表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天使が通る【見突き漁師の鬱屈した恋】

作者: 尾妻 和宥

 千葉県南房総市(みなみぼうそうし)内房うちぼうは鏡の表面のように凪いでいた。

 すぐ近くの陸には国道410号線が走り、道沿いにはヤシの木が並んでいる。

 その向こうには白亜の豪奢な建物が見えた。恩座おんざリゾートホテルだろう。

 早朝――まだ5時半すぎだった。姿を現したばかりの太陽の光を受け、海面はキラキラ照り返している。


 上松うえまつ 温輝あつきが中学2年、10月のことだった。

 少年は、カシワギテンマのとも(船尾)に腰を落として岩礁帯の外に回り込ませる。カシワギテンマとは、本来は(、、、)一人用の小さな舟のことをさす。

 左手でを操り、右手のかいを漕ぐ。13歳ながら堂に入ったものだ。


 舳先へさき(船首)にハイヒールの片足をあずけ、沖の彼方を見つめている中年の男がいる。

 恰好かっこうが奇抜すぎる。黒いストッキングに包まれたふくらはぎは筋肉質だ。紫のタイトワンピースを小粋に着こなし、上にダウンジャケットを羽織ったそのギャップ。――温輝の父、賢次けんじだった。


 年季の入ったカシワギテンマを進めていると、不意に賢次が左手をかざした。

 舟を止めろというのだ。

 温輝は海底をのぞき込んだ。

 水深は6メートルほど。エメラルドグリーン。透明度は悪くない。かろうじて底の白い砂地が見える。


いかり、用意して」


 と、オカマの父が甲高い声で言ったので、温輝はそれにならった。

 足元の碇をそっと垂らす。昔ながらの木製で、熊手みたいな爪状になっている。


「はい」


「やってみそ」


 はこメガネを渡された。

 ポリエチレン製のバケツほどの大きさで、筒底にガラスをはめ込んだものだ。

 顔にかぶり、口元にある横棒をくわえる。片手で漁をしつつも別の手で舟を操るわけだから、噛んで固定するしかないのだ。


 今までこの父親の弟子として見突みづりょうを見てきたが、はじめてもりを手にして漁をする。

 銛は、竹竿の先に三又に分かれた穂先をつけた漁具だ。いわゆる、獲ったどーの道具である。


 本来、見突きは孤独な漁である。

 口で箱メガネを咥え、舟を操つりながら海をのぞき、獲物を見つけると、そのままの姿勢で銛で突く。その間にも風や潮の変化を、的確に読み取らなければならない。漁ばかりに気を取られてはいけないのだ。


 箱メガネの世界は海の色にあふれ、楽しいといえば楽しい。

 しかし獲物を仕留めなくては、生活は成り立たない。

 必死だった。


◆◆◆◆◆


「なんだ、温輝。高校に進学しないつもりか。漁師になりたいとな」


 先日の職員室での個人面談だった。

 担任の雲財うんざい先生は、1週間前に提出した温輝のワークシートに眼をやったまま言った。メガネをかけ、口髭くちひげを生やしたツキノワグマそこのけの巨漢だった。


「はい」


 ここ南房総市の中学では、数は少ないとはいえ、めずらしくもなかった。現に温輝の一つ上の先輩も稼業を継いだり、水産高等学校へ進む者もいたからだ。


「もったいないな。勉強の成績は悪くないし、人当たりもいい。別に親御さんの仕事を否定するつもりじゃないが、おまえならいろんな可能性を試せられると思うんだが」


「父さん、ヘルニアがもっと悪くなる前に、僕に見突き漁のノウハウを叩き込むって言ってるし。今、修行中です――それに、母さんの手術費用を稼がないといけないから」


「そうだったな。母さん、悪いんだっけ。手術費用を捻出ねんしゅつしないといけないか」と、雲財は万年筆の尻軸しりじくで頭をかきながらつぶやいた。「しゃーない。だったらそれで行くしかないか。ま、漁師は体力勝負だ。温輝、おまえ痩せてるのが心配だ。もっとバリバリ飯食って、タフにならないとな」


◆◆◆◆◆


「いい、温輝ぃ。水ん中をのぞくときは、舳先は風上に向けておくこと。これ重要ね。獲物を追いかけるのに夢中になってて、後ろから突風やら波に煽られたくらいなら、舟はかんたんに転覆するわよ。クソ寒い冬の海になんか落ちたら、あっという間に低体温症になってイチコロ」


 半年前、オカマに転身した父は、オネエ言葉をしゃべりつつも、もっともらしく教える。長年漁協に所属し、定置網の漁師として一定の収入があったのに、それをフイにしてでも新世界のドアを押してしまった。目覚めてしまったものはどうにも抑えが利かない。


「はい。落ちたくないです」


 温輝は箱メガネを咥えたまま、もごもごと言った。顔に当たる内側はスポンジが貼ってあるので痛くないようになっている。

 砂地に擬態していたカレイを見つけたのに、あえなく逃してしまった。

 ガラスの向こうが砂煙で見えなくなる。


「因果なことね。見突きは孤独な稼業。海に落ちたら誰も助けてくれない。そこの国道から目撃してくれる人がいたら通報してくれるかもしんないけど、それも望み薄。昔の海の男はドテラなんか着てたせいで、落ちれば綿が水を吸って、浮き上がれず死ぬことも多かったわけ。今でもこんなに着ぶくれしてるんだから、結果は同じでしょうけど」


