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お読みいただきありがとうございます。
気づいた時には、もう全てが遅かった。
「すまないヴァイオレット。僕はチェリーを愛してしまったんだ」
「ごめんなさい、ヴァイオレットお姉様。私とエドリック様には赤い糸が結ばれていたの!」
なんなんだ、この茶番劇。そして何故そちら側についているんだ私の両親は。
「二人の仲を応援してあげなさい」だの「姉なのだから」だの、まるで私が悪役みたいに。
それでも私はヴァイオレット・アーリー公爵令嬢。第一王子の婚約者として培ってきた教養が、私の本音を隠しきる。私はなるべく平常心に見えるように、瞳は柔らかく細め口元に緩く弧を描いた。
「二人の御心のままに」
これが、最善だと思ったから。
たとえ、婚約者と妹がねんごろな関係になり、子を授かったとしても。
◇◇◇
だけど、いつの間にか私は悪女として糾弾されるようになった。
一番最初に私から離れたのは、友達だと思っていた令嬢達だった。
そうして気づいた。彼女達は『第一王子の婚約者』の私にしか価値を感じていなかったのだと。その証拠に、今は妹のチェリーの周りに集まっている。耳をそばだてると、聞きたくないことが耳を貫いた。
「エドリック殿下との馴れ初めは?」「お互いのどんな所が好きなの?」から始まり、「ヴァイオレット様ってなんだかエドリック殿下の婚約者っていう事を鼻にかけていて偉そうだったし、こんなに素敵な人が新しい婚約者なら嬉しいわ」という言葉で令嬢達は話を締め括った。
そんな風に思っていただなんて。私はもう何も言えなくなって、トイレに逃げた。扉を出る時、私を嘲るような声が背中にこびりついたような気がした。
トイレの個室に急くように入った私は、ハンカチで目を押さえる。直ぐにハンカチはしっとりと湿った。公爵令嬢である私がトイレで泣くなんて……そう自嘲しながらも涙は止まらなくて。私は開きっぱなしの口から声が出ないように手で抑えながら、私はただ泣いた。
次に私を見限ったのは、両親だった。
理由は、私がチェリーに嫉妬し虐めたからだという。そんな事していない、私は何度も何度も訴えた。私の矜持に反するような事は、何一つしていないと。チェリーを打った事も、物を隠したことも、暴言を吐いたことだって。
だが両親が信じたのは、幼気に涙を流す妹だった。追いすがる私に、お母様は「触らないで!」平手打ちをする。初めての熱さに、思わず頬を押さえる。理解が追いつかなく呆然とする私の手を掴み、もう一度お母様は打った。私の菫色の髪が、強い風に吹かれたように舞う。お父様は私を冷たく見下ろすだけ。侮蔑、というおおよそ実の娘にはしない表情を、彼らはしていた。
花が自分の時間は終わりだと花弁を落とすように、私の中に残っていた誰かを信じたいと思う気持ちは砕け散った。乾いた瞼から涙なんて出やしない。私は頬に手を当て、その熱を感じ入るように撫でた。
どうしてだ。王子妃、延いては王妃となる私に課せられた教育では『弱音を見せてはいけない』と教え続けられた。だから私は、そうなるよう自分に自信を持ち、その自身にそぐわない行為はしないようにしてきた。だがその結果がこれだ。
結局は、弱々しい振りをしたチェリーが勝った。皆が信じるに値すると思ったのは、全ての事態の元凶のくせに被害者振る女だった。
自室に戻った私に、執事のアルワードが冷たく濡らしたハンカチを渡してくれた。
「ありがとう」
いつも通り白銀の髪を後ろに縛っている彼は、「いえいえ」と気さくに笑った。その柔らかい笑顔に、張り詰めていた糸がホッと緩むのが分かる。彼は幼い頃からずっと私の側にいてくれた。王妃教育が辛くて泣いた時も、彼は私の側にいてくれた。その行動がどれだけ私を救ってくれたかだなんて、きっとアルワードは知らないだろう。
私も、アルワードに笑い返す。王妃教育によって作られたのでもない、ましてや強がりから来るものでもない、ただ一人の『初恋』に向ける笑顔を。
◇◇◇
「ヴァイオレット、貴女には期待していたのにがっかりだわ」
カーテシーをする手が震えそうになる。私はかれこれ30分ほどその格好のまま王妃様のお話を聞いていた。内容は、婚約者を妹に取られた私への説教。王妃様は今まで教育を私に施して来たのに、それがパァになってイライラしているのだろう。全力で同意するから早く「面を上げよ」って言って欲しい。
「力及ばず、申し訳ありません」
そう返すと、扇子を投げつけられたのか頭に硬いものが当たった。痛みと疲労で体がふらつくと、王妃様は獣のように私をなじった。
「貴女がその様ななりだから、実の妹に取られるのでしょう!」
怒鳴られるのは痛い。
頬を打たれるのは痛い。
頑張りを評価されないのは痛い。
私が悪いのだと決めつけられるのは痛い。
私は今痛いのだと気づいてしまうのは痛い。
どこもかしこも痛くて堪らない。花弁を開かせたばかりの朝露が乗った花が無遠慮に、子供のように無垢に引きちぎられていくように痛い。
じっとりと汗をにじませながら段々視界が不鮮明になるのに、王妃様の高い声だけは耳鳴りのように響く。
「エドリックの婚約者は貴女です。一週間以内にエドリックとあの女を引き離しなさい」
あまりにも無謀な話に、パッと私は顔を上げてしまった。
それは王妃教育が、崩れた瞬間だった。次期王妃としての威厳などとうに忘れてしまった、嘆きだった。
