15話 主人公の“この世界に住む覚悟”
魔王城に戻った夜、主人公・一条悠真は自室の書斎にひとり座っていた。
視察で見た市場の賑わい、文化の成熟、観光地に溢れる笑顔――そして、迷子の少女と再会した家族の涙。
ひとつひとつの記憶が、脳裏に色濃く焼き付いている。
この国には“戦争”とは違う意味での“生命”がある。
それは“働き”・“学び”・“笑い”・“暮らす”という、あたりまえの営みだった。
「――俺は、なぜこんなに心を動かされているんだろうな……」
ぼそりとつぶやいた瞬間、ノックの音がした。
「お疲れのところ、失礼しますの。よろしければ、少しお時間をいただけますか?」
リリス様だった。
珍しく、ひとりで。しかも、私服――王族らしい品格は保ちつつも、柔らかく優しい佇まい。
「どうぞ、お入りください」
ふたりで湯気の立つ香草茶を飲みながら、リリス様はぽつりと語り出した。
「視察中、あなたの働きぶりを見て……確信しましたの。
この世界に“あなたが必要だ”と、魔王様は本気で思っておられる、と」
「……それは、光栄ですが」
「あなたはまだ、心のどこかで“戻れるかもしれない”と考えていませんか?」
その問いに、悠真は言葉を詰まらせた。
確かに、彼の心にはまだ「元の世界」への未練が、わずかに残っていた。
家族、友人、築いたキャリア――失ったものは多い。
けれど、“過労死”という結末が示す通り、すべてが満たされていたわけではなかった。
「この世界に来て……俺は初めて、自分の判断で働いて、自分の言葉で会議を動かして、自分の意思で誰かを守った」
思わず、胸の内が口をついて出た。
「魔王軍のことも、魔族の人々の暮らしも、知れば知るほど“手を差し伸べたい”って思うんです」
リリス様は、そっと頷いた。
「その気持ちこそが、魔王様があなたに望んでいたものですわ」
沈黙が少し流れたのち、悠真はおもむろに立ち上がり、書斎の本棚から一冊の手帳を取り出した。
そこには、これまで取り組んできた業務改善案や、魔王軍の組織図、経済モデルの試案がびっしりと書かれていた。
「俺、気づいたんです。この手帳――誰かに“読んでほしい”って思って書いてたんですよね。
元の世界では“評価”とか“実績”が目的だった。でも今は……“誰かのために”って自然に考えてる」
それは、かつてブラック企業で心を擦り減らしていた彼にはなかった感情だった。
「もう、戻る場所はないかもしれない。……でも、この世界なら、俺は“生きてる”って言える気がします」
リリス様が小さく微笑んだ。
「その覚悟が、あなたの未来をきっと形づくりますわ」
その翌日、悠真は正式に“魔王直属補佐官”として任命される。
これまでの秘書職に加えて、戦略計画や民政にも関与することが許されたのだ。
魔王との謁見の場、黒曜の玉座に座る魔王アーク=ヴァルツは、悠真の目をまっすぐ見据えた。
「お前が決めたことなら、我は何も言うまい。だが……逃げることは許さぬぞ」
「はい、承知しています。魔王様」
「ならば、その命、我が軍のために使いきれ」
その言葉に、悠真は深く一礼した。
夜、自室の窓を開けて外を見れば、城下の灯りがまばゆく瞬いていた。
風がそっと吹き抜ける。
「――ここで、生きていく」
その決意は、もう迷いではなくなっていた。