 とすれば、見突き漁こそ板子一枚下は地獄を体現しているといえよう。まさに死と隣り合わせの生業なりわいである。刻々と変わる海の状況に応じ身を守るのも、すべて己の裁量にゆだねられている。


「はい」


 今度はアジの魚群が眼下をかすめたが、小さすぎて銛では突けない。やりすごした。

 それにしても豊かな漁場に思えた。

 父は場所を替えさせた。

 そのたびに碇を回収し、ふたたび漁場で沈めなければならない。


 今度は複雑な瀬だった。一面に藻が生え、岩場もある。

 さっきよりも深い。海底は見えず、真っ黒だ。

 二匹のクロダイがゆったりと泳いでいる。奴らも寝起きにちがいない。


「戦後、しばらくはここの海もよく澄んでいたし、魚も多かった。親父がよく言ってたっけ。チヌ(クロダイ)やヒラメなんか、一日で100キロ近く突いたこともあったって。昔は30メートル近く、深い底まで箱メガネでのぞけるほど透明度がよかったとか。アンコウまで突けたそう」さすがに30メートルともなると、竿を数本継いでも銛が届かないため、『フンドンベシ』と呼ばれる漁法を行ったという。フンドンベシというのは、重さ6キロくらいの鉄の穂先を縄に吊って降ろし、その重さで魚を突く漁法だ。現在はそれを駆使できる漁師も減ったうえ、海自体も汚れてしまった。伝統的な見突き漁も、今や風前のともしびであった。「それが今じゃどうよ? 一日やったって20キロ行きかねる。これだけで生活なんか、できっこない。いくらアタシの家系が見突き専門たって、アンタにこれ一本で食ってけなんて、とても言えやしないわ」


「だけど、僕はこれでやっていきたい。実力を認めてもらい、いつかかつお漁師になれたら――」


「いい心がけだこと。ガキのころ、アタシだって親父について修行した。だけど教わったのは、どこの瀬にどんな魚がいるくらいで、技術は自分で磨くしかなかった。7、8年でようやく一人前になれる奴もいれば、20年経つのに半人前もいる。この稼業はね、それぞれの性格、技量によって差が生まれるわけ」


 そのときだった。

 岩礁のくぼみから、ちょうどイセエビが姿を見せたところだった。

 死角からマダコが忍び寄っている。イセエビが大好物なのだ。

 エビはタコの気配をいち早く察知し、瀬伝いに後ろへ後ろへと跳ね逃げる。


 先読みした温輝は、銛をふりかぶり、素早く突いた。

 銛による磯遊びは、父には内緒で小さいころからやっていたので、扱いに長けていた。

 みごと、イセエビの胴体を貫いた。


 竿に伝わる生命の手応え。そのバイブレーションは快感になりそうだ。

 エビは身をよじり、逃げようとする。

 たちまち赤い殻が割れて飛散し、白い身が桜の花びらのように舞う。


「やった!」と、温輝は昂奮こうふんして叫んだ。「イセエビ! 大物!」


「だったら、早く竿を上げるべし! せっかく捕らえたのに落っことしちゃったらコトよ!」


 言われなくても、温輝はこのときばかりは櫓から手を離し、両手を使って竿をたぐり寄せた。

 海面に現れたイセエビの鮮烈な赤よ。

 初陣ういじんを祝うように獲物を掲げたあと、穂先からそれを取りのぞき、小さな生けに放り込んだ。

 水が跳ね、キラキラした飛沫が上がる。


「どう、父さん。やるでしょ!」


「オフコース!」と、賢次は茶髪のカツラをつけたびんの毛をかき上げながら言った。「そりゃアンタ、見突き漁師の遺伝子だもの!」


◆◆◆◆◆


 海での漁は楽しかったのに、いざ学校の授業となると退屈極まりない。

 左の窓から白い光が斜めに差し込んでいた。3時限目は拷問に等しい。

 運動場のトラックを走り回る他のクラスの生徒たちの姿が見える。誰もが空気を求めてあえいでいた。まるで酸欠の金魚みたいだ。


 朝4時に起床し、漁場へ行っているので授業中はいつも眠い。

 温輝は頬杖ついたまま、数学教師による二等辺三角形の図形の性質・証明の演説を聞いていたが、ついに眠気に負け、机に石頭をぶつけてしまった。


 やんわりお叱りを受けたのは言うまでもない。これで本日三度目だった。

 そのたびにクラスメイトから、クスクス笑いが起きる。

 それを斜め前の席からふり返り、見つめてくる恩座おんざ 百寧もね


「どーした、上松くん。そんなに寝足りないの?」


 と、百寧は口に手を添え、囁いた。

 温輝はどぎまぎせずにはいられない。座り直し、首をすくめる。

 先生に注意されたり、クラスのみんなから、あいつん、貧乏だからと陰口を叩かれる分にはかまわない。制服は伯父の長男のお下がりだったし、肘の部分も繕っていたので貧乏は事実だった。給食代を滞納することもあった。


 しかし百寧に心配されるのは堪えた。

 彼女の容姿は都会的で人目を惹き、学業も優秀、人柄も明朗快活、誰からも好かれた。

 温輝にとって彼女は憧れの存在だった。

 けれど、決して手の届かない人でもある。


 百寧の父親はホテルの経営者だという。南房総だけにとどまらず、県外にも十指に余るレジャーホテルビジネスを展開していた。業界はディズニー系の支持率が高いなか、恩座リゾートだってユーザーからの評価も劣らない。

