14、事故は、噂を連れてくる
それが起きたのは、準備期間も折り返しに差し掛かった日のことだった。学園全体が「まあまあ形になってきた」という、最も油断しやすい空気に包まれていた。
問題の場所は、旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下。展示物の一時置き場として使われており、各クラスの資材や装飾が、壁沿いに仮置きされていた。
本来なら――本来なら、通路中央は空けておくはずだった。
「……誰よ、ここまで積んだの」
私は思わず呟いた。木製パネル、看板、布装飾、魔術用支柱。それらが、想定よりも明らかに高く、しかも不安定に積み上がっている。
「これは……危ないわね」
隣でメロちゃんも眉をひそめた。
「ええ。通る人も多いし、少し触れただけでも――」
そのときだった。渡り廊下の反対側から、数人の生徒が大きな装置を運んできたのは。
「ちょっと通りますー!」
「幅ギリギリだから気を付けて!」
嫌な予感が、確信に変わる。
「待って、そこ――!」
私が声を上げるのと、装置の角が、積み上げられた資材の一番下に軽く触れたのは、ほぼ同時だった。
――ギシ。
小さな音。でも、決定的な音。
「っ、下がって!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、バランスを失った支柱が傾き、それに引っ張られるように、上のパネルが――
「メロちゃん!」
彼女は、ちょうどその真下にいた。一瞬、動きが止まったのが分かった。理解が、ほんの一拍、遅れた。
――駄目!
そう思った瞬間。
銀色の影が、横から飛び込んだ。
「――っ!」
ロメオ様だった。身体ごとメロちゃんを抱え込み、自分が覆いかぶさるように滑り込む。
――ドンッ!!
鈍い音。木材が床に叩きつけられる衝撃。
「メロちゃん!!ロメオ様!!」
私は反射的に駆け寄った。資材は、完全に崩れ落ちていた。その下にいるはずの二人の姿は――
「……っ、だいじょうぶ……?」
ロメオの声が、かすかに聞こえた。彼の腕の中で、メロちゃんは呆然と目を見開いている。
「……ロ、メオ……さ、ま?」
「ほら、動ける?指、何本――」
そこで、ロメオ様の言葉が途切れた。
「……っ」
彼の肩から、赤いものが滲んでいる。
「血……!」
私の声に、周囲がざわつく。
「誰か、治療を!」
「担架を呼んで!」
生徒たちが慌てて動き出す中、メロちゃんだけが、動かなかった。
――いや、動けなかった。
「……なんで……」
震える声。
「なんで……魔術、使わなかったの……?」
ロメオ様は、少し困ったように笑った。
「だってさ……距離、近すぎたんだよ」
「……っ」
「詠唱してる間に、君に当たると思って」
それは、あまりにも当たり前の理由で。あまりにも、ロメオ様らしくない判断だった。
「……ばか」
低い声。
「……ばかじゃないの……!」
メロちゃんは、ロメオ様の胸元を掴んだ。
「あなたは魔術師でしょう!?」
「うん」
「自分で何とかできたでしょう!?」
「まあ……たぶん?」
「なのに……っ」
声が、震えた。
「……私のせいで……!」
その言葉と同時に、彼女の瞳から、堪えきれなかった涙がこぼれ落ちた。
「違うって」
ロメオ様は、痛みを堪えながらも、静かに言った。
「君がそこにいたのは、偶然だ」
「でも……!」
「それに」
彼は、ほんの少しだけ、真剣な目をした。
「メロディが無事だった。それで十分だよ」
その瞬間。メロちゃんの感情が、完全に決壊した。
「……っ、勝手に……!」
「え?」
「勝手に判断して! 勝手に怪我して!」
涙が止まらない。
「そんなの……ダメ……!」
私は、その光景を、息を詰めて見守ることしかできなかった。
ロメオ様は、しばらく黙っていたが――やがて、そっと、メロちゃんを抱き寄せた。
「……ごめん」
短い言葉。
「でも、後悔はしてない」
メロちゃんは、彼の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
学園祭準備の喧騒の中、倒壊した資材の山の横で。その光景は、あまりにも場違いで、それでいて、誰も目を逸らせなかった。
◇◇◇
倒壊した資材が片付けられ、渡り廊下にようやく人の通りが戻り始めたころ。
けれど、空気だけは戻らなかった。
ひそひそとした声。視線。必要以上に距離を取る動き。
「……見た?」
「ロメオ様が……」
「メロディ様を、かばって……」
言葉は断片的で、正確ではない。けれど、噂というものは、正確さを必要としない。
私は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
ロメオ様は応急処置を受け、肩に包帯を巻かれている。大事には至らなかったが、「軽傷」と言い切るには、少し痛々しい。
「……大げさだなぁ」
そう言って笑おうとする彼に、周囲の生徒は、どう反応していいか分からず視線を泳がせていた。
