11、学園の大人たちは、様子を見ている
最近、学園の朝が、少しだけ騒がしい。
いや、正確に言うなら――騒がしいというより、密度が高い。人の数は変わらないのに、空気だけが詰まっている。
校門をくぐると、いつもなら流れるように分散していく生徒たちが、今日は妙に固まって歩いている。誰かの肩にぶつかり、軽く謝り、またすぐ別の誰かと距離が近くなる。そんな小さな接触が、やけに多い。
私は鞄を抱え直しながら、周囲を見回した。
――うん。やっぱり、なんだか変だ。
視線の先には、同じ学年の女子生徒がいる。髪はきちんと整えているのに、目の下に薄く影が落ちていて、歩き方もどこか落ち着かない。まばたきの回数が多く、何かに追い立てられているような雰囲気だ。
「大丈夫?」
声をかけられると、彼女は一瞬だけ肩を震わせた。
「あ、うん……平気。ちょっと、寝不足なだけだから」
そう言って笑うけれど、その笑顔はどこかぎこちない。感情が、表情に追いついていない感じ。彼女は足早に去っていった。
「最近、多いよね。ああいう子」
隣を歩いていたメロちゃんが、ひそっと言う。
「多い、って?」
「なんていうか……寝てない子とか。ピリピリしてる子」
言われて改めて周囲を見ると、確かに視線の動きがせわしない生徒が多い。小さな物音に過剰に反応する人、誰かと目が合うのを極端に避ける人。笑っているのに、どこか張りつめている。
大きな事件が起きたわけじゃない。試験は終わっているし、行事が迫っているわけでもない。それなのに、学園全体が、わずかに落ち着きを失っている。
「保健室、行く?」
「うん……ちょっと、頭が……」
前方で、そんな会話が聞こえた。見ると、保健室の方向へ向かう生徒がやけに多い。ひとりやふたりじゃない。連れ立って歩く者もいれば、黙って足早に向かう者もいる。
……こんなに体調不良の人が多いなんて。風邪でも流行ってるのかな。
廊下の先から、教師の注意を促す声が響く。走らないように、落ち着くように――内容はいつも通りなのに、今日はなぜか耳に残った。
先生たちも忙しそうだ。呼び止められる生徒や、声をかけられる生徒が目につく。誰が、というわけではない。ただ、あちこちで動きがある。
学園全体が、静かにざわついている。
◇◇◇
午前の授業が始まる直前。私は席につき、教室をぐるりと見渡した。
――やっぱり、落ち着きがない。
誰かがため息をつけば、別の誰かが過剰に反応する。視線は合うのに、すぐ逸らされる。囁き声はあるのに、内容は聞こえてこない。
教室の扉が開き、教師が入ってくる。
一言、静止を促す声が落ちるだけで、空気がすっと引き締まった。
出席、連絡、授業。流れはいつもと同じだ。内容も、特別変わったところはない。それなのに、教室の中には、どこか張りつめた沈黙が残っている。
私はノートを取りながら、胸の奥に小さな違和感を抱えていた。
理由は分からない。でも、確かに――何かが、いつもと違う。
◇◇◇
昼休み。食堂へ向かう途中、私はメロちゃんと一緒に保健室の前で足を止めた。
――人が多い。
並んでいる生徒の中には、顔色のいい者もいる。体調不良というより、相談事を抱えているような雰囲気の人も少なくない。
保健室の中から、教師の柔らかな声が聞こえる。順番に、落ち着いて。急がなくていい。その声に、列の空気が少しだけ緩む。
「本当に、多いね」
「うん……」
理由は分からないまま。でも、はっきりしていることがひとつある。
最近、学園の空気が、少し重い。
◇◇◇
保健室の前は、いつもより少しだけ賑わっていた。
賑わっている、と言っても騒がしいわけではない。ただ、生徒が途切れない。それだけで、十分に違和感があった。
私は、扉の前で一瞬だけ足を止めた。用事があるわけではない。けれど、なぜか視線が吸い寄せられる。
ガラリ、と引き戸が開く。中から出てきたのは、上級生の女子だった。顔色が悪いわけではないが、目の下に薄く影がある。すれ違いざま、彼女は小さく頭を下げて足早に去っていった。
「はい、次どうぞ〜」
鈴が転がるような声が、保健室の中から聞こえたので、扉の隙間から中を覗く。
白衣に身を包んだ保健医は、今日も非の打ちどころがないほど美しかった。長い睫毛、整った輪郭、背筋の伸びた立ち姿。初めて見た者なら、まず女性だと思うに違いない。
「は〜い、力抜いてね。深呼吸、深呼吸」