 すなわち、温輝は言うに及ばず、クラスの男子たちにとって高嶺たかねの花だった。


 クラスにはすでに、温輝が高校に進学しないという意思は知れ渡っていた。

 ことによると、たび重なる母の手術次第では中学を中退することすら現実味を帯びていた。賢次も夜の商売にシフトしていたので、父の力を借りず、見突き漁で自立しなければならない。

 それが情けないわけではなかったが、百寧に知られるのだけは恥ずかしかった。


◆◆◆◆◆


 時間だけが経過していた。

 翌年の2月半ばだった。

 かろうじて学校には通っていたが、学業は二の次になっていた。稼業のおかげでバイト代なみに収入も得られるようになっていたので、見突き漁の成長に力を注いでいた。


 賢次によるマンツーマンの特訓から解放され、正月明けから一人で漁に出ている。

 平日こそ早朝から通学直前のわずかの時間にすぎなかったが、土日はほぼ一日、内房の至るところに漕ぎ出し、漁場の地形を憶えることに余念がない。若いから疲れても、ひと晩眠れば恢復かいふくした。


 舟の扱いは慣れたものだ。左手で、右手でかいをこなす。多少の波を受けても動じない。

 はじめて父の舟に同乗させてもらったのは小学1年のときだ。箱メガネを押し付けられ、海をのぞき込んだことが忘れられない。

 エメラルド色した海はきれいで、メガネの中の小世界で生命の豊穣ほうじょうを目の当たりにした。


 同時に、海底で揺れている海藻を眺めているだけで激しい船酔いに襲われたものである。

 箱メガネに未消化の食べ物を吐いたこと、数知れず。

 数年はこの船酔いとの戦いだった。本来はそれを克服してはじめて銛を手にすることが許される。 


 派手な女装の恰好をした父を乗せていたときこそ、うまくヒラメやタコを突けたのに、一人になったとたんうまくいかない。

 仕方ないので、基本である中層魚のボラを突いて練習する。


 4メートルから8メートル、時には竿を連結して10メートル以上になる銛を使って突いた。

 なまじ銛は継いだ分だけ重量が増し、素早く泳ぐ魚を追うだけでも息が切れた。

 なかなか命中させることができない。

 箱メガネの向こうで、色とりどりの魚が嘲笑ってるように見える。


 根魚ねざかなを狙ったが、誤って岩礁を突いてしまい、銛の先を折ることをくり返した。こんなことが父に知れたら、罵詈雑言が飛んだにちがいない。

 早朝、内房に出てから冷たい雨が降り出した。

 そんなさなかに頑張ったせいもあって体調を崩した。


 自宅に帰り、制服に着替えたまではよかったが、そのまま激しい熱にうなされた。

 学校へ通える気力はなくなり、その日は休むことにした。

 壁のカレンダーを見ると、2月14日。

 世間はバレンタインデーと浮かれている日であることに気づいたが、温輝はすぐに意識を失ってしまった。


◆◆◆◆◆


 温輝にとって百寧は、しょせん別の道を行く人間にすぎない。

 風邪から復帰し、学校へ通えるようになったのは翌週月曜の19日だった。

 クラスはいつもの賑わいを見せ、そして淡々と授業がはじまり、終わることをくり返した。


 授業中、時折、百寧が病み上がりの温輝をふり返ることがあったのはどんな意味があったのか。

 何か言いたげだったが、ついに口にすることなく、一日はすぎていった。

 放課後――。

 帰宅しようと教室の戸口をくぐったとたん、廊下の陰に隠れていた百寧に呼び止められた。


「上松くん、具合、まだ良さそうじゃないね」


「う」と、温輝は口ごもった。間近で百寧に見つめられると照れた。彼女の方が背が高い。肌が白くて眼がきれいだった。精巧なフランス人形を思わせ、なぜ自分と同じ空気を吸う空間に同居しているのだろうと思わずにはいられない。「……冬の海に一日出ずっぱりだったからね。寝込んでた間、陸に打ちあげられたマダコみたいに、ぐったりしてた」


