125話 はじまりの“愛”
淡い光が消え、命名の儀が終わった静寂が“命名の間”を包む。そこには、古代碑の前に立つ一人の女性の姿があった。
ミカ――そう、彼女はもう「悠真」ではない。
その身体はしなやかで、柔らかな女性の輪郭を宿し、だが芯には確かな強さが残っている。魔力の流れも洗練され、彼女の瞳はまるで朝陽のように澄んでいた。
その瞬間だった。
魔王アークが静かに一歩、彼女に近づき、そっと右手を差し出した。
「……おかえり、ミカ」
その言葉に、ミカの胸の奥がふっと温かくなる。
それは優しさでも、慰めでもなく。
彼女を“ここ”に迎え入れる、ただ一つの真実の言葉だった。
ミカは戸惑いを抱えながらも、微かに震える手を伸ばし、アークの手に重ねる。
「……ただいま、アーク様」
アークはその一言に、微笑んだ。
だが、次の瞬間。
「“様”など要らない」
アークの瞳が真っすぐに彼女を見つめる。
「君はもう、私の隣に立つ者だ。敬意も、忠誠も……それらはもう言葉にせずとも、交わしたはずだ」
ミカの頬がほんのりと紅に染まる。
この温もり。このまなざし。
ただの主従ではない。けれど、恋人と呼ぶにはまだ、ほんの一歩だけ遠い。
それでも確かに、何かが始まろうとしている。
「……名前を、ありがとう。アーク……君」
そう呟いた瞬間、ミカの瞳から一滴の涙がこぼれた。
それは悲しみではない。懐かしさとも違う。
――「魂が受け入れられた」ことの証だった。
アークはその涙を、指先でそっと拭い、そして言った。
「私は君の“名前”を見つけただけだ。ミカは、もともと君の中にあった名だよ」
ミカはゆっくりと頷く。
心が満ちていく。形のないものが、静かに彼女の中に宿る感覚。
やがて、二人は静かに並んで腰を下ろした。古代碑の前、神聖な静寂の中。
ミカの小さな手は、アークの手の上に添えられていた。
「アーク……私、これからどうなっていくのか、まだ分かりません。でも、今は……この名前で生きていきたい」
アークは、うん、と穏やかに頷き、そして一言だけ告げた。
「それでいい。それが、すべてだ」
“恋”という言葉にはまだ届かない。
だが、“絆”は、確かに芽吹いた。
魔王と秘書。
主と従ではなく、ただひとつの光を見つめるふたり。
その名を、「ミカ」と呼ぶ日から、すべてが変わり始めた。
――この手を、もう離さない。