保健医は、ベッドに腰掛けた男子生徒の前にしゃがみ込み、穏やかに声をかけている。
距離が近い。近いが、不思議といやらしさはない。男子生徒の顔が、別の意味で赤くなっているのを除けば。
「……先生、俺、熱とかじゃなくて……」
「分かってるわよ。最近よくあるの」
保健医はにっこりと微笑んだ。
「眠れない、集中できない、理由はよく分からないけど落ち着かない。ほら、だいたい同じ」
男子生徒は、驚いたように目を瞬かせる。
「なんで分かるんですか」
「分かるわよ。だって――最近、よくあることだから」
そこで言葉を切り、保健医は立ち上がった。扉の方、つまり私の立っている廊下にちらりと視線を向ける。
視線が合った。ほんの一瞬だったが、保健医は確かに私を見て、微笑んだと思う。
「……? どうかしましたか」
男子生徒が不安そうに尋ねる。
「いいえ、なんでもないわ」
保健医は、いつもの調子でカルテに何かを書き込んだ。
「今日は無理しないで、授業は見学にしなさい。担任には私から話しておくから」
「ありがとうございます……」
男子生徒はほっとした様子で立ち上がり、保健室を後にした。入れ替わりに、今度は女子生徒が入ってくる。
私は、それ以上覗くのをやめて廊下を進んだ。頭の片隅に、さっきの会話が引っかかっている。
――最近よくある。
それは、体調不良の話だったはずなのに、どこか別の意味にも聞こえた。
◇◇◇
午後初めの授業は科学だった。
教室に入ると、すでに科学教師が黒板の前に立っていた。背の高い、端正な顔立ちの男だ。白衣を着ていても隠しきれない、どこか人を寄せつけない雰囲気。
「遅いぞ」
私が席に着こうとすると、低い声が飛んできた。
「開始一分前だ。ギリギリを攻めるな」
「すみません」
形式的に頭を下げると、教師はふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。今日は実験はしない。座学だ」
教室のあちこちから、残念そうな声が上がる。科学教師はそれを一瞥しただけで、構わず話を続けた。
「最近、集中力を欠いている生徒が多い。実験は危険が伴うからな」
その言葉に、教室が一瞬だけ静まる。
「別に、成績が落ちていると言っているわけじゃない。ぼんやりしている。視線が泳ぐ。簡単な確認を忘れる――そういう兆候が、複数見られる」
教師はチョークを走らせながら言った。私は、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「原因は分からない。だからこそ、今日は余計なことはしない」
淡々とした口調だが、その目は鋭かった。何かを測るような視線。
「各自、ノートを取れ。質問は最後にまとめて受ける」
授業はそのまま進んだ。内容はいつも通りだ。難易度も変わらない。それなのに、教室の空気はどこか張り詰めている。
科学教師は、ときおり生徒の手元や表情を観察するように視線を動かしていた。特定の誰かを見るわけではない。全体を、静かに。
◇◇◇
放課後。図書館へ向かう途中で、錬金術教師を見かけた。中庭のベンチに腰掛け、書類に目を通している。風に揺れる木の葉の音が、やけに穏やかだった。
「先生?」
声をかけると、錬金術教師は顔を上げた。
「ああ、フィオリーナさん」
柔らかな微笑み。この学園で、数少ない「話しかけやすい大人」だ。私は錬金術が得意なこともあり、自習の実験や個人的な研究の理論などの相談もよくしていた。
「何か用事かな」
「いえ……通りかかっただけです」
「そうか」
教師はそれ以上踏み込まず、隣のベンチを軽く叩いた。
「少し、休んでいくといい」
勧められるまま、私は腰を下ろす。先生との間に一人分ぐらいのスペースを空けた。
「最近、学園が少し慌ただしいだろう」
教師は書類を閉じ、空を見上げた。その表情は、どこか疲れているようにも見える。
「生徒も、教師も」
「……そうですね」
「理由は、まだはっきりしない」
錬金術教師は、穏やかな声で続ける。
「だが、違和感というものは、無視し続けると、いずれ形になる」
その言葉は、どこか独り言のようでもあり、誰かに向けた忠告のようでもあった。
「君たちは、何も心配しなくていい。少なくとも、危険なことは起きていない」
私は、その言葉に少しだけ救われた気がした。これまで、色んなことに巻き込まれてきたから、そう言ってもらえると、ちょっとホッとする。