 とっさに口からついて出た言葉に、百寧は白い歯をこぼした。笑うとえくぼが窪む。


「さすが漁師の息子。その比喩、ポイント高し」


「詩人になれるかな」


「成功を祈る」




 二人は並んで廊下を歩いた。

 家路を急ぐ生徒、これから部活動に向かう者と廊下は賑わしい。

 温輝の通う中学では、生徒の自主性を重んじるように制度が変わった。部活動の参加は任意だった。


「百寧ちゃん、バスケ部だったろ。行かなくて大丈夫なん?」


「用事があるって休んだの」と、彼女は言った。「上松くんは、まっすぐ帰るの?」


「知り合いの鉄工所へ行くんだ。この間、漁をしてたら銛の先端、折っちゃったから、直してもらいに」


「雲財先生から聞いたんだけど。ていうか、みんなも知ってる。上松くん、高校へ行かないで、漁師になるつもりなの?」


「残念ながら。すぐにでも稼げるようになって、母さんの手術費用を貯めないといけない。それに高校に進学したくても授業料を払いかねるし。典型的なヤングケアラーだよ」


 自嘲気味に言うと、百寧が温輝の顔を真っ向からにらんだ。


「いつか、上松くんと会えなくなるなんて、私は――」


 不意に百寧は走り出す。

 セミロングの髪の毛を揺らしながら去っていった。その手には紙袋が揺れているのが眼についた。


◆◆◆◆◆


 二人はそれ以上交差することなく、中学3年に進級した。

 温輝あつきは中学を退学し、今すぐ働くべきではないかと考えていた。けれど、義務教育くらい終えておくべきだとまわりに諭されたのだ。

 近い将来気が変わり、水産海洋系の高等学校へ行くかもしれないし、中卒は最低条件だろう。


 季節はめぐり、あれから1年経っていた。

 奇しくも2月14日の金曜だった。さすがに世間がバレンタインで浮かれていることなど、温輝にとっては眼中になかった。

 というのも朝から学校を休み、まる一日海ですごしていたのだ。関東を大寒波が襲い、雪が降るさなかでの出漁であった。




 陸の向こうに恩座おんざレジャーホテルが見える。

 6階建ての白い建物は屏風びょうぶのように建ち、威圧感さえ醸している。ホテルに滞在している宿泊客は、暖房の利いた部屋でさぞかし羽を伸ばしていることだろう。

 内房うちぼうには、ポツンと温輝の舟だけ。風もなく、ベタ凪だった。

 ツンとした潮の香りが鼻に突き抜ける。


 近辺の漁師は見突みづりょうなど、割に合わないやり方はやめてしまったらしい。

 時代遅れのやり方に、なぜこだわるのか。

 おれは平成25年生まれだというのに、アナログだ――と、温輝は思う。


 波もない海の上で中腰になり、箱メガネを顔にかぶり、海底をのぞく。

 複雑な岩礁のすき間に、いくつかのサザエを見つけた。

 船底に複数の竿があるなか、専用のサザエフシに手を伸ばす。


 竿を海底に突っ込み、枝分かれした穂先でサザエの殻を押さえつけ、挟んで獲る。

 荒海で育つサザエは殻に突起スパイクがあり、潮に流されない構造になっているものだが、ここは比較的静かなので角はない。味に変わりはない。むしろ冬に獲れたサザエは身が締まり、コリコリした食感で夏のよりも美味なのだ。

 ひとしきりサザエを獲ったあと、今度は瀬に潜む根魚ねざかなを狙った。


 ――おれは根魚そのものだ。いつまで経っても浮上できない。


 箱メガネの中の内省ないせい。世界はあまりにも狭すぎた。

 箱メガネを通して自分の心と向き合う。岩礁に這いずる魚に同情こそおぼえるが、それを銛で突くかどうかについては容赦しない。

 いつしか箱メガネのガラスの向こうに、恩座おんざ 百寧もねの顔が浮かんでは消えた。笑うとえくぼができた。


 百寧の顔と重なるように、入り組んだ岩礁でガシラ(カサゴ)が戯れているのが見える。

 見突き漁師の条件として、『勘六分に目四分、それに一瞬の判断と瞬発力』が不可欠だと、賢次けんじはことあるごとに言ったものだ。


 オカマの父の言葉が耳元でよみがえる――「海中でね、魚の泳ぐスピードと銛を突くスピードがピッタリ合致したとき、一瞬動きが止まったように見えるの。こういう状態のときって、銛をはずすことはほぼない。いわゆるアスリートの、『ゾーンに入った』域とおんなじってわけね。狙い、当たるべくして当たるってこと」


 しかしながら名人は、一夕にして成らず。

 そこに至るまでは、余人よじんには計り知れないほどの工夫と経験を要するにちがいない。その点、温輝はまだまだ未熟であった。




 雪がしんしんと降るなか、15歳の背中にうっすらと積もる。

 重ね着したうえ、ダウンジャケットを羽織っているとはいえ、寒いものは寒い。

 とくに手は素肌むき出しなので、血行の悪い色をしており、しもやけができていた。


 ガシラに、まんまと逃げられた。

 両手がかじかみ、狙ったところに突けない。

 しかも竿を継ぎ足しているため、重すぎるのだ。

 雑念がいくらでも入る。


 ――百寧ちゃんと何でもない話をしたいだけなのに、おれは対等の位置に立てていない。本当はみんなとずっと学校生活を送りたい。高校にだって行きたい……。願わくは、百寧と同じ進学校へ……。


 百寧の横顔は見とれてしまうほどきれいだ。ひたむきなまっすぐな眼に、いつしか心奪われていた。

 しかしながら、到底手の届きそうにない憧憬どうけい

 ちょうど棒高跳びで、どうしても越えられない自身の限界を知ったときの哀しさに似ていた。

 自己肯定感の低さゆえに、彼女にお近づきにはなれなかった。自分から声をかけることすらおこがましい。


 箱メガネのスクリーンを投影し、これまですごした中学生活と、百寧との触れ合いが思い出される。といっても、しょせん中学生のそれは子どもの延長にすぎない。

 まるで天使みたいだと、温輝は思う。こうして海に出て、一人漁に没頭していると、別世界の住人ではないかと錯覚さえ抱くようになる。

 かたや、生きるため日銭を稼ぐ少年自身は、辛い現実そのものの申し子に思えてくる。ある意味、二人は対称的だった。


 箱メガネの狭い世界で、鬱屈うっくつした感情が湧き起こり、漁に集中できない。

 もし、百寧の気持ちさえも銛でひと突きできるなら、外すことはないのに……。

 そうだ。銛こそが温輝の武器であり、想いの代弁であるのかもしれない。


 入り組んだ複雑な瀬から、さっきのカサゴがふたたび姿を現した。

 赤褐色に不規則な斑点のある魚体。25センチは優に超える。背びれや腹びれに特徴的な棘が隆起していた。眼はぎょろりとし、口角の下がった大きな口で見てくれ(、、、、)はよくない。けれども、いかにもうまそうだ。刺身をはじめ、塩焼き、煮付け、から揚げ、なんでもござれだった。


