147話 揺れる城内 ―囁きと陰の声
正式な婚姻の宣言がなされてから、まだ三日しか経っていなかった。
だが、魔王城の内部、特に上層の政務に関わる者たちの間では、静かなる動揺が確実に広がっていた。
──秘書ミカが、正妃に?
それは突如として落とされた一石のように、広い水面に波紋を広げていった。
朝の執務前の回廊、軍議室の奥の控室、医療塔の食堂、そして兵舎の喫煙所まで。声にならぬ噂はどこまでも広がり、やがて確かな形を持ち始める。
「いや、驚いたね。てっきり四天王の誰かの縁者かと……」
「……それが、“元は人間”の転生者だろ? 肉体も後から変わったと聞く」
「うわさじゃ、“本物の女”じゃないって話もあるぜ」
「魔王陛下も、変わられたな……」
陰口の類は、直接耳に届くことはなかった。
だが、ミカはそれを“空気”で知った。言葉よりも冷たい沈黙が、何より雄弁に語っていた。
応接の間では、使節を迎える際に同行した側近が一歩引き、廊下では微妙な間合いが生まれる。口調は丁寧でも、声色に棘がある。視線が逸らされることもあれば、あからさまに見つめられることもある。
その全てが、「あなたは異質だ」という無言の告発だった。
ミカは、夜の執務室で机に向かっていた。文書に筆を走らせながらも、その端正な顔には一切の感情が見えなかった。けれどその指先は、わずかに震えていた。
──こんなこと、予想していた。覚悟もしていた。
でも、こんなに“痛い”とは思っていなかった。
扉が、静かに開いた。
振り返ると、そこに立っていたのはリュナだった。
「……お疲れ様です、ミカ様」
「ありがとう。今、少しだけ片づけていたところです」
ミカは微笑みを作って立ち上がる。
リュナはそんな彼女を見つめ、静かに言った。
「……無理を、しすぎないでください」
「無理など……していませんよ?」
そう言いながら、ミカの声には僅かに翳りがあった。
リュナは一歩近づいて言う。
「わたしも、耳にしています。いろいろな“声”を。嫉妬や、偏見や、無知から来る憶測……」
「それが、この国の現実なのですね」
ミカの声は、淡々としていた。
「それでも私は、ここにいる。私は魔王陛下の秘書であり、彼の決定を支える者です。個人的な感情で揺らぐつもりはありません」
だが、リュナは黙って抱きしめた。静かに、そっと。ミカの細い肩を、その腕で包むように。
「あなたがどんな想いで、この場所に立っているか。私は知ってます……」
ミカの目に、一筋の涙が浮かんだ。それでも、声を上げることはしなかった。
「ありがとう、リュナ。私は……もう少しだけ、頑張ります」
その夜、ミカは再び執務机に戻った。だが、灯りを灯す手はもう震えていなかった。
*
一方、王の間。
アークは四天王の一人、暗黒の将ベイゼルと対面していた。ベイゼルは従順な臣下であると同時に、最も“正義感”の強い男でもあった。
「陛下……お言葉を返すようですが、今回のご決定……あまりにも、急ぎすぎではありませんか」
アークは微笑を浮かべたまま、ベイゼルの言葉に耳を傾けていた。
「彼女を正妃に、とは。民も、そして軍部も、動揺を隠してはおりません」
「……ミカを見て、どう思った」
「……真っ直ぐな方です。誠実で、他者を思いやり、己の責務を果たすことに誇りを持っている」
「ならば、それ以上に何が必要だ?」
「……出自が」
アークの目が鋭く細まる。
「この国にとって、“血”が正統なのか。“想い”が正統なのか。お前は、どちらを取る」
「…………想い、です」
ベイゼルは低く頭を垂れた。
「ならば、私もそうしよう。──正しき王の正妃は、正しき魂を持つ者であるべきだ」
そう言った魔王の言葉は、静かでありながら、どこまでも揺るぎなかった。
*
ミカの周囲には、少しずつ変化が起き始める。
リュナをはじめ、かつての秘書候補たちも彼女を支え始め、言葉ではなく、行動で“受け入れ”を示していった。
沈黙の圧力に打ち勝つためには、時間と“信頼”が必要なのだ。
そして、その信頼は確かに、少しずつ積み上げられつつあった。
まだ多くの声がある。
だが、それでもミカは顔を上げて、前を向いて歩き続ける。
この愛を、この道を、決して後悔しないために。




