142話 風の花市場にて
王都の北側、風の花市場。色とりどりの布地がはためき、香草と果実の香りが混ざり合う活気の中に、ミカとアークの姿があった。
「本当に、ここに来たかったのですか?」
ミカは一歩後ろを歩きながら問う。いつものように書類ではなく、柔らかな布のワンピースを着ていた。髪も軽く編まれ、いつもの秘書としての装いとはまるで違う。
アークは振り返り、にこりと微笑む。
「うん。政務の合間に“市場を視察する”という名目なら、誰も咎めはしないだろう?」
その言葉に、ミカも思わず微笑んだ。
「視察と言うには……あまりに、楽しそうですが」
市場の通りには、民たちの笑顔と商人たちの声が溢れていた。子どもたちが花の冠を頭に乗せて駆け回り、老婦人が編んだ麦わら帽子を差し出してくる。
「ほら、王様、これ似合うよ」
「おい、こら、王様って言うな……」
子どもたちの屈託のなさに、アークは肩をすくめながらも、帽子をかぶせてもらう。その様子を見て、ミカの胸が静かに温かくなる。
「……陛下が、こうして笑っていられる時間が、もっと増えたらいいのに」
ふと、ミカは心の中でそう呟いた。
それは職務ではない、秘書の責務でもない、ただ“ミカ”という一人の人間の、率直な願いだった。
果実店の前で、アークが立ち止まった。
「ミカ、これ……好きだったよね?」
差し出されたのは、小ぶりな赤い果実の串。以前、仕事の合間に一緒に食べたものだ。ミカは驚いたように瞬きをして、ゆっくりと頷いた。
「覚えていて、くださったんですね」
「うん。君が少しだけ、苦い顔して、でも最後には笑っていたから。……あの笑顔が、忘れられなかった」
ミカは何も言えず、果実の串を受け取る。
その瞬間、風が吹いた。
市場の布地が舞い、乾いた香草の香りが空を渡る。
「アーク……私は、今ここにいる自分が、少しずつ変わっていくのを感じます」
ミカの声は小さく、けれど確かな響きを持っていた。
「昔の私は、ただ命じられるまま、与えられた職務を果たすことがすべてだと思っていました。けれど、あなたとこうして並んで歩くとき……私は、“役目”ではない何かで、あなたの隣にいたいと……そう思うんです」
アークは立ち止まり、ゆっくりとミカの正面に向き直った。
「ミカ。私は王だ。君は私の秘書だ。それでも……君がもし、すべてを手放して“ただの人間”として生きたいと思うなら、私はそれを止めはしない」
ミカの瞳が揺れる。
「でも、もし君が“ミカ”という名のもとに、この国に生きたいと望むなら……私は、君を守り抜く」
そう言ったアークの手が、ミカの手に重ねられる。
周囲の喧騒が、風に紛れて遠ざかっていく。
「……選んでも、いいのですか? “あなたの隣”を」
「それを望むことは、罪じゃない」
ミカの手が、ほんの少しだけ力を込めて握り返した。
市場の中央、風の花を束ねた花売りの少女が、二人に花を差し出す。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、これあげる! 恋人同士のおまじないだよ!」
ミカが真っ赤になる。アークは苦笑しながら花を受け取り、ミカの髪にそっと挿した。
「……この花、よく似合う」
「……もう。そういうことを、さらっと言うのは、ずるいです」
二人の笑顔が、風に運ばれて、広がっていく。
政も、責務も、使命もひととき忘れた――
ただの一人の男と、一人の女性としての時間。
そのひとときが、確かに“未来”の礎になっていた。