 温輝の銛はその背後から忍び寄る。

 間合いに入るまで、息を止めて我慢する。

 ガシラは、海藻を隠れみのにしているカニを見つけるや否や、大口開けてかじろうとしていた。

 その胴体めがけ、ためらいもなく突き刺す。

 本来は頭を突くべきなのだろうが、いかんせん当たる面積が小さく、逃がしてしまう恐れがあった。


 竿に手応え。

 猛烈な命の抵抗がはじまる。

 黒い血煙ちけむりが漂う。

 血の中に、無数の鱗と白い身が混じる。

 早く引き上げないと、形が悪くなるばかりか、魚は己の身を引きちぎってでも逃げようとするだろう。


 ――そうはさせるもんか!


 両手を使って竿をたぐり寄せた。

 船底に、活きのいい赤褐色の魚体が跳ねた。


◆◆◆◆◆


 夕方になって、ようやく温輝の舟は野島のじま漁港へと引き返してきた。

 潮が満ちる時間帯だった。追い波を受けて、コの字になった湾に入る。

 あらためて太平洋の沖を眺めた。

 青とオレンジ色の中間には、すみれ色のグラデーションになってきれいだ。しかしながら温輝の頭上には厚い雪雲がかかり、相変わらず雪を散らしていた。


 収穫はまんざらでもない。

 ガシラが12匹に、クロダイ3匹、タコ1匹、小ぶりのイセエビ6匹、サザエは小山ほど獲れた。アワビも少々だった。

 見突きで魚の腹を突き、傷が大きいと安く買い叩かれるが、網で捕って窒息した魚と比べ、頭をひと突きして暴れさせずに獲ったそれだと、高値で買い取ってくれるのだ。


 それにしても身体が凍えそうだった……。

 温輝は歯の根が合わず、カスタネットみたいに打ち鳴らしている。

 カシワギテンマから降りると、舟を船揚場ふねあげば斜路しゃろに押し上げる。

 ところどころプラスチック製の滑りざいが敷かれているとはいえ、骨が折れた。


 高波が来ても舟がさらわれないよう、斜路に打ち込まれたフックにロープでもやっているときだった。

 そばの電柱の根元に、人の気配を感じた。視線を感じずにはいられない。

 そちらに眼をやった。

 誰かがたたずんでいる。

 女性ものの革靴。黒のハイソックスが見えた。およそ寂れた漁港には不似合いな恰好だった。


 温輝は思わず息を飲んだ。

 一瞬、波の音がかき消されたかのよう……。

 百寧だ。


 中学の制服の上にダッフルコート姿。手袋をつけ、マフラーまで巻いて完全武装している。

 眼が合うと、笑顔が咲いた。

 口から洩れる白い息は、まるで綿菓子みたいだ。


「上松くん、お仕事、ご苦労さま!」


「なんで――」と、温輝は平静を装おうと、獲物の入ったクーラーボックスと貝類を納めたスカリ(網状の容れ物)を、ゆっくり両肩にかけた。「わざわざ港まで何しに?」


「決まってるでしょ。上松くんに会いにきてたの。ここで待ってた。君の舟が野島漁港から漁に出るって、男子たちに聞いたから」


 百寧は斜路のてっぺんで立ち尽くしたまま、波の音に負けじと声を出した。

 雪が舞っているとはいえ、内陸部もすみれ色の空が広がっている。じきに天気も落ち着きそうな気がした。

 温輝の心はさっきまで凍り付きそうだったのに、救われた思いだった。彼女が気にかけてくれたのは、この上なく嬉しい。


 今春でクラスのみんなは中学を卒業する。大方は進路が決まっていた。来たるべき高校進学にそなえ、誰しも落ち着いてばかりはいられまい。

 温輝ははみんなの中じゃ、オワコン(、、、、)だと忘れ去られていたと思っていただけに、とりわけ彼女の歓迎は心が弾んだ。


「働いてるところ見られるの、何だか恥ずかしい」と、少年はうつむいたまま言った。ろくに彼女を直視できない。いささか眩しすぎた。「でも、隠す気力もないほど、今日は疲れた。昼飯も舟の上で食べたくらいだもん」


「中3で疲れたって、ご老体じゃあるまいし。どお? いっぱい獲れた?」


「見てみ」


 少年は荷物を担いだまま、斜路の上に達した。

 クーラーを下ろし、サザエが山ほど入ったスカリを横に置く。

 風呂あがりみたいにさっぱりした表情を見せてやった。15歳にして労働している姿を見られるのは恥ずかしかったが、むしろ成果は誇らしい。


「すごい量のサザエ。大物もあるし、アワビまで」と、百寧はうずくまって言った。眼を輝かせている。内腿が見えそうになったので温輝は、思わず向こうを見た。「クーラーの中、見せてもらってもいい?」


