ゆるやかに腐りゆく
シェルリーヌには火傷の跡がある。
四歳に満たないある日、両親と暮らしていた屋敷が焼けた。母と弟を失くし、生き残ったのは父リチャードとシェルリーヌと少しばかりの使用人達。
焼け崩れた柱の下敷きになった幼いシェルリーヌは、右足に火傷を負い、娘を助けようとした父は飛び散る火の粉に顔を焼かれた。
火事の原因は付け火だと判明し犯人らしき遺体も見つかったのだが、損傷が激しく身元の確認は出来ずじまい。そして放火と自殺の理由はさっぱり不明であった。いずれにしても貴族の妻子が亡くなり、生き残った者も大火傷を負うという大惨事は、人々の記憶に残るところとなった。
妻子を失くし顔に大きな火傷跡の残ったリチャードは爵位を弟に譲って、生き残った娘と共に田舎の領地へと移り住んだ。領地の経営は親戚を代官に立てて任せて、父と娘は体と心に受けた傷を癒す事を優先した。
領地での生活は、荒みかけた心を癒すのに多少は役だったものの、愛する妻と嫡男を失った悲しみはとても大きかったようで、リチャードは家から出ようとせず塞ぎ込みがちになった。
火傷は唇も傷つけていたので、言葉がうまくはなせない。顔の火傷自体は治ったものの、爛れた顔はそのままで、それを隠すために包帯を外す事はなかった。 それゆえ他人と会う事を恐れ拒み、リチャードは自分の殻に閉じこもるようになった。娘のシェルリーヌだけが、心を閉ざす父に寄り添い続けた。
シェルリーヌはその日にあった事や、発見した事、嬉しかった事などを毎日リチャードに話した。初めは聞くだけだったリチャードだが、娘とだけは言葉は少ないが会話をするようになった。
シェルリーヌの右足は、火傷の後遺症で歩く時には引き摺るものの、それ以外はどこにも傷などなく、健やかに美しく育っていった。彼らの世話をする使用人や親戚達は、可憐な娘が心の病を患う父親に寄り添う姿に涙し、この親子がどうか心安らかに過ごせるようにと願った。
爵位を譲り受けた弟もまた、幼いながら献身的に父を支えようとする姪の為に、兄が生活に困らぬようにと気配りをした。贅沢をしなければ、充分に2人は暮らしていけるだけの金を年金の形で渡していた。
周囲の助けを受けて、父と娘はひっそりと慎ましく生きていくのだ、これから先も。
*
シェルリーヌは16歳になった。
大火事にも関わらず、火傷したのが右足だけというのは正に不幸中の幸いだった。もし顔の火傷がシェルリーヌの方だったならと想像するのも恐ろしい事だ。亡き母に似た美しい顔立ちは、田舎の領地でも評判になっていた。
惜しむらくは、皮膚が引きつれて火傷跡のせいで、歩く際は右足を引き擦らなければならない事だった。走る事も当然出来ないが、心根はまっすぐで優しい娘に育った。
シェルリーヌはいつも笑みを絶やさず明るく振る舞って、気鬱で無口な父を支えた。小さな家の使用人達に混じって家事をこなしたし、田舎町の学校へも通った。
学校では元領主の娘だからといって特別扱いはされなかったし、心無い言葉を投げかけられたり、小さな虐めも受けたけれど、美しく聡明なシェルリーヌには人を惹きつける魅力があったのである。困っていると誰かが手助けしてくれてたので、学校も無事に卒業出来た。
上の学校へ行かないかと誘われたが、そうなると家から離れなければならないので、父の世話があるからと断った時、教師達は残念がったものである。シェルリーヌの頭脳は、野に埋もれさせるにはあまりにも勿体なかった。
そんな折、王都の叔父から縁談が持ちかけられた。
叔父の家の使用人の息子が婿入りしても良いと言うのだ。リチャードは元子爵とはいえ、今は平民となっている。それにいわゆる心の病だ。そんな家に婿入りしてくれる物好きがいるのかと、シェルリーヌは出来すぎた話に、吹き出しそうになる。
きっと叔父から持参金でも貰うのでしょうね。そうでなければ、こんな曰く付きの傷物を嫁にしたい訳がない。
「叔父様、このような傷物のわたくしに縁談を探してくださって本当にありがとうございます。でもわたくしはこんな身体で歩くのが不自由ですし、お父様のお世話もあります。こんな身体では結婚しても旦那様を支える自信がございません。
