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126話 外交という名の逃避行

早朝の霧が薄く漂う魔王城の中庭に、一台の馬車がひっそりと止まっていた。城門を通る者の目には映らぬ裏口から、静かに二人の影が現れる。


「……本当に、私たちだけで?」


ミカはアークの隣を歩きながら、小さく問いかけた。その声は驚きと、少しの不安を含んでいた。


アークは頷き、重たい黒のマントをはためかせながら馬車の扉を開ける。


「そうだ。今回は“表向き”には他国への視察――だが、実際のところは、君との旅だよ」


「旅……」


その言葉を口にしてみても、どこか現実感がなかった。魔王の秘書として、常に戦略の最前線にいたミカにとって、旅とは夢想に近いものだった。


馬車が静かに走り出す。ゆるやかな坂道を進む振動に身を委ねながら、ミカは小窓から差し込む朝日を見上げた。


「今日は護衛も、補佐官も、誰もいない。私たちは“魔王”でも“秘書”でもなく、ただの旅人だ」


アークの声音はいつになく柔らかかった。ミカはその響きに、肩の力が抜けていくのを感じた。


「……けれど、陛下が自らこんなことを企てるなんて、前代未聞ですよ」


ミカが少し眉をひそめると、アークはくすりと笑った。


「だからこそ意味がある。君がこの世界でどう生きるか――君の目で見て、君の言葉で感じてほしい。それが、私にとって何よりの『外交成果』だ」


その言葉に、ミカは心の奥をそっと撫でられたような気がした。使命でも任務でもない、個としての「自分」に向けられたまなざし。


やがて馬車は森の街道に入った。木々の間から差し込む光が、ミカの頬を照らす。馬車の天窓から見える空は、どこまでも高く澄んでいた。


「……静かですね」


「都市の喧騒を離れて初めてわかることもある。君は、しばらくそういう時間を持つべきだと思っていた」


ミカはアークの横顔を見つめた。冷徹な支配者ではなく、旅路の相棒としてそこにいる魔王。


「……私は、あなたの側で働くことに誇りを持っていました。でも……こんなにも“個人”としての自分が空っぽだったなんて」


「空っぽ、ではないよ。君の中には静かな炎がある。誰かのために、世界のために尽くす優しさが。私は……その火が燃え尽きる前に、少しだけ風を送りたかった」


ミカは言葉を失い、ただ胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


その日の昼、二人は森の途中にある小さな集落に立ち寄った。市場には地元の果物やパン、焼きたてのハーブパイが並び、ミカはアークと並んで露店を歩いた。


「これ、試食できますか?」


ミカが声をかけると、店の老婆が笑顔でパイの一切れを差し出した。ミカはそれを口に運び、思わず目を細める。


「おいしい……」


アークも同じものを口にし、どこか照れくさそうに頷いた。


「庶民の味は、誠実だろう? 豪華な宴よりも、こういう一口の方が、心に残るものだ」


その言葉にミカは微笑む。


「……陛下って、本当に不思議な方ですね」


「不思議かい?」


「ええ。あなたが魔王でなければ……今ごろ、農村でパン屋でも開いていそう」


アークは珍しく声を立てて笑った。


「悪くない未来だ。君となら、店番を交代しながら、一日中でも焼いていられる」


ミカはその冗談に思わず頬を染めた。


夕暮れが近づき、ふたりは小高い丘に登って景色を眺めた。遠くには湖が輝き、空は黄金色に染まりつつあった。


「ミカ」


呼ばれて、振り返る。アークの瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「この世界の風景を、“君の目”で見たいと思った。……それは、ずっと前からだ」


「……アーク……様」


「“様”はいらない。今の私は、ただの男だ。君と同じ、一人の旅人に過ぎない」


ミカは息をのんだ。胸に波のように押し寄せる感情。


“誰か”としての自分ではなく、ただ「ミカ」として向き合ってくれる存在。


――これが、恋の予兆というものなのだろうか。


風が、頬を撫でた。


その瞬間、彼女の心の中に、確かな芽吹きが感じられた。


この旅は、単なる外交ではない。ふたりがふたりとして在るための、始まりの逃避行だった。

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