「なら、どうぞ」


 バックルを外し、フタを開けてやった。

 きれいにガシラとクロダイが縦に整列している。マダコだけはくたびれたようにつぶれていた。


「ぜんぶ、上松くんが仕留めたの? イセエビまである」


 仕留めた、という言葉に、温輝は反射的に口元を歪めた。栄養が足りず、唇が切れて痛いので満足に笑えないのだ。


「そういうことになるね」


「立派なプロの漁師してるじゃん。これから市場へ売りに行くわけね」


「なんなら、百寧ちゃんにおすそ分けしよっか。好きなの選びなよ。ガシラかイセエビの方がいい? イセエビはあんまり身が入っていないだろうから期待しない方がいいけど」


「くれるってか。女子はプレゼントに弱い。だったら遠慮なく。サザエでいいや。壷焼きにしたい」


「サザエは夏場よりも冬の方が肥ってて味がいいんだ。殻ごと火にかけて、熱が入ったら醤油と酒のつゆを注いでやるんだ。これが漁師流」


「なるほど。お母さんに言っとく」


 船揚場を横切る小道を挟み、その向こうが芝生を敷いた公園になっている。

 まばらにヤシの木が並び、ベンチと植え込みがあるだけだ。左奥に野外ステージがあったが、もぬけの殻だ。ましてや2月中旬の今は芝生も辛子色に枯れ、殺風景な景色にすぎない。

 園内にはさすがに寒すぎるせいか、人っ子一人いなかった。

 細やかな雪がしずしずと芝生に落ちてくる。


 二人はベンチに腰かけた。

 おあつらえ向きに、そばの街灯に灯りがついた。

 日没の時間のようだ。青いかげりがあたりを取り巻くなか、ベンチの下だけが明るい。

 なんだか箱メガネをのぞき込んだ先の、海底にいる気分だった。


「百寧ちゃん、なんで待っててくれたの? おれからサザエ、狙ってたとか?」


 温輝は両手をこすりながら言った。血の循環がよくなるにつれ、今度はむしょうにかゆみが手の甲全体に広がる。指先はサザエの殻で傷つき、わずかに出血していた。


「そんなわけないでしょ。本日、何の記念日か、知ってる?」


 百寧は、サザエの入ったビニール袋をカバンの横に置きながら言った。


「2月14日」温輝は呟いてから、ハタと思い当たった。「そっか、バレンタインデーだっけ。もしかして――?」


 温輝が言い終わらないうちに、彼女はカバンを開け、何かを引っ張り出したところだった。

 ピンク色の包装紙。

 B5サイズほどの大きさで厚みもある。

 赤いリボンが風に揺れていた。


「これ――私から。手作りなんだ。受け取ってくれたら、嬉しいんだけど」


「おれに?」


「そ」と、百寧は照れ隠しに、マフラーで口元を覆いながらうなずいた。「サザエのお返しといっては何だけど」


 温輝には眩しすぎるほどのプレゼントに見えた。

 中一のころに数人の女子からもらったことはあるにせよ、しょせん義理チョコばかりだった。手作りとなるとはじめて。

 風船のように心が浮き立つようだった。


 百寧からのチョコレートを両手で受け取る。

 いまだ血色の悪い手はしもやけが目立ち、指先はボロボロ。いかにも労働者の手のひらだった。

 なのにピンク色の包装紙は、刷り立てのインクの匂いがし、ほのかに温かかった。彼女が脇腹に密着させる形でカバンに入れていたからだろう。


「ありがと。おれのために作ってくれたなんて……」


 なぜチョコレートをくれるのか。それともクラスの男子全員に、だったのか。

 疑問が解けないうちに、百寧がカバンとたっぷりサザエの入ったビニール袋を手にし、ベンチから立ち上がった。ガラッとサザエの殻がぶつかる音。先にいたたまれなくなったのは彼女の方だったようだ。

 園内に走り、ふり返る。

 プリーツスカートがメリーゴーランドのように回転する。


「それ――義理じゃなく、本命だよ!」と、百寧が声を嗄らした。「上松 温輝くん、応援してるから。応援してるから、一緒に卒業しよう。最近、学校来ないから寂しかった。仕事ばかりしてないで――そりゃ、お母さんのためにってのもわかるけど――、ちゃんと顔、出してったら!」


「うん。明日は真面目に行くよ」


「約束する?」


「約束するって。百寧ちゃんに言われたら、破れない」


 百寧はカバンを胸に抱き、頭を斜めに傾けた。

 セミロングの髪が踊った。笑うとえくぼ。


「私のチョコ――どう? 喜んでくれた?」


 と、涙声で眼をしばたたいた。

 温輝は横を向き、親指を立て、サムズアップのサインをし、


「オフコース!」


 そして、ありもしないびんの毛を掻き上げるような仕草をした。


「……何それ。芸能人の物真似?」


「いや、たいした意味はない」


 少年は口ごもって答えたあと、横を向き舌を出した。


◆◆◆◆◆


 バレンタインの思い出はそれだけだった。

 翌日、温輝あつきが登校したところで、ドラマみたいな恋仲に発展したわけではない。

 百寧もねがあの日、どういう気まぐれで本命チョコをくれたのかは、本人に聞いてみないとわからない。もしかすると、たくさんのサザエを手に入れた経緯を母に話し、何らかのトラブルがあったのかもしれないし、温輝の思いすごしかもしれない。