きっと相手の方も叔父様の顔を立てて、一度会いましょうと言ってくださっているだけなのですわ。わたくしは今、充分幸せですから安心なさって」
父を思うシェルリーヌの言葉に、リチャードの弟である子爵は感動し、父娘の生活が困らぬようにと、さらに援助を増やす約束をしてくれた。なに、それは婿入りしてくれそうな男に渡す持参金が、こちらに流れてきただけなのだが、シェルリーヌにとっては、結婚相手よりお金の方が大切だ。
「お父様に美味しいものをたくさん食べていただきたいし、不自由な思いはさせたくないわ」
それで良いのか?女の幸せは結婚ではないのか?とリチャードが問えば、『お父様と一緒にいられる事が一番の幸せなのよ』と見惚れるほど美しい笑顔で答えるものだから、自分が娘の幸せを妨げている事に困惑した。
*
その夜は嵐だった。使用人達は通いなので小さな家にはリチャードとシェルリーヌ二人きりである。
トントンと控え目なノックがあり、枕を抱えたシェルリーヌが、リチャードの部屋を訪れた。
「お父様、雷が怖いの。あの火事を思い出すの」
そのように言われて、リチャードは娘を部屋から追い出すのを躊躇った。
「いくら親子でも年頃の娘が……」
「お話しましょう、お父様。わたしね、16歳になったのよ、もう成人よ。
お父様の口からお母様の話を聞きたいの。だってお父様はちっとも教えてくださらないんだもの」
リチャードが黙り込んだのをいい事に、シェルリーヌはちゃっかり部屋へ入り込んだ。
「お母様ってどんな人だったの?わたしの記憶の中では、美しくて……そして冷たい人だったわ。そしてお母様は弟だけを可愛がっていたわ」
「……」
「弟はね、家族の誰とも違った髪の色をしてたの。
わたし達はほら金髪でしょう?あの子だけが赤い髪だったわ。あら、お父様、どうしたの?気分が悪いの?」
「聞きたい事とは何だ?弟の事か?」
「さあて、何かしら。お父様は知らないかもしれないけれど、子どもって案外よく覚えているものよ。
例えば、お母様は習い事をしていたの。先生が来るの。それでその先生がいらしている時は、わたしは乳母とおでかけするのよ。その時ばかりは街中で好きなお菓子や絵本を買ってもらえるの」
「…何を習っていたんだ?」
「あら、お父様ならご存知でしょう、自分の奥さんの話よ?何かしらね、わたしにはわからないの。ただお母様の先生の髪は、燃えるような赤だったわ」
「シェルリーヌ、何が言いたいのだ?」
思わず叫んだリチャードの顔にはこんな夜でも包帯が巻かれたままだ。生え際から巻かれた包帯の上の方には、金髪が見えている。
「お父様は見事な金髪ね。わたしとは色味が少し違っているのよね。お父様はまるで染粉を使ったみたいなお色で。
あら、何を慌ててらっしゃるの?」
どさりと、部屋の角の椅子に腰を下ろしたリチャードは、包帯越しに自分の顔を隠すように押さえ、そして声を絞り出した。
「何が知りたいんだ?
俺がお前の父ではない事か?お前の父親なんかじゃない。お前の本当の父は、火事で死んだ。いや、俺が……」
「お父様、どうなさったの?どこか痛みますの?混乱してらっしゃるの?」
シェルリーヌは無邪気に微笑む。その笑顔は亡くなった母に似て美しい。
「違う。俺はリチャード・ノイマンではない……」
「まあ、今更そんな事どうでも良いではありませんか。貴方が本当のお父様でないとしても、わたしがお父様が大好きな事に変わりはないわ」
得体の知れないものを見るような目で、リチャードは彼女を凝視した。
「……お前は何を知っているんだ?」
「ふふ。お父様は知りたがりね。わたしは色々な事を知っているわ。この目で見て耳で聞いた事を逐一覚えているの。
例えば、お父様、いえ貴方がお母様に何かを教えていた赤毛の先生って事かしら?お母様と離れたくないと騒ぐわたしを射殺すような冷たい目で見たでしょう?
あら、小さい子が何も覚えていないと思ってた?
