151話 兆し ―命宿る日
春の柔らかな光が魔王城の中庭に注ぎ込み、ミカは花咲く樹の下で風に揺れる花びらを静かに見つめていた。
最近、朝になると胸の奥がきゅうと締め付けられるような感覚があった。目覚めの時間に合わせていた身体が、思うように動かない。立ちくらみ、吐き気、そして唐突な眠気。
最初は疲労かと思っていたが、次第にその違和感が“ただの体調不良”ではないと感じ始めていた。
「……リュナ、少し……お腹が……」
隣に控えていた副官リュナが、すぐさまミカの腕を取り、支えるようにして言った。
「顔色が悪いです。執務は一時中止して、医療長に診せましょう」
「でも……仕事が……」
「命あっての職務です。さあ、行きましょう」
リュナの有無を言わさぬ口調に、ミカは静かに頷いた。
* * *
診察を終えた医療長が、神妙な顔つきでミカに向き直る。
「……おめでとうございます。ミカ様、あなたのお腹には、命が宿っています」
その瞬間、時間が止まったような気がした。
「い、命……?」
「はい。ご懐妊です。おそらく、すでに一ヶ月ほど」
ミカの目に涙がにじむ。嬉しさとも、驚きともつかぬ感情が、胸を満たしていく。まるで、春の風が内側から吹き抜けるような感覚だった。
その夜、彼女は一人、王の私室の扉の前に立った。
「……アーク様。お話があります」
扉が開くと、魔王アークが静かに振り返る。
「ミカ……?」
「私……子を授かりました」
アークは微動だにせず、数秒だけ静止し、やがて表情をゆっくりと綻ばせた。
「……そうか。ありがとう。……ありがとう、ミカ」
その言葉に、ミカの胸は熱くなった。抱きしめられるでもなく、ただその声に、すべてが包まれたような安心感があった。
* * *
翌日。
魔王城内にさざ波のように「妃がご懐妊された」という噂が広がっていった。
反応は様々だった。喜び、驚き、安堵、そして一部には不穏な囁きもあった。
「……人間の出だろう?」
「王は一時の情で動かれているのでは……?」
だがそれらの陰は、日々アークが政務において冷静沈着であり、ミカもまた変わらず秘書としての職務をこなす姿によって、徐々に打ち消されていった。
夜、ミカは寝台の上で、ふと自らの腹に手を当てた。
「小さな命……あなたは、誰に似るのかしら」
アークがその手の上から優しく重ねてくる。
「君に似れば、優しく聡い子になる。私に似れば……頑固で厄介だ」
「ふふ……でも、きっと、あなたを選んでくれた命よ」
アークは彼女の額に口づけを落とし、呟いた。
「君と、この子と――私のすべてをかけて、守る」
その言葉に、ミカは涙を堪えきれず、そっとアークの胸元に顔を埋めた。
* * *
春は、ゆっくりと夏へと向かっていた。
ミカの体は徐々に変化していく。
匂いに敏感になり、食事の好みが変わり、時に涙もろくなり。
しかし、それらのすべてをアークは静かに受け入れ、寄り添い続けた。
ある晩、リュナがひとりごとのように呟いた。
「ミカ様は、やっぱり“光”なのですね」
それに対し、アークは微笑んで答える。
「ならば私は、その光を受け止める夜空になろう」
それは、王としての誓いであり、夫としての願いだった。
この日から、魔王城に本当の“家族”という光が、静かに芽吹き始めたのだった。




