新人研修に見る「才能」
カーテンの隙間から零れたまぶしい光が差し込んでくる。
そのまぶしさに目が覚めた私は、一瞬寝過ごしたのではないかと不安に思いスマホの液晶画面を覗いた。
スマホの液晶画面は7時過ぎを示していた。
どうやら寝坊はしないで済んだらしい。
胸をなでおろして布団から出ると一回大きく背伸びをして周りを見渡す。
そこにはどこにでもあるような一人暮らし向けの「少しだけ」物が散乱した
(友人や親はゴミ屋敷と馬鹿にしているが、足の踏み場がある内はそこまではいかないと思う)
ワンルームの部屋が視界いっぱいに広がる。
一瞬、まだぼやけている頭が違和感を訴えてきているが、
覚醒していくうちに今の現状を正しく思い出していった。
先週から就職の関係上、一人暮らしを初め、
今日は、いよいよ社会人としての新たな人生が始まる日なのだ。
確か始業が9時で通勤に50分ほど掛かるので、8時までには支度をして家を出る必要がある。
準備物を再確認した後朝ごはんと身支度を済ませて、家を出た。
一歩外へ出ると、冬の寒さをようやく脱却して暖かな風が私を包み込んだ。
職場までは遠いので電車で通勤する必要があり
これから毎日、満員電車に揺られるのかと思うと少し憂鬱になる。
何はともあれ初日である今日を乗り越えないことには始まらないと気を引き締めて駅へと歩みを進めた。
頭の中で挨拶と自己紹介のシュミレーションを幾度となく繰り返しているうちにいつの間にか職場へと到着した。
受付に声を掛けると気持ちのよう笑顔で会議室へと通された。
会議室には先輩社員らしきおじさんに、偉そうな態度の上司らしき人あとは若い男性が落ち着かない様子で周りを見渡している。
(恐らく彼も新入社員だろう)
時計の針が9時を回るのと同時に偉そうな人が事務的な説明始めたのを皮切りに僕の新社会人生活は始まった。
結局初日は事務的な説明と各種手続きの作業だけで平和的に終わり
次の日から早速新人研修を行うことになった。
ちなみに、若い男性の方はやはり私と同じく新社会人だったようで名前を土屋というらしい。
私は会話があまり得意な方ではないのだが彼は相手の話を引き出すのが上手く、
私を含めて、色々な人と親しく話していた。
私も社会人になったからには彼みたいなコミュニケーション能力を身に着けたいものだ。
今日の晩御飯は新社会人デビュー祝いということで好きな寿司でも食べて今日は早めに寝ることにした。
2日目。
いよいよ新人研修が始まった。
午前中は昨日会った先輩社員(松田という名前らしい)の下でマナー研修を
研修担当のお姉さん(井村というらしい)の下で今日を含めて4日間、
パソコンの研修を行うことになった。
午前中は無難にこなせているのだが(むしろ座学で寝ない様にするのが大変だった。)
問題は午後のパソコン研修だ。
実は私は生まれつきパソコンが苦手であまり触れたことがなかった。
とはいえ今の時代、どの会社に行ってもパソコンは必ず使うので避けては通れぬ道だと
研修を受けてみたのだが・・・・。
まず、起動するボタンが分からない。
スマホと同じく側面にボタンがあるのかを探したところ見当たらなくて焦った。
次にマウスの使い方が分からない。
クリック?ドラッグ?日本語で話してほしい。
そして当然、文字もまともに打てない。
タイピングと言われる動作らしいのだがまず、
キーボードの配置がスマホと違い過ぎて覚えられない。(当然と言えばそうなのだが)
こんな調子なので研修がなかなか進まず、申し訳け無さから正直心が折れそうだ。
幸いだったのは担当の井村さんがとても優しい方で、
文字通り一から何度でも教えてくれたことだろうか。
一方、同期の土屋君はというと彼も私と同様にPCとは無縁の生活を送っていたらしいのだが、
彼は私と比べて呑み込みが早く、早くもエクセルの簡単な関数なら使えるようになっていた。
このパソコンの研修はまだ3日もあることを考えると、
その3日間でどれだけ突き放されるのだろうか?