 その後も二人の距離は縮まることなく、なんとなく月日は流れ、なんとなく卒業式を迎えてしまった。

 式を終え、校舎をあとにするとき、お互い遠慮がちに別れの挨拶あいさつを交わしたのが最後となった。

 百寧は進学校に進み、温輝は結局、そのまま漁師になった。

 今では地元の漁業協同組合に所属し、定置網の慢性的な人材不足の担い手として、今後の活躍が期待されている。

 そのかたわら、趣味で見突みづき漁もこなし、稼ぎも悪くはなかった。


 あれから3年の年月が流れていた。

 18になった温輝も身体は逞しくなり、表情に幼さも消えていた。見突きの腕前も賢次の技量をしのぐほどだった。

 毎年、2月が訪れるたび、苦い記憶が呼び起こされる。

 一人、内房うちぼうでカシワギテンマに揺られていると、むしょうに百寧に会いたくなる。


 箱メガネで海底をのぞき込みながら、今日も内省の世界に没頭する。

 レンズの向こうの海はうねり、光できらめき、生命の豊穣を謳っているかのようだ。

 しょせんあの日の15歳の少年は、何らかの行動に移せるはずもなかった。奥手の中学生の恋など、大抵はうまくいかないものである。

 手をこまねいているうちに、すべてを失ったも同然だった。カジノで財産をスったギャンブラーのように。祭りのあとのわびしさだけが残った。




 根魚を狙う。

 大きなクロダイを見つけた。堂々たる魚体である。

 青黒くぼってりした魚に、百寧の幻影を見た。

 あの船揚場ふねあげばの上で佇んでいた、制服の上にダッフルコートを羽織った姿が重なる。


 もう一度、彼女に会いたいと思った。天使のような彼女に。

 温輝の集中力がみなぎる。

 呼吸を止め、全神経を視神経に集める。


 箱メガネの向こうの動きがスローモーションになった。

 クロダイが泳ぐスピードと銛を突くスピードが合致し、一瞬動きが止まったように見えた。

 これこそが父が言っていた、見突き漁師の名人の域か。


 ――おれの銛よ、彼女に届け!


 今度こそ狙いは、外さない。


◆◆◆◆◆


 教室の窓の外は、さぞかし冷たい風が吹いていることだろう。窓は閉め切っていた。

 遠くの山々には、ベルベットのカーテンのような灰色の雲がかかっている。

 放課後になったというのに、高校3年の女子たちが教壇に近い席に固まり、6人で雑談していた。卒業式間近ということもあり、それぞれ異なる大学へ進学するため、別れの時間を惜しんでいたのだ。


 その中に、百寧がいた。

 いつも女子の輪の中心にいて、出しゃばるわけでもなく、さりとて目立たない存在でもない。常に人垣の中で太陽のようにまわりを照らしていた。百寧のそばでは笑いが絶えなかった。


 そこへ温輝の銛の一撃は、空間を超え、一陣の風のように横切ったことを誰が知ろうか。

 彼女らの間に、その一念は吹き抜ける。

 とたん、6人いっぺんが口をつぐんだ。


「――なに、今の?」と、ショートボブの生徒が眼を丸くした。「ヒヤッとした風、通らなかった?」


「気のせいじゃないって。だって、みんなの髪の毛、揺れた」


 と、背の高い子が言った。


「まるで何かが走り抜けたみたい……」


 おでこの広い少女が廊下の方を見たが、むろん誰もいない。 


「ねえ、知ってる?」不安がるクラスメイトの面々をよそに、百寧は向日葵ひまわりみたいな笑顔を咲かせた。「今みたいに会話の途中で、一瞬みんなが沈黙しちゃうことを、フランスじゃ、『天使が通る』っていうそうよ」


おフランス(、、、、、)だとか、百寧、上品! さすがモネだけに!」


 それで夕方の怪事はどこへやら、教室にはイノセントな笑い声にあふれた。

 黄昏たそがれの色は教壇の近くまで届いていた。

 眼鏡をかけた小柄な生徒が、百寧の肩に手をやる。


「案外、上松くんのしわざだったりして」と、いたずらっぽく耳元で囁いた。「百寧に会いたくて、風になって現れたのかもよ。――もしくは生霊かも」


「変なこと言わないの!」


 百寧の隣の生徒が、まじめな顔でたしなめた。

 ところが百寧は、我関せずといった様子で窓の外を見やり、微笑んだ。


「上松くん、元気かな。あの日以来、なんとなく合わせる顔がなくって、離れ離れになっちゃったけど」と、頬杖ついたままオレンジ色の外を見つめる。「いつか、もう一度、会えるといいな」


◆◆◆◆◆


 温輝の渾身の一撃は、みごとクロダイの頭にヒットした。

 即死であろう。ほとんど抵抗もしなかった。

 海中に黒い血煙が広がる。


 すぐさま竿を引き寄せ、舟の上に獲物を引き上げた。

 青黒い魚体は、かつてないほどの大物だった。

 少年はクロダイを両手に持ち、沖に向かって雄叫びを上げた。





        了


※参考文献


『男の民俗学』遠藤 ケイ 山と渓谷社

 ――追悼のことば


 あんまり大っぴらに言うべきではないかもしれません。

 実は香月よう子さんとは、2017年のころからちょっとしたきっかけでメッセージを交換し合う仲でした。『なろう』において、後にも恐らく先にも、これほどの数のメッセージをよこしてくれた人は他に現れないでしょう。8年間、短文長文含めて受信の数、なんと88。