わたしね、一度会った人の顔と声を忘れないみたいなの。だからお父様が赤毛のあの人だってすぐにわかったわ。
顔を焼いたのに何故、と思ってる?人って本質的なものは何も変わらないのよ」
「お前は、俺が本当の父ではなく母の浮気相手と知っていて、あの火事も俺が火をつけたと、そう言いたいのだな」
「それもわたしにとってはどうでも良い事なの。たまたま火事が起こって家族が命を落としただけ。
わたしが知りたいのは、貴方はあんなお母様の、一体どこが良かったのかしらって事なの」
リチャードは包帯の中で顔を歪めた。
*
俺がお前の母親に目をつけられたのは18の時だ。
金がなくて町で掏摸をしたり詐欺をしたりして出鱈目に生きていた時に、お前の母親と偶然出会って、俺の顔が好みだから愛人にならないかと話を持ちかけられた。
自分は貴族で金はたんまりあげるって言うから、金に困っていて若かった俺は、つい誘いに乗ってしまった。
絵の教師の振りをして屋敷を訪ねるようになってしばらくした頃、お前の母は子が出来たと言った。
俺は真っ青になった。これでお払い箱だと思っていたら、この子を産んで男児なら跡取りにすると言い出したんだ。
ああ、そうだよ、お前の本当の父親にも愛人がいて、夫婦間は冷め切っていたから、本当なら子など孕むはずがなかったのに、何故か大きくなっていく妻の腹。きっと本当のお父様とやらは気が気でなかっただろうな。
やがて子どもが生まれた。お前の弟だ。生まれた弟は赤い髪をしていた。
産後ひと月の日に、俺はお前の母親から呼び出された。屋敷を尋ねると、リチャード・ノイマン子爵がいた。
愛人にのめり込み妻子を蔑ろにしていたくせに、妻が不貞を働き、浮気相手の子を産んだ事が許せなかったらしい。
というよりも、リチャード・ノイマンは本当はお前の母親を心底愛していたんだ。ところが夫より爵位の高い家から嫁いだ気位の高い妻は、夫の全てが気に入らなくて、粗野で醜い男だと嫌った。
彼らは俺の目の前で夫婦喧嘩を始めた。そして逆上したリチャードが、生後1ヶ月のお前の弟を床に叩きつけ、狂乱した妻は夫をナイフで刺した。
そうだよ、弟を殺したのはお前の父親で、その父親を刺したのはお前の母親だ。
刺されても生きていたリチャードは、暖炉にあった火かき棒で母親に殴りかかった。もちろん母親は逃げ回るから火かき棒はソファやカーテンを叩き、そこから火の手が上がったんだ。
俺は止める事もせずただ呆然と見ていたら、助けて!と母親が俺に飛びついてきたから、女を振り払って部屋から飛び出したんだ。
赤ん坊もお前の両親もどうなったかわからぬまま、屋敷から逃げようとした時、お前が助けを呼ぶ声が聞こえた。使用人達は既に逃げ去っていたか、或いは火事に巻き込まれたかで、幼いお前を助けに行く人間はいなかったんだ。
俺の足は何故だか幼女の声のする方へと向いていた。逃げようとしたが逃げられなかったんだ。
*
「お父様、喉は大丈夫?お茶を淹れました。さあどうぞ」
シェルリーヌは火事の真相を知っても平然としていた。
「嘆いても死んだ人は帰ってきませんから。だけど、ひとつ聞かせて。顔を焼いたのは何故?」
「何故だろうな。死にたくなかったのかも。咄嗟にリチャードに成り代われば財産が手に入るって考えたんだろう。俺たちは背格好が似ていて、目の色も同じ。違うのは髪の色くらいだったから」
「実の兄に成りすましたのに、それ見抜けない叔父様ってお間抜けね」
「誰だって焼き爛れた顔をじっくり見たくはないだろうさ。焼けた唇でうまく喋れないと言えば墓穴を掘る可能性も低いから助かった。声帯をやられた事にして声が違う事すら同情の材料になった。
ただ平民の俺には貴族の務めも、領地の事も無理だったから、病気のせいにして、あの気のいい弟に丸投げしてやったんだ」
リチャードだった男はシェルリーヌに向き直って、問いかけた。
「で、俺をどうする?俺を警邏隊に突き出すか?」
「まさか。お父様はわたしの命の恩人だし、人殺しには一切関わっていないじゃない。それにどんな事があってもわたしは、お父様の側を離れない、ずっと一緒に暮らすと決めているから」
「は?本気なのか。俺が嘘つきで、お前の両親と弟を殺し屋敷に火をつけた犯人かもしれないというのに? ノイマン子爵の持って来た縁談を受けろ。俺はどこか気の病の療養所に入れてくれればいい。ノイマン子爵はそれくらいはしてくれるはずだ。寧ろ、お前や俺を厄介払いが出来て嬉しいだろう。
俺は死ぬまで病の振りをして、火事の真相を口外する事はない」
「だめよ。お父様は、いえ、もうその呼び方は止めるわね。貴方を手放すつもりはないわ。だってわたしは、貴方を全身全霊で愛しているのですもの」
男は、馬鹿な事を言うなと言いかけてやめた。シェルリーヌの目は真剣だ。
「わたしね、初めて会った時から、貴方の事が大好きなの。お母様は本当のお父様への嫌がらせで、貴方を愛人にしたけれどそこに愛はなかった。
だけどわたしは違うわ。4歳の頃から貴方を独占してきたのよ。お母様のような薄っぺらい感情と一緒にしないで欲しいわ」
にじりよるシェルリーヌは夜着の裾を持ち上げた。男は驚いてビクリとする。
「見て。右足の火傷。色が違うでしょう?学校のみんなは醜いと笑ったわ。だけどこの引き攣れた跡は、貴方がわたしを救い出してくれた証なの。わたしにとっては愛の証といってもいいわ」
手を伸ばした娘が男の顔を包帯越しになぞる。
「や、やめ……」
「どうして?自分の顔を焼くなんて物凄く勇気のいる事よ。貴方が顔を隠しているのは、金髪に染めている地毛の根っこの部分を隠す為でもあるのでしょう?