研修担当の井村さんや土屋君等周りの人間が失望しないだろうか。
そんな不安に押しつぶされて、この日は深い眠りに就くことはできなかった。
結局、パソコン研修は全日程通して散々な結果に終わった。
同期の土屋君は簡単な表、グラフの作成ができるようになり、パワーポインターも簡単な物なら作成できるようになったのに対して
私はというと資料をパワーポインターで作成できる程度に留まっていた。
それに、土屋君は質問をしたり欲しい情報を井村さんから引き出すのが上手い。
私が同じことをしようとすると、
考えるのに時間が掛かり過ぎてしまったり、話が無駄に長くなってしまって
結局伝えたいことが曖昧になってしまい。
井村さんを困らせてしまうことも多々あった。
それになにより、彼は終始楽しそうにしているのだが私は全く楽しいと感じられた瞬間は無かった。
そんなことを考えているとなんとなく会社に行きたく無くなってしまい、
次の出勤日、私は会社を仮病を偽って休んだ。
何をするわけでもなく家でダラダラ過ごしていると、会社から電話が来た。
松田先輩からの電話だった。
話を聞いてみるに、研修で何か嫌なことでもされたのではないかと心配しているようだ。
私はこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかないのでそんなことは無いと返事をして電話を切ろうとした。
すると松田先輩が、
「なにか嫌なことでもあったら話位は効くからいつでも言ってね。」
と、声をかけてくれた。
私は正直に今の気持ちを話すか悩んだが、もし話して馬鹿にされるようであれば
すぐに会社を辞めて転職すればよいと自分を説得して離すことにした。
初めての一人暮らしで初めての社会人生活にまだ慣れていないこと、
そして同期の土屋君と比べて習熟度が低いことを気にしていることを正直に話した。
「パソコンの研修のことはなにも気にしないで」
「人にはそれぞれ得意なことと苦手なことがあるからね。」
「正直に話してくれてありがとう。実は、あまりに落ち込んでいた様子だったからイジメでもあったのではないかと噂になっていたんだ。」
と、会社側の状況を教えてくれた。
どうやらあまりに気落ちしていたため、噂が会社中に広まっていたようだ。
「しんどいかもしれないけど明日、出社してみない?」
「今週から研修の内容も変わるし新しい気分で勤務できると思うよ」
と、続けて優しく口調で語りかけてきた。
正直、あまりやる気は出なかったが相当会社に心配を掛けてしまっているようだし、
菓子折りでももって一言位、お詫びを言いに行くぐらいはするべきなのではないかとも思い至った為、
嫌々ながらも、明日出勤することにした。
翌日、菓子折りをもって出勤した。初めて出勤した時よりも緊張しているのは気のせいだろうか。
出勤すると直ぐに井村さんが謝ってきた。
特に心当たりもないので不思議に思い理由を尋ねてみると、
「私がもっとうまくフォローできていればこんなことにはならなかったから」
とのことだった。
どうやら彼女も彼女なりに気にかけて悩んでいてくれたらしい。
彼女だけではなく周りにいた先輩たちからも同様の暖かい言葉を掛けられた。
私はてっきり怒られるものと覚悟して来たのだが、怒られる気配は全くなく毒気を抜かれてしまった気分だ。
一通り挨拶を済ませると本日の研修を受けるために研修室を訪れた。
確認するのが怖くて研修の内容を敢て確認していなかったのだが
今週の研修は営業業務の研修らしい。
要するに営業として業務を行うにあたり、事前に色々な状況を想定しての
演習を行おうということらしい。
あまり、交渉事というものは得意ではないがパソコンを弄り回すよりかはましに見えた。
まず初日は自分が関心を持っていることについてプレゼンをすることになった。
お手本として松田先輩がプレゼンをしてくれた。
彼はアニメが少し古めのSFアニメが好きなようで銀河英雄伝説という作品についてプレゼンをしていた。
熱が入りすぎて途中で井村さんに止められたのは少し笑ってしまったが
要はSF戦争物の作品らしく彼が特に気に入っているシーンは絶望的な防衛戦をしている味方に自分の本拠地を捨てて
主人公?が応援に駆け付けるシーンらしい。
次に井村さんが好きなVtuberについてのプレゼンをして(私にはよく分からなかったが・・・。)
私の番が来た。
私は最近良くゲーム仲間と遊んでいる無人島で食人族と戯れる最新サバイバルゲームの話をした。
拙い説明で何度も言いなおす場面があったがみんな真剣に時に笑いも交えて聞いてくれたのは救いだった。
最後に土屋君の番だ。
彼は古い映画を鑑賞するのに嵌っているらしく、昨日みたらしい雪どけという映画の話をしてくれた。
フランスが舞台で家族愛を描いた一作らしい。
やはり彼は話すのが上手く彼の世界観に引き込まれるような感覚に陥った。
そのせいか普段映画はあまり見ないのだが久しぶりに何か見ようかなという気分にさせられ、帰りに適当な映画をレンタルしてから帰ることになった。
次の日は営業活動をするにあたって大事な要素らしい、データの分析についての研修だった。
要はグラフや数字を見て今何が売れているのかどの地域に営業を掛けるのが効率が良いのかを考えるというものであった。
ここで(私にとっては)意外なことが起こった。
なんでも卒なくこなせるという印象だった土屋君だが中々に苦戦をしているようだ。
逆に私の方はというと、ほとんど躓くところがなくスムーズに進行している。
今までの研修とは逆の現象が起きていた。
確かに私は数学は得意だったので正直、この研修に関しては自信があったのだが
それ以上に土屋君の苦戦が想像以上で驚いた。
心なしか雰囲気も段々と暗くなっていっている気がする。
もしかしたら数日前の私も周りか見ればあのように見えたのかもしれない。
どうしても今の彼と数日前の私が重なってしまい、
どうしようにも無くなった私は声をかけてアドバイスをすることにした。
アドバイスが少しは効いたのかその日の残りの研修は比較的スムーズに進行することが出来た。
そして、土屋君からもお礼と称してパソコン操作の練習に付き合ってくれることになった。
毎日、一時間ずつと時間を決めてお互いに苦手なことを教えあう習慣が自然と出来上がっていた。
その成果もあってか、残りの研修も最低限のスキルは会得することに成功した。
そうして迎えた研修最終日。
今日はいよいよ配属先の部署が決る日だ。
厳密には配属先でも多少なりとも研修があるらしいのだが全員(と、いっても2名だけだが)
で行う研修は今日までという話だ。
配属先は会社側が研修中の様子や適正をみて判断を下す。
結果は土屋君が営業にそして私がマーケティング部への配属となった。
つまり、前線で働く土屋君達をデータ分析という形で支援する仕事になる。
結果的に土屋君とはこれで離れてしまうことになったが
お互いに得意な分野で仕事ができる形になって良かったのではないだろうか。
私がこの研修を通じて学んだことはいくつもあるが、
特に大きかったのはどんなに仕事が出来そうな人、できる人にも不得手なものがあるということ、
そして私みたいな機械音痴な人間であってもできることはあるのでということだ。
季節はいつの間にか暑い日差しが厳しくなる季節に差し掛かり、
ここからが本当の社会人生活の始まりである。
私は鏡の前に立ち、身だしなみを整えてから鞄を手にもって家を出た。
一歩外へ出ると、暑い風が私を歓迎するかのように私を包み込んでいた。