 とてもここでは書けないセンシティブな内容もありました。彼女の名誉のためにも伏せておきます。こちらも仕事疲れがあったりして、すぐには返信できず不義理を重ねてしまいましたが。

 誤解を招くといけないのであらかじめ断言しておきます。僕のことは、ちょっと年下の弟みたいな相談相手として捉えていたのではないでしょうか。

 むろん、彼女とはリアルで会ったことはありませんし、しょせん文字だけのやりとりにすぎません。



 2019年2月14日には特別に、バレンタインメッセージをもらったこともあります(もちろん、義理です)。

 奇しくも今年のバレンタインデーに、複数のお気に入りユーザさんの活動報告で訃報を眼にしました。

 そのときこそ、どなたかの訃報は名前は伏せていましたが、なんだか微かな予感がしたのをはっきりと憶えています。


 方々に調査したところ、案の定香月さんではないかと示唆するような書き込みを見つけたではありませんか。

 ――で、お二方ばかりにメッセージを送り、事の経緯・死因を教えていただきました。やはり、悪い予感は的中し、愕然とした次第です。

 もうあの人から緊急の赤文字が来ないのかと思うと、それはそれで寂しい。



 香月さんは学生時代、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を読むのも怖くて断念するほど、ホラーが苦手と聞きました。『そして誰もいなくなった』はホラーではなく、クローズド・サークルを代表する推理小説なので、読めないのはもったいないのですが……。


 それゆえに、僕はもっぱらホラーばかり書いていたので、お義理で読むには精神的に辛かったとは思います。

 無理に読んでもらい、何度か感想をいただきました。活動報告のコメント一番乗りも彼女が多かった。

 香月さんに遠慮して、かなりマイルドにした作品も少なくない。――そう、『なろう』に投稿したものは、香月さんのメンタルを基準にして書いているといっても過言ではありません。したがって、今後はリミッターを解除した形になれるわけですね。良くも悪くも……。それにしても、ホラーが嫌いなのに、ホラー専門の僕を恐れることなくお付き合いしてくれたことには、今さらながら香月さんの寛大なお心に頭が下がります。



 香月さんの代表作である『ふたりのアラベスク ──あなたに心、奪われていく』。

 僭越ながら2019年10月下旬に、『なろう』投稿前の第一稿を下読みさせてもらったことがあります。それこそ寝食を忘れるほど執筆にのめり込んだ自信作であったらしく、脱稿直後は力を使い果たしたかのように寝込んだそうです。


 本作は阪井 奏子、旭良、佐伯 清志郎らが織りなす、等身大の大人のドラマ。地に足のついたリアリティある設定なので、恋愛モノが門外漢の僕でも物語の世界へすんなりと入っていけたのを憶えております。

 センテンスの1つ1つが、よく言葉を吟味されたうえで構築され、いかに入魂の思いを込められているかが伝わってきたものです。


 奏子の好きな作家、白石 雄のエッセイにあった一節『恋はするものではない。恋は堕ちるものです』は、まさに本作のテーマを体現していると言えましょう。

 最後のオチもツイストを利かせており、意外性もよかった。


 あと、これは香月さんに限らず、僕にも、あらゆる書き手さまにも当てはまることですが――。

 冒頭はみっちり書き込んで世界観を構築しているわりに、後半、もっとも盛り上げなくてはならない山場では、駆け足であっさり味になりがちな作品が少なくない。

 そんななか、本作は山場もバランスよく書き込まれ、きっちりまとまった作品に昇華していたと思います。


 主人公の、34歳という大人の魅力をそなえた女性の服装や、あるいはカフェ内のテクニカルタームも説得力を生んでおりました。

 洗練された女性らしさにあふれ、作者自身のセンスが伝わってきます。このへんのリアリティは香月さんの面目躍如でしょう。

 僕がなにを偉そうに言える立場ではありませんが、本作で香月さんの表現力は一段と磨きがかかっていたと思います。まだお読みでない方は、ぜひとも味わっていただきたい一品です。



 人は遅かれ早かれ、どんな形であれこの世から別れを告げます。

 いずれ、みんなもそちらに行きます。

 今は寂しくても、しばらくの辛抱。

 あえてさよならは言いますまい。




 ――尾妻 和宥  Ado『向日葵』を聴きながら

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
企画から参りました。 冒頭から見突き漁の厳しい世界に引き込まれました。 生活にゆとりがなく辛い現実と立ち向かう温輝の様子がひしひしと伝わってきました。 彼とは対称的な百寧が、バレンタインの日に港にやっ…
フェイバリット企画から諸☆愛を経て、ここにたどり着きました。 なんという完成度! 地の文の素晴らしいこと。 取材もきちんとなされているのだろうと思いました。 エッセイで書いておられたように諸星作品から…
とても読み応えがあり、物語に引き込まれました。 見突き漁師というなろうでは珍しいキャラクターに骨太のストーリー、或る意味で住む世界が違う高嶺の花の同級生へのあこがれ。 それでもお互いに想い合った気持ち…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