137話 その指先は、誰にも触れさせぬ
夜の帳が深く落ちた魔王城の一角、私室の灯は揺らめく暖色の光に包まれていた。静謐な空気が漂い、外の風の音さえ、まるで遠い夢のようにしか届かない。
ミカはアークのすぐ隣に立っていた。窓辺に置かれた薄青い香炉からは、静かに香が立ち上り、まるで時間の流れをゆるやかにしているかのようだった。
「ミカ……」
低く、囁くような声で名を呼ばれ、ミカは振り返った。アークの目が、夜の深さよりも濃い闇を湛えている。その瞳に吸い込まれそうになりながら、ミカは何も言えずに視線を逸らそうとする。
だが、次の瞬間、彼の指先がそっと頬へ伸びた。人差し指が、髪をひと房すくい取って耳の後ろへと流す。
「その瞳を、どんなに求めていたか……君には、わかるか?」
かすれそうなほど静かな声音だった。だが、それが逆に胸を打った。ミカの胸が、波打つように震える。肌の内側が熱を帯びていく。
「アーク……」
目を見開いたまま、ミカは言葉を探した。けれど見つからず、ただ自分の胸の奥の音がどれほど強く響いているかだけが、耳の奥に刻みつけられていた。
アークは彼女の頬に手を添えた。優しい、けれど確かな温もりが、皮膚を通して心の奥にまで触れてくる。
「君がただの部下であるうちは、触れてはならないと思っていた。けれど、君はもう……私の隣に立つ者だ」
ミカの瞳に、淡く涙がにじんだ。あふれそうになる気持ちを堪えながら、口を開く。
「私は、あなたの一部になっても構いません。誰にも知られなくても、名も立場も関係なく……ただ、あなたの傍にいたい」
アークの手が彼女の手を包み込む。その指先がゆっくりと絡み合い、解けぬ結びのように指を重ねていく。
「ミカ、それは……誓いになる」
その一言が、空気を変えた。沈黙の中で、互いの呼吸の音だけが確かに響く。
アークの顔がゆっくりと近づき、ミカもまた目を閉じる。
唇が触れ合った。
一瞬、世界のすべてが凍りついたように静かになった。
風も、炎の音も、心臓の鼓動すらも。
その瞬間、彼女は知った。これは情熱でも、欲望でもない。
誓い。
誰にも明かされることのない、二人だけの、永遠に近い約束。
やがて唇が離れ、アークはそっと囁いた。
「この手は、君だけに触れる。誰にも……触れさせはしない」
ミカは静かに頷き、そして彼に、再び唇を重ねた。
言葉はいらなかった。
ただ、その手が、心が、確かに彼女に触れている――それだけで、世界は満ちていた。




