17、学園祭イベントに、正解はない(後編)
中央ステージは、学園祭の象徴だった。
午前中の喧騒が落ち着き、各クラスの出し物がひと段落つく頃、午後の目玉企画が始まる時間帯。自然と、人々は広場の中央へと集まっていく。花や布で飾られたステージ、中央に飾られている大理石の柱にある水晶の装飾が、光を反射し、風に揺れる。その煌めきが、どこか人の心を引き寄せる。
私は少し離れた場所から、ダンテ様と共にその様子を見つめていた。周囲には友人たちや生徒、教師も混ざり、普段なら笑い声や喧噪に満ちているはずの場所が、なぜか今は静かだ。ざわめきはあるものの、どこか緊張した低い音として空気に溶け込んでいる。
その中で、ステージの中心に立つ人物に目が留まった。錬金術科の教師――穏やかで物腰の柔らかい先生が、いつの間にか人々の視線の中心に置かれている。普段なら、こういう場では一歩引いて、状況を静かに見守る人物だ。生徒の感情が高ぶれば高ぶるほど、静かに距離を取る。なのに今、彼は中心に立っている。逃げ場のない位置に、まるで自然に立たされているかのように。
「……人、多いな」
隣で、ダンテ様が低く呟いた。彼もまた、あの引きずられる感覚からは解放されているが、私が渡したブローチを強く握りしめて、警戒するように周囲を見渡している。
「ええ。集まりすぎています」
私も小さく答える。本来なら、午後の目玉企画でもここまで密集することはない。だが、今は無言の圧力に引き寄せられるように、人々が中央に集中している。泣く者、怒る者、期待に胸を躍らせる者――そのすべてが、目には見えない糸で中央に縛り付けられているかのようだ。
視線を巡らせると、先生を前に、泣き崩れる女子生徒の姿が目に入った。肩を震わせ、嗚咽を漏らしている。
中央に立つ先生の肩がわずかに強張り、喉が動く。言葉が出かけ、止まる。
「……あの先生も、か」
ダンテ様の声が耳元で静かに響いた。彼もまた、決められた言葉を強制されているのがわかる。それを教師として、大人として、必死に耐えている。……ダンテ様ややロメオ様たちと同じ、型に嵌められてしまっている。
中央ステージに立つもう一人の女子生徒は、涙をこらえながらも鋭い言葉を吐く。
「泣けばいいって話じゃないでしょ。次は私の順番よ」
周囲がざわつく。けれど、その音はすぐに意味を失った。集まっているのは、声ではない。視線だ。
恋敗れて泣き崩れる生徒、責め立てる生徒、そして錬金術教師――三人を囲むように、期待と好奇心と焦りが、無数の目となって突き刺さる。
「順番って何のこと?」
「じゃあ今、誰のターン?」
「私もイベントこなしてきたのに」
どれも小さな声だった。独り言のようでいて、決して独りには向けられていない。
誰かが口を開き、すぐに別の誰かがそれに重なる。誰も大声ではない。それでも――向かう先だけは、ひとつだった。
――早く、決めて。
――ここまで来たんだから。
――告白イベントをやらせて。
私は、中心に立つ錬金術教師を見た。
――このままでは、彼は自分の言葉ではない言葉を言わされる。それが、この世界の「成功」なのだと、誰も疑っていない。
私の目の前で、ステージは緊張に引き裂かれそうだ。
胸の奥が、ひどく騒がしかった。
いつもなら、もう少し距離を取って、状況を眺められていたはずなのに。感情が、近い。近すぎる。喉の奥がわずかに熱を帯びて、言葉がつかえそうになる。
――ああ、だめだ。今は、冷静な観測者ではいられない。
私はゆっくりと一歩踏み出そうとした。その瞬間、ダンテ様が手を伸ばす。
「リーナ……」
低く落ち着いた声だが、そこに底知れぬ不安が潜む。手は私を止めるためではなく、見守り、支えるためのもの。視線を返すと、彼は微かに眉を寄せるだけで手を下ろした。
私がステージに向かうのと入れ替わりに、ウィリアム殿下が近くに寄ってきていた。ウィリアム殿下に軽く頭を下げて、そのまま足を踏み出す。
「なぜ行かせる?」
「……俺の婚約者を信じてもらいたい」
「まあ……お前が言うなら」
背後で、ダンテ様とウィリアム殿下の短い会話が聞こえた。私は、ダンテ様の信頼を損なっちゃいけない、と深く息を吸い込み、泣き崩れる彼女と責める彼女の間に立った。
ステージの光が私の顔を照らす。心の奥で、過去の孤独と悪役令嬢としての孤立した日々が、今ここで意味を持つ瞬間だと感じる。