「大人が様子を見ているうちはね」
錬金術教師は、微笑みを崩さない。けれど、その視線は、遠くを見ていた。まるで、まだ見えていない何かが、いずれ形を取ることを知っているかのように。
◇◇◇
放課後。もう生徒たちが下校し、喧噪が静まり返った学園の廊下の角で、教師たちが短く言葉を交わしていた。科学教師。錬金術教師。そして、保健医。三人とも声を抑えている。
向かい合うでもなく、完全に背を向けるでもない。互いの存在を意識しつつ、一定の距離を保っていた。
「数としては、増えているな」
低く、淡々とした科学教師の声。
「ええ。ただ、共通点があるようで、まだ断定できない」
錬金術教師が静かに応じる。言葉を選ぶような間があった。
「ふぅん……でも、全員が同じ状態ってわけでもないのよねぇ」
保健医が肩をすくめる。軽い口調だが、いつもの調子とは少し違う。
科学教師が腕を組む。
「過剰反応は避けたい。現時点では、指導対象とする理由がないからな」
「同感だ。生徒個人に問題があるとは言い切れない」
「でしょう?なら、今は見守るのが一番よ」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。廊下の向こうから、足音が近づいてくる。おそらく、清掃員だろう。それに気がつき、保健医がくるりと踵を返す。
「じゃあ、私は保健室に戻るわ。今日も忙しくなりそうだし」
「任せる」
「何か分かったら、共有しよう」
錬金術教師が頷き、科学教師もそれに続く。結論は出ていない。誰かを疑うことも、問題として扱うこともしていない。
ただ――学園の大人たちは、何かが起き始めていることだけは、確かに感じ取っている。
そして、それを即座に“事件”とは呼ばず、様子を見るという選択をしたのだった。
◇◇◇
教師陣が秘密裏に情報共有を行う少し前。まだ生徒たちが学園に集まっていた放課後。人気の少ない校舎裏で、数人の女子生徒が集まっていた。
誰も大声では話していない。けれど、その輪の中だけ、空気の密度が違う。
「……おかしくない?」
最初に口を開いたのは、赤茶の髪をした女子だった。明るく活発なタイプで、普段なら真っ先に笑顔を見せるはずの人物だ。
「何が?」
「何が、って……全部よ」
彼女は言葉を選ぶように、一度息を吸った。
「イベント、全然起きてないでしょ」
沈黙が落ちる。彼女たちは乙女ゲームの主要キャラである生徒会役員ではなく、拡張パッケージで追加された、教師ルートを狙っていた。
「保健室イベント、条件満たしてたはずなのに」
「科学の座学回も、本来ならここで分岐が入る」
「錬金術の個別フラグだって……」
別の女子が、低い声で続けた。
「……誰も、ルートに入ってない」
誰かが、舌打ちを飲み込む。
「そんなはずないでしょ」
「私、ちゃんとやってる。転生前の知識、全部使って」
「好感度も、選択肢も、立ち位置も」
言葉が早口になる。
「なのに――」
視線が、自然と一方向に集まった。
「フィオリーナ」
その名前が出た瞬間、空気が一段、重くなる。
「彼女、何もしてないよね」
「目立つ行動もしてない」
「教師に媚びてるわけでもない」
なのに。
「なんで、あの位置にいるの?」
誰も答えない。だが、全員が同じ場面を思い出していた。
錬金術教師と並んで歩く後ろ姿。科学教師の視線。保健医が向ける、あの微妙な笑み。
「……バグじゃない?」
「世界線ズレてる可能性はある」
「それか――」
言葉が、途中で止まる。
「“想定外”のヒロインがいるとか?」
誰かが、冗談めかして言った。けれど、誰も笑わない。それは、恐怖に近い感覚だった。
攻略対象が“落ちない”のではない。最初から、こちらを選択肢に入れていないような――。
「……このままだと、詰む」
誰かが、ぽつりと言った。
「卒業までにルート入れなきゃ、意味ない」
「エンディングに辿り着けない」
沈黙。
校舎の鐘が鳴る。
それを合図にしたかのように、女子たちは一斉に顔を上げた。
「動こう」
低く、しかしはっきりした声。
「今まで通りじゃだめ」
「イベント待ちはやめる」
「――直接、仕掛ける」
その言葉に、誰も反対しなかった。彼女たちは知らない。学園の大人たちが、“様子を見ている”ことを。
そして、一番危険なのは、焦った側から動くという事実であることを。




