156話 朝の執政、夜の笑顔
第5部 継がれし焔、継がれし志 ―子供たちの成長譚―
子供たちの成長物語+父・母物語
副題:その名を背負う者たちが、未来へと歩み出す物語
この部では、ミカとアークの3人の子どもたち――
ルシア(長男)・アレイド(次男)・アリア(長女)の成長を軸に、王族の子として、個人として、彼らが何を受け継ぎ、何に悩み、どう未来を選ぶのか
朝陽が魔王城の尖塔に差し込む頃、玉座の間には既に数名の文官と軍務官が詰めていた。淡い赤金の光を背に、魔王アークは重厚な椅子に腰かけ、視線を鋭く走らせる。
「この件、ラザル将軍の意見は?」
「はっ。南東の砦修繕については……」
アークの表情は終始冷静だった。魔王として十年以上の歳月を歩み、国内外の多くの難題を乗り越えてきた男。その眼差しは、かつての激情よりもはるかに沈着で、周囲を飲み込むような気迫と説得力を備えている。
執政官の一人が小さな咳払いをして進言する。
「北方との貿易拠点建設に関し、王妃殿下の提案した文官支援案が予算を圧迫しておりまして……」
「それで?」
「一部、兵站予算との折衷を求める声が――」
アークは口元をわずかに動かし、目を伏せた。
「それは無粋というものだな。民の安寧は、軍の力のみでは成らぬ。――王妃の案を尊重しろ。」
一瞬、空気が止まり、やがて官僚たちは顔を見合わせて深く頷いた。
「はっ、仰せの通りに。」
そう、アークは“王妃の案”と呼んだ。今や、ミカの名は城内外を問わず、行政の要としての重みを持ち始めていた。誰よりも正確に事実を把握し、誰よりも冷静に情勢を読み、誰よりも民の暮らしに目を向ける――かつての「秘書」は、今や「王妃」でありながら、国の神経そのものだった。
午前の執政が終わると、アークは一度立ち上がり、広間の一角にある開放窓に歩み寄った。眼下には訓練場で剣を交える兵たちと、その隅で遊ぶ三つの小さな影が見えた。
「……また庭に出ているのか。」
微笑ましさと、ほんの少しのため息。
庭で遊ぶのは、ルシア、アレイド、そしてアリア。三人の子どもたち――ミカとの間に生まれた、大切な命たち。
彼らは“王の子”として日々成長していたが、アークは彼らを“ただの子ども”としても見守っていた。
「……父としての時間も、もっと取らねばな。」
誰にも聞こえぬ呟き。だがそれは、王としての自覚と父としての葛藤のあいだで揺れる、彼自身の本音でもあった。
夜。政務を終え、アークが王妃の私室に入ると、ミカが机に向かって何かを綴っていた。
「……まだ仕事か?」
「あと少しです。明日の医療部門の報告書に添える提案を……」
アークは背後から近づき、彼女の肩に手を置いた。
「ミカ、夜は夜の顔がある。――お前は、今日何を食べた?」
「……う。」
「やはり、食べていないか。」
言葉は叱責ではない。だが、その声には静かな憂いと、確かな愛情があった。
ミカはペンを置き、くるりと振り返る。
「……子どもたちは?」
「アリアが風の魔法で花壇を吹き飛ばした以外は、平和だった。」
「アリア……!」
「ああ、ルシアがなんとか抑えてくれたよ。アレイドは相変わらず“砂の音楽”を発明していた。」
「砂の……?」
「私にもよく分からん。」
二人はくすっと笑い合う。
アークはミカの隣に腰を下ろし、小さく息をついた。
「……君はどうして、変わらずこの“重荷”を背負い続けられる?」
「重荷だと思ったことは、一度もありません。」
ミカは静かに首を振った。
「私は、あなたの傍にいたくて、ここにいるだけです。」
その言葉に、アークはほんの少しだけ顔をそらした。感情を隠すのが難しくなってきたのは、歳のせいではないだろう。
「……私は魔王だ。」
「私はその魔王の妻で、三人の子の母です。」
「……恐れ知らずだな。」
「今に始まったことではありませんよ?」
アークはその言葉に負けて、微かに笑う。
「ミカ。今夜は、君の笑顔だけが私の薬だ。」
「ならば、王の命令とあらば。」
ミカは少しだけ照れたように笑い、アークの胸に身を寄せた。彼の手が自然と彼女の肩に回る。
政務、戦略、外交――いかなる試練の後でも、この部屋だけは、静かで穏やかだった。
そこには魔王も秘書もなく、ただの“夫婦”と“家族”がいた。
深夜、アークは灯りを消し、眠るミカと三人の子を見守るように、そっと寝台に腰かける。
「……父とは、難しいな。」
独白。
「強さだけでは、守れぬ。優しさだけでも、育てられぬ。」
月明かりが窓から差し込み、白銀のように室内を照らす。
その静けさの中で、アークの目元がほんの僅かに緩む。
「だが――君たちの未来のためなら、私は何度でも魔王になる。」
そう呟いたその時、小さな声が布団の中から聞こえた。
「……とうさま?」
それはアリアの声だった。まだ言葉もつたなく、けれど確かに彼女は目を開けていた。
「なに?」
「ぎゅって……して?」
アークは笑った。
「任せろ。お前が嫌がる日までな。」
そして、そっとアリアを抱き寄せる。小さな手が、彼の大きな胸に触れた。
それは“魔王”ではなく、“父”の姿だった。
――アーク。二つの名を持つ男の、二つの顔。
それは矛盾ではない。誇りだった。




