130話 誰でもない“私たち”へ
馬車の車輪が小さく軋み、早朝の霧がまだ大地を這うなか、帰路につく二人を包む空気は穏やかだった。
ミカは、アークの肩に自然と身を預けていた。緊張でも、遠慮でもない。ただそこに“居たい”という想いだけが、自分をそうさせている。昨夜から続く温もりが、まだ指先に宿っている気がした。
「……不思議ですね」 ミカが、微かに笑みを浮かべながらぽつりと呟く。
「何がだい?」アークは、ミカの髪を風が乱さぬように片手で軽く覆いながら訊ねた。
「ほんの数日前までは、私は“秘書”として、あなたの横にいたはずなのに……。今はもう、その肩書きが、必要じゃなく思えるんです」
アークは目を細めた。「それは、良い兆しだ。肩書きは仮初のもの。本質は、君が君であるということ」
「……うん、私、やっとわかった気がします」 ミカの声は、朝露のように透明で、心からのものだった。 「秘書でなくても、私は……ここにいていいんですね」
アークの視線が静かにミカに注がれる。その瞳には、どこまでも深い肯定があった。
「君が“君”である限り」
彼は優しく微笑み、そっとミカの頬に手を添えた。
「だから――その笑顔を、もっと見せてほしい」
ミカの頬がほんのりと染まり、しかしその目には迷いがなかった。
「……はい。あなたが見てくれるなら、私は、笑っていたい」
そうして、二人はしばらく何も言葉を交わさなかった。 ただ、馬車の揺れと、鳥のさえずりと、心の奥で芽吹いた柔らかな鼓動が、静かに響いていた。
長い旅の終わり。それは、役目の終わりではなく、心がひとつになる“始まり”だった。
「アーク」
「ん?」
「このまま……誰でもない、“私たち”でいたいですね」
「それが一番難しくて、一番尊いことだ。だからこそ、そうありたい」
ミカの指先がそっとアークの指に触れた。握るでも、離すでもない。ふたりの鼓動が、初めて“ひとつの未来”に向かい始めた瞬間だった。
魔王と秘書ではない。
アークとミカとしての人生が、ここから始まるのだった。




