133話 夜を越える、想いと涙
闇は静かに城を包み、月すら隠れた夜の帳が落ちる。
ミカは執務室に隣接した療養室で、燃えるような高熱にうなされるアークの傍らに座っていた。
額に浮かぶ汗を拭いながら、彼女は何度も冷水に浸した布を替える。
その指先は震えていた。手の甲から、そして掌から伝わる熱は、まるで彼の命そのものが燃えているかのようだった。
「……アーク」
思わず名を呼ぶ。返事はない。
まぶたの裏で震えるように閉じられたアークの目元は、いつもの鋭さを失い、ただ苦痛に耐える無防備さだけを残していた。
「……どうして、あなたでなければ、こんなにも胸が痛まないのでしょう……」
思わず、心から漏れたその言葉に、ミカ自身が驚いた。
けれどもう、止められなかった。
彼が倒れた瞬間のことが脳裏に焼き付いている。
突然の魔力の暴走、蒼白になり膝をついた姿、そして誰にも触れさせぬように自らの魔力を封じ、彼女を遠ざけようとしたこと。
――「ミカ、君は……下がっていなさい。これは、私の業だ」
それでも彼女は、下がらなかった。
「違います、アーク。あなたの“業”に、私は向き合いたい。勝手でも、無力でも、私の居場所は……あなたの傍です」
そう言って駆け寄り、彼の身体を支えたあの瞬間。彼の手が、かすかに彼女の腕を掴んだ。熱に浮かされても、彼は彼女を拒まなかった。
そして今、こうして夜を越えて彼の看病を続けている。
ひとりきりの夜。静寂に包まれ、蝋燭の明かりがわずかに揺れる。
ミカは、アークの手をそっと取った。
「……あたたかい」
彼の手は、ずっと自分のために動いていた。
冷徹な判断を下しながら、民を守るために、彼は誰よりも傷を背負ってきた。
そして、その隣にいた自分は──本当に“秘書”でしかなかったのか?
違う、と胸の奥が叫ぶ。
「……私は、あなたが苦しむ顔なんて、見たくない」
そっと、アークの頬に触れる。
高熱で紅潮する肌、その中に震える命。
息が浅くなるたびに、ミカの心も締め付けられる。
「……あなたの笑顔が見たい」
言葉に出した瞬間、視界が滲んだ。
涙が、するりと頬を伝う。
「私は……ずっと自分に言い聞かせてきた。これは職務だって。忠誠心だって。あなたを尊敬しているからだって……」
震える声が、夜の静寂に溶けていく。
「でも……でも違う。私は、あなたがいない世界なんて……考えたくもない」
彼の指に、自分の指をそっと重ねる。
「これは……恋だ。私は、アーク、あなたを……」
そこまで言って、ミカは言葉を呑む。
彼が目を覚ましているわけでもない。それでも、口にすることで、ようやく自分の心に真実が届いた。
「私は、あなたを……愛している」
その言葉が落ちた瞬間、静かだった夜の空気が震えた気がした。
彼女の頬を伝う涙が、アークの手の甲に落ちる。
その雫に、彼の指が、ほんのわずかに反応したようにも見えた。
「……ミカ」
低く、かすれた声が聞こえた。寝言だったのか、それとも意識の底で呼んでいたのか。
ミカは答えるように、その手を強く握る。
「ここにいます。私は、ここにいますよ……」
心の底から溢れた想いを、ようやく言葉にできた夜。
それは痛みを伴う愛の始まりであり、
ただの“秘書”ではいられなくなった証でもあった。
蝋燭の炎が、ふたりを照らして揺れていた。
夜が明ければ、もう――戻れない。