だけどずっと包帯でいるのは皮膚に良くないわ、外しても良いかしら?」
白く細い指がするすると包帯を解く。男には歯向かうだけの気力は既にない。子どもだから何も知らない、覚えていないだろうと思っていた娘が、男の正体を見抜いていたのだ。
俺はどうすればいいんだと絶望していると、包帯を解き終えたシェルリーヌの顔が近付いてきた。考える暇もなく、焼けて形の変わってしまった唇に、柔らかな娘の唇が重なった。衝動的に娘を突き飛ばそうとしたができなかった。
焼けた顔は眉毛もまつ毛もなく鼻は崩れてしまっている。皮膚は引き攣り再生した肌は赤黒かった。その悍ましい顔にシェルリーヌは唇を落としていく。
「貴方が助けてくれたから、わたしの今があるの。だからわたしは一生かけて、貴方を愛して幸せにしてあげるの」
「やめろ。お前は若いんだ。自分の人生を生きるんだ」
「ふふ、心配してくれるの?嬉しいわ。
わたしはお父様以外の誰とも結ばれるつもりはないのよ。
わたしの中身は生きながら腐っているの。誰からも摘み取られずに腐り落ちてゆく果実のように、わたしは緩やかに腐っているの。
この太ももの赤黒い皮膚から少しずつ、ね。正義も倫理も何も怖いものは無いくらいに」
白い太ももに不釣り合いな赤黒い皮膚、男はそこから目が離せなかった。
駄目だ、これは娘だと自分に言い聞かせようとするが、シェルリーヌの白い指は尚も顔から離れない。
「お父様、いっそのこと、2人で腐りましょうか。この傷跡は真っ赤に熟れた果実のようでしょう?お父様のお顔も同じね。お父様と一緒なら何も怖くはないわ。
あらいけない、わたし達親子ではないのだから、もうお父様って呼んではいけないわね」
シェルリーヌの瞳は熱でうるんでいる。
「ねえ、貴方の本当の名前を教えて?」
男の喉仏が上下してつばを飲み込んだのがわかった。シェルリーヌは嬉々としてその喉仏を指でさすった。
「俺の名前は……」
*
領地の小さな家を処分した父娘は、リチャードの弟の世話で旅立つ事となった。
長年放置していた顔の火傷の治療を決意したのである。向かう先は隣国だ。
顔以外の体には何の障害もないので、隣国で仕事を見つけそのまま永住するつもりだ、もう戻っては来ないのでこれが今生の別れだと思ってくれと告げられた弟こと現ノイマン子爵は、親子への手切れ金として手術代と当座の生活費や旅費に加え、少なくはない財産を与えてくれた。
これから先の親子の生活を支える必要がなくなったのは、ノイマン子爵にとってもありがたい事だった。だから兄の顔の手術がうまく行き、娘が良縁に恵まれるようにと、心から願い、またそれを信じて疑わなかった。
隣国へ向かう乗り合い馬車に乗り込んだ男女は、その手をしっかりと繋ぎあっていた。裕福ではなさそうだが、清潔な身なりをしているが、夫の顔の包帯が乗り合わせた人々に不安を与えた。
「ええ、夫の治療に向かうのです。不慮の事故で顔面を怪我してしまいましたの」
妻はまだ10代後半だろうか。初々しい若妻に、乗り合わせた老夫婦がにこやかに話しかけていた。
「夫は元々口下手で。怪我をしてからますます寡黙になってしまいましたのよ。
あら、ありがとうございます。顔が治れば全てが良くなりますわ、まるで別人のようになってしまうかもしれませんわね。どうしましょう、今まで以上に素敵な人になってしまったら、うふふ」
妻の惚気に夫は戸惑っているようだ。包帯からのぞく夫の髪は見事な赤い色をしている。彼は愛しい妻を労わるように、片手で妻の背中を支え、片手は白い小さな手を握っていた。
「まあ!おわかりになりましたの?ええ、そろそろ4か月ですのよ」
花が綻ぶように笑う若い妻のお腹に手を当てて、包帯頭の夫は微かに微笑んだようだった。
お読みいただきありがとうございました。