表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
142/244

142話 風の花市場にて

王都の北側、風の花市場。色とりどりの布地がはためき、香草と果実の香りが混ざり合う活気の中に、ミカとアークの姿があった。


「本当に、ここに来たかったのですか?」

ミカは一歩後ろを歩きながら問う。いつものように書類ではなく、柔らかな布のワンピースを着ていた。髪も軽く編まれ、いつもの秘書としての装いとはまるで違う。


アークは振り返り、にこりと微笑む。

「うん。政務の合間に“市場を視察する”という名目なら、誰も咎めはしないだろう?」


その言葉に、ミカも思わず微笑んだ。


「視察と言うには……あまりに、楽しそうですが」


市場の通りには、民たちの笑顔と商人たちの声が溢れていた。子どもたちが花の冠を頭に乗せて駆け回り、老婦人が編んだ麦わら帽子を差し出してくる。


「ほら、王様、これ似合うよ」

「おい、こら、王様って言うな……」


子どもたちの屈託のなさに、アークは肩をすくめながらも、帽子をかぶせてもらう。その様子を見て、ミカの胸が静かに温かくなる。


「……陛下が、こうして笑っていられる時間が、もっと増えたらいいのに」


ふと、ミカは心の中でそう呟いた。


それは職務ではない、秘書の責務でもない、ただ“ミカ”という一人の人間の、率直な願いだった。


果実店の前で、アークが立ち止まった。

「ミカ、これ……好きだったよね?」


差し出されたのは、小ぶりな赤い果実の串。以前、仕事の合間に一緒に食べたものだ。ミカは驚いたように瞬きをして、ゆっくりと頷いた。


「覚えていて、くださったんですね」


「うん。君が少しだけ、苦い顔して、でも最後には笑っていたから。……あの笑顔が、忘れられなかった」


ミカは何も言えず、果実の串を受け取る。


その瞬間、風が吹いた。

市場の布地が舞い、乾いた香草の香りが空を渡る。


「アーク……私は、今ここにいる自分が、少しずつ変わっていくのを感じます」


ミカの声は小さく、けれど確かな響きを持っていた。


「昔の私は、ただ命じられるまま、与えられた職務を果たすことがすべてだと思っていました。けれど、あなたとこうして並んで歩くとき……私は、“役目”ではない何かで、あなたの隣にいたいと……そう思うんです」


アークは立ち止まり、ゆっくりとミカの正面に向き直った。


「ミカ。私は王だ。君は私の秘書だ。それでも……君がもし、すべてを手放して“ただの人間”として生きたいと思うなら、私はそれを止めはしない」


ミカの瞳が揺れる。


「でも、もし君が“ミカ”という名のもとに、この国に生きたいと望むなら……私は、君を守り抜く」


そう言ったアークの手が、ミカの手に重ねられる。

周囲の喧騒が、風に紛れて遠ざかっていく。


「……選んでも、いいのですか? “あなたの隣”を」


「それを望むことは、罪じゃない」


ミカの手が、ほんの少しだけ力を込めて握り返した。


市場の中央、風の花を束ねた花売りの少女が、二人に花を差し出す。

「お姉ちゃん、お兄ちゃん、これあげる! 恋人同士のおまじないだよ!」


ミカが真っ赤になる。アークは苦笑しながら花を受け取り、ミカの髪にそっと挿した。


「……この花、よく似合う」


「……もう。そういうことを、さらっと言うのは、ずるいです」


二人の笑顔が、風に運ばれて、広がっていく。


政も、責務も、使命もひととき忘れた――

ただの一人の男と、一人の女性としての時間。


そのひとときが、確かに“未来”の礎になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