泣き崩れるヒロインの肩にそっと視線を落とし、責めるヒロインの硬直した顔に目を向ける。周囲のざわめきが次第に押し黙り、緊張の波が収束しているようだ。人の波の向こうで私を見守るダンテ様の目には信頼と静かな不安が混ざり、手を伸ばすことなく、ただ私を支持していた。
「泣くことも、怒ることも、恥ずかしいことじゃないわ」
声を震わせず、しかし確実に二人に届くように意識して言う。泣いている子はわずかに肩を揺らし、嗚咽が小さくなった。責めていた子は、感情のままに吐き出そうとしていた言葉を一瞬、飲み込む。けれど、キッとこちらを睨んで口を開いた。
「……そんな綺麗ごと、今言われても」
噛みつくように言う。
「だって、私は――」
言葉は続かず、拳だけが震えている。私はすぐには言葉を返さなかった。否定すれば、きっと彼女はもっと硬くなる。
「でもね……現実は、思い通りにいかないものなの」
空気が、張りつめる。音が遠のき、鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
過去の孤独、悪役令嬢として笑われ、避けられ、理解されなかった日々が蘇る。その経験が、今、彼女たちに伝える力になっているように思う。
胸にあるブローチを触ろうとして、ダンテ様に預けたことを思い出す。そこにあったはずの重みがなくて、思わず息が詰まった。それだけで、心許なさが滲んでくる。あれが、私を支えていたのだと――今になって、わかる。
「誰も責める必要はないの。好意は順番待ちの列じゃない。待っていれば、いつか誰かに選ばれるなんてこともない。選ばれる側にも、意思がある」
彼女たちの表情が変わり始めるのが、目に見えてわかった。観衆も沈黙し、場の空気が次第に柔らかくなるのを感じる。
「誰も悪くない。だから、間違っているのは、ただ“この前提”だけ」
声を強め、言葉を一つ一つ噛み締める。周囲の視線が私に集中し、圧力のように押し寄せていた空気が、ゆっくりと解けていく。
その空気とは裏腹に、古い大理石でできた装飾柱の水晶が、不規則に明滅する。光が、脈を打つように強くなったのが目に入った。
――まずい。
理由はわからない。ただ、身体がそう告げていた。
次の瞬間だった。
耳を裂くような破裂音。光が視界を塗り潰す。
「っ!」
驚きの声が漏れ、観衆が一斉に後退する。破片が足元に散り、光の閃きが一瞬目を奪う。
「リーナっ!!!!」
私は反射的に身を屈め、ダンテ様の腕に抱きしめられた。強く、けれど乱暴ではない腕。震えているのは、私なのか、彼なのかわからなかった。
それでも、この腕の中にいれば大丈夫だと、思ってしまった自分が、少し怖かった。
音が、消える。
誰も、すぐには声を出せなかった。
装飾が完全に崩れ落ち、静寂が訪れる。光と音が消えた後、周囲のざわめきが徐々に戻る。ヒロインたちが互いに視線を交わし、言葉なく理解を共有していた。観衆も固唾を飲んで見守っていた状態から、やっと息を吐き、空気が落ち着き始める。
そして、場を鎮めるようにウィリアム殿下が歩み出てきた。整った立ち姿、王子としての風格を放ち、観衆を見渡す。
「皆、落ち着いてくれ」
声は静かだが、広場全体に響き渡る。観衆のざわめきがピタリと止まり、ヒロインたちの視線も彼に集まった。
「感情は、順番通りに制御できるものではない。誰かを選ぶこと、誰かに想いを寄せることに、決まった手順も正しい順番もない」
彼はゆっくりと歩きながら言葉を続ける。
「今日ここで起きたことは、誰かが悪いわけでも、誰かが正しいわけでもない。だからこそ、互いの心を尊重してほしい」
観衆は息を飲み、静かに頷く者、目に涙を浮かべる者、肩の力を抜く者――全員が彼の言葉に従うように静まり返る。ウィリアム殿下は最後に私に目を向ける。わずかに微笑み、静かに言った。
「君の声が、皆を変えた。これで、全て終わりだ」
私はダンテ様の腕の中で小さく頷いた。
ウィリアム殿下は装飾の破片を避けながら、淡々と状況を整理する。誰かを責めるわけでもなく、選ばせるわけでもない。私たちを見守りながら、生徒会長として、皆が次に進むための指針を示している。
破片の散ったステージ、静かに戻りつつある観衆、互いを確かめるヒロインたち――その姿を見て、私は静かに息をつく。
「……これが現実なの」
世界は思い通りにはいかないけれど、心は自由に選べることを、誰もが知った瞬間だった。