――“誰かを庇って怪我をした攻略対象”。その構図が、無意識に、場の空気を変えている。
そこへ、規則正しい足音。
「状況は把握した」
ウィリアム殿下だった。その後ろには、数名の教師と生徒会役員が続いている。……ダンテ様もいた。
一瞬で、場のざわめきが引いた。
「倒壊の原因は、資材の仮置き方法と動線管理の不備だ」
「展示物の一時保管は、即刻見直します」
「準備エリアは再区分だね」
感情を挟まず、淡々と。それが、かえって事態の重さを際立たせていた。
「怪我人が出た以上、これは“事故”では済まされない。学園祭本番に向けて、同様のリスクはすべて洗い出す」
教師の一人が、厳しい声で言う。――つまり。準備段階での“ゆるさ”は、ここで終わり、ということだ。
「ロメオ」
ダンテ様が、彼の前に立つ。
「無茶をしたな」
「否定はしないよ」
ロメオ様は軽く肩をすくめたけど、その仕草が、いつもより少しだけ鈍かった。
「でも……結果的に人命優先の判断だった」
「今後は必ず周囲に声をかけろ」
「了解」
短いやり取り。だが、その様子を見ていた生徒たちは、それぞれに、違う解釈を持ち帰っていく。
噂は、もう止まらない。
◇◇◇
医務室の前。人が引いたあと、メロちゃんは、壁際で一人、俯いていた。
「……メロちゃん」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……リーナ」
「大丈夫?」
「……うん。身体は」
でも、と続ける声が、少し詰まる。
「……私、冷静だったはずなのに」
「うん」
「まさか、あんな……」
言葉を探して、彼女は視線を落とした。医務室の扉の隙間から、ロメオ様がこちらを気にしているのが目に入る。だが、近づいてはこない。
――これまでの無遠慮な行動ではなく、意識せざるを得ない関係になったんだと思う。
「……さっきは、怒りすぎたかな」
「怒るのは、自然だと思う」
「でも……」
メロちゃんは、唇を震わせている。感情を抑えられていないのだろう。小さく息を吸う。
言い訳も、軽口も、なかった。ただ、事実として。ロメオ様は、メロちゃんを庇った。魔術を使わずに。
それだけで、関係性は変わってしまう。
しばらくして、意を決したようにロメオ様が医務室の扉を開け、近づいてきた。私は静かに、その様子を見守る。
「……その、さ」
「なに」
「……怒ってる?」
メロちゃんは、一瞬迷ってから、首を横に振った。
「……怒ってるのは、あなたじゃなくて」
「うん」
「……状況、かな」
ロメオ様は、少しだけ安心したように息を吐いた。
「それなら、いい」
「よくはないけど」
声はもう震えていなかった。
二人の間に流れる空気は、まだ名前のつかないものだったけれど。少なくとも、“何もなかった頃”には、戻れない。
◇◇◇
――そして、その日の帰り道。私は、いつもより視線を集めていた。
「……ねえ、聞いた?」
「フィオリーナ様が……」
背後から、囁きが聞こえた。
「メロディ様のこと、邪魔に思ってたって」
「わざと、あの資材を……」
――来た。一瞬、足が止まりそうになるのを、意識して踏みとどまる。
視界の端で、数人の女子生徒がこちらを見て、慌てて顔をそらした。その仕草が、逆に答え合わせみたいで、少し笑えてしまう。
「ロメオ様と、仲良さそうだったし」
「邪魔だったんじゃない?」
事故の原因。管理の不備。教師と生徒会の公式見解。そんなものは、噂の前では意味を持たない。
必要なのは、“物語を悪い方向に動かした存在”。そして私は、あまりにも、悪役令嬢に都合がいい。
制服の胸元で、ブローチが静かに揺れた。今日は、まだ何も語らない。
「……リーナ」
メロちゃんが、心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫?」
「うん。想定内」
想定していたからといって、平気とは限らないけれど。メロちゃんは、きゅっと唇を噛む。
「私、否定してくる」
「やめて」
即座に言った。
「今、メロちゃんがそれをやると、余計に燃える」
「でも……!」
「大丈夫」
メロちゃんは納得していない顔だったけれど、それ以上は言わなかった。その代わり、ぎゅっと拳を握りしめている。
少し離れた場所で、ロメオ様がこちらを見ていた。視線が合うと、彼は一瞬だけ眉をひそめる。
――彼は、察している。でも、だからこそ、何も言わない。
ロメオ様は噂を壊せる立場にいない。そして、彼自身が動けば、さらに周囲にとって都合のいい物語が出来上がるだろう。
「……本番は、ここからね」
学園祭。告白。感情の爆発。その舞台の前で、私はすでに“疑われる側”に立たされている。
噂は、準備段階にすぎない。本番は、学園祭当日。視線も、誤解も、悪意も、すべてが一気に噴き出すだろう。
私は背筋を伸ばし、前を向いた。
――ダンテ様の婚約者として、逃げるつもりはない。
学園祭は、すぐそこまで来ていた。




