい。アーク=ヴァルツだ。


彼は静かに席に着き、机の上にそっと書簡を置いた。


「ミカ――これ、読みましたか?」


その書簡は、他国代表から届いた、軍事同盟提案の返答依頼だった。


ミカは目を上げ、小さく頷いた。


「はい、読みました。ほとんど準備は済んでおりますが、“この一文”だけは迷っています」


アークはそれを引き取り、軽く指でなぞった。


「『相互理解と誓約の絆を深める』とありますが、“絆”というのはやはり曖昧な響きでは……」


ミカは柔らかく微笑んだ。


「……“絆”は曖昧だからこそ、力を持つ言葉です。相手との距離を測りつつ、信頼を築く。書けたはずの言葉が、重く感じるからこそ妥当なのです」


アークはその言葉に少し戸惑った顔を見せながら、やがて唇を緩めた。


「ああ……さすが、私の王妃にして秘書たる者だな」


「はい、それでも、王妃たる者の立場を考え、慎重に。主権を渡すつもりもなく、しかし共に道を歩む意思は示せるように」


ミカの視線は真っ直ぐだ。言葉は柔らかいが、その芯は確かだった。


やがて床の石の音が、二人だけの時間に響く。アークは一歩前へ進み、ミカの手を取った。


「君がいなければ――私は、こんなにも落ち着いて書簡を扱えない」


ミカは少し目を伏せながら答える。


「王妃であり、秘書ですから。あなたが安心して踏み出せる一歩が書けるよう、私はここにいます」


その言葉にアークはうっすらと微笑んだ。


「……しかし。時々思うのだ。君と私が出会う前、私は俺であった。君と出会う過程で、私はずいぶん変わった」


彼の言葉にミカは顔を上げる。


「あなたが“魔王”である前に、“アーク”なのは、その通りです。変わったのは、私が“秘書”として寄り添うからでしょうか」


「ああ、そうかもしれん。君と出会う前は――」アークは柔らかいまなざしを向けて続けた。「――俺は、自分が“魔王としての俺”を全うするだけで精一杯だった」


ミカはそっと、書簡を隣に置かせた。


「そして、王妃としてのあなたは“秘書”から“妻”へ。“公”に加えて“私”を生きている。私は、そこに惹かれました」


アークの胸中に、小さな震えが走る。


白銀の月光が窓から差し込み、柔らかな光の帯を二人に落とす。


アークは立ち上がり、ミカと向き合った。


「……君の存在が、俺の惑いを救っている。王と夫、魔王と父、その両立を果たせる気がする」


ミカは小さく頷いた。


「共に試し、共に歩む――私は、あなたにそれ以上の頼りはありません」


言い終えると、彼女の肩にそっと手を添えるアーク。


その手にはもう「秘書として導く者」という職責だけではなく、「夫として、愛おしむ者」の温かみが宿っていた。


一瞬の静寂の後、ミカの小さな笑い声が広間に響いた。


「では、せっかく“夫婦”として向き合うのなら――」


そう言いながら彼女は懐から小さな砂糖菓子を取り出した。


「お茶会でも、楽しみましょうか?」


アークはその菓子を受け取り、微笑んだ。


「……いいだろう。書簡は明日の朝一で送れば、十分間に合う」


ミカは丁寧に礼をしてから、二人で優雅にお茶を淹れ始める。カップの音と水音だけが、夜の静寂を包んでいた。


そして、小さくて安らかな時間が流れる。


アークがグラスを傾け、そしてそっと言う。


「……君といると、俺も“普通の男”としていられる気がする」


ミカはちらりと見上げ、温かに答える。


「それは、夫婦の特権ですね」


アークは軽く笑い、礼を返した。


「では、明朝はまた“魔王”に戻るとしよう」


ミカはカップを差し出しながら、ささやくように言った。


「ええ、私は“秘書”として戻ります」


そして――二人は同じ空間で、それぞれの笑みを交わし合った。


政務と愛情。責務と個人。王と夫であるアーク。その隣で、秘書と妻であるミカ。


二人は時に硬く、時に柔らかく、夜の王宮で共にあり続けた。


その姿こそが、「魔王城」が抱える最深の秘密であり、最強の光でもあったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