143話 誰にも告げぬ、小さな嫉妬
市場からの帰路、ミカの心はなぜかざわついていた。頬に当たる風は心地よく、アークの隣で歩くというだけで幸福なはずなのに、胸の奥に、小さなトゲのようなものが刺さっている。
「……あの花屋の女主人、アークに随分馴れ馴れしかったわね」
そう口に出してみたものの、ミカはすぐに自分の声音が拗ねたように響いたことに気づき、赤面した。
「ふふ、それは妬いているのかい?」と、アークは茶目っ気たっぷりに笑う。
「べ、別に、そんなことでは……!」
だが、アークがあの花屋の女性と親しげに話す姿が、ミカの目に焼きついて離れなかった。話していた内容はごく普通の世間話――市場の花の入荷状況や天候の話だったはずだ。
それでも、彼女は見ていた。アークがその女性に向けた、穏やかで優しい笑みを。
「私は、特別……だと思っていたのに」
その呟きは、誰にも届かないほど小さくて。
アークがふと足を止めた。ミカも驚いて立ち止まり、振り返ると、彼が真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「ミカ」
「……なに?」
「私が今日、君と一緒に来た理由を知ってるかい?」
「え?」
「私が、毎日の政務から手を離して、こうして君と過ごす時間を作った理由だ」
ミカは目を伏せた。胸がドキドキと騒がしく跳ね、まるで自分の内心を見透かされたような気がして、顔が熱くなる。
「それは……その、気分転換、ですか?」
アークはそっと近づき、ミカの顎に指を添えて、顔を上げさせた。
「違う。君が、好きだからだ」
その言葉に、心臓が跳ねるように震えた。
「私は、君と並んで歩きたかった。君の笑顔を、そばで見たかった。……私が誰かに向けて笑うとしたら、それは君の笑顔を見たときだけだよ」
ミカはその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。胸の中に広がっていた小さな嫉妬の棘が、優しい言葉の光に溶けていくようだった。
「ごめんなさい、私……」
「妬いてくれて、嬉しかったよ」
「……っ、アーク、もう……」
ふいにアークがその額をミカの額にそっと寄せた。
「誰かに向ける私の表情が、君にとって気になるのなら、それはもう恋だ。違うかい?」
ミカの瞳が大きく見開かれ、次第に潤んでいく。
「違いません……。でも、私は……恋なんて、もっと軽いものだと思ってた。胸が苦しくなるほどなんて、思わなかった」
「それでも、君は私を選んでくれた。それが何より、嬉しい」
ミカはこくんと頷いた。
「……私はあなたが、誰にも見せない顔を、もっと見たい。誰かに向けた笑顔じゃなくて、私だけに見せてくれる顔を」
「君だけの笑顔を、これからも見せていこう。……その代わり、君も私にだけ見せてくれないか。今みたいに、拗ねたり、妬いたり、素直なミカを」
「やっぱり、からかってますね……」
「いや、違う。本当に嬉しかったんだ。ミカが、私のことで胸を痛めるほど、私を想ってくれていたことが」
ふと吹き抜けた風が、ミカの髪を揺らした。アークはその髪をそっと押さえてやりながら、いたずらな笑みを浮かべる。
「今日は風が強いね。……でも、君の気持ちは、ちゃんと届いている」
市場で買った花束を抱えて、二人はまた歩き出した。手は触れていない。それでも、心は確かにつながっていた。
誰にも言えない、けれど確かに芽生えた、小さな嫉妬。そしてその嫉妬は、恋という名の大切な証になって、ミカの胸にそっと灯った。
その想いは、これからの未来を紡ぐ糸のように、細く、けれど決して途切れない光を放っていた。