「む、無理です王妃様。チェリーが妊娠した事は貴族中が知っていますし、もうエドリック様の心は私にはありません。それに、両親もあの二人の仲を認めています。だから、だから――」
私、もう疲れたんです。どうして、誰も私のそんな単純な気持ちに気づいてくれないんですか。私はそんなにどうでもいい、いいえ、蔑ろにしていいと思っているんですか。
私、まだ18歳です。身長は154cmです。体重は43kgです。王子様に守られる事を夢見ている、ただの女の子なんです。
けどそんな私の弱さを、王妃様は慮ってはくれなくて。
「最善を尽くします」
そう返すことしか、私には出来なかった。
◇◇◇
重い体を引きずって家に帰り、庭に面した外廊下を身を潜めるように歩いていると、庭でエドリック様とチェリーがお茶会をしていた。そのまま気づかれず行きたかったのだが目ざとくチェリーに見つかり「お姉様ぁ、一緒にお茶しましょう〜!」と声をかけてきた。エドリック様はその言葉を聞き、気分を害したのか私を睨みつける。
息が、上手く吸えない。それでも、いつかは話し合わねばならないのだと、私は吐きそうになりながら足を踏み出した。
外廊下から芝生へと、私は境界線を越えた。光が差し込んでくる。その遠慮のない光は、私が目を細めるのに十分な理由だった。そこからは、よく覚えていない。
永遠にも感じられたようで、一瞬だったような気がする。いつの間にか私は椅子に座っていて、紅茶を飲んでいた。
「美味しい? お姉様」
いっそ毒々しいほど無邪気に妹は語りかけてくる。チェリーが身を包む服は、シルクで出来たゆったりとしたシルエットのドレスだった。私のとは違い、コルセットがない。それが私には、酷く羨ましく思えた。
私はラベンダーの花が描かれたティーカップをソーサーに置くと、声が震えないように律しながら話し始める。
「その、チェリー。貴女はどう、なりたいの?」
「……? どうって何? ちゃんと言ってくれないと解らないわ」
可愛らしく小首を傾げるチェリーに、私は少し早口で返す。
「王妃教育は、とても大変だわ。それに王妃様が貴女を気に入らないと言っているの」
「おい、チェリーを侮辱するな」
「――きゃっ!?」
べチャリ、とクリームをたっぷり塗ったケーキが私のドレスに投げつけられた。エドリック様は怒ったように鼻息を荒くしている。
チェリーがそんなエドリック様を優しく宥めた。
「いえ、お姉様の言う事も一理ありますわ、エドリック様」
え? もしかして、分かってくれたのだろうかチェリーは。一抹の期待で瞳が潤む私に、チェリーはそのかわいい顔を笑顔でいっぱいにして言った。
「お姉様が側妃になってくれればいいんですわ! ……あら、それなら私が側妃の方が良いのかな?」
褒めて、褒めて、と目を輝かせるチェリーに、エドリック様も喜色満面で肯定する。
「なんっていい考えなんだ、チェリー! 確かにチェリーが側妃になれば万事上手くいく!」
エドリック様は私をビシッと指差す。
「お前を王妃にしてやるが、俺が愛するのはただ一人、チェリーだけだ! お前がやるのは公務だけだ、それ以外の権限は認めん、分かったな!」
なんだ、それは。確かにそれならチェリーは公務をしなくていいし、王妃様との約束も果たしたようなものになる。両親も少しは何か言ってくるだろうがエドリック様とチェリーの説得にいつか絆されるのだろう。
――だけど、私は? その大団円ハッピーエンドに、私は入っているの?
『飼い殺し』、そんな言葉がポツリと浮かんだ。それは真っ黒なインクのように私の脳に染み付いて、今までの淡い色を容易く染め上げた。
紅茶の水面に、私の顔が映る。すっかり生気を失った顔は、初めて見た。最近は鏡を見ることすら忘れていたから。チェリーが妊娠したとわかってからもう二ヶ月、私は降り注ぐ悪意から身を守るだけで、自分を愛する時間なんて無かったのだと、ようやく気づいた。
死人のような顔。このまま私が死んだって、誰も気づいてくれなさそう。私はそう笑みを零すと、席を立った。
「おい、何処に行くんだ!」
「……いいえ、何処にも」
だって私、何処にも行けないから。
◇◇◇
ケーキのついた服から着替え自室のカーテンを全て閉め切ると、まるで夜が来たかのような錯覚を受けた。そのまま何をするでもなくボー、と部屋の天井を見上げていると、控えめに扉がノックされた。
「お嬢様、夕ご飯をお持ちしました」
そう言って、入ってきたのはアルワード。彼が引くカートには、スープとパンが載っていた。もう夜が来ていたのかと、少し驚く。
両親は、私と食事をするのを嫌がるようになった。それから私の自室に運ばれる料理は、申し訳程度のスープとパン。だけどそれすら今日は食べる気分になれなくてアルワードが開けた扉から差す光をただ見つめる。
そんな私に心配そうにアルワードは言った。
「僕に出来ることなら、何なりとお申し付けください」
アルワードの表情は逆光で分からない。だけどそれが逆に、癪に障った。私は膝に顔をうずめながら声を張り上げる。
「じゃあ、ここから連れ出してよ! 王子様みたいに私を救い出してよ! 何も出来ない癖に、無責任な事言わないで!」
言ってから、ハッと気づいた。顔を上げてもアルワードが何を考えているのか分からない。
だから「ごめんなさい」と小さく謝罪をすると、アルワードも「……出過ぎた真似をしました。お許しくださいお嬢様」と言って出ていってしまった。
――好きな人にすら、見限られた。その事実が酷く私を追い詰めた。
だからその事実から逃げたくて、私の体はバルコニーへと向かった。乱雑にカーテンを開き、力任せに窓を開ける。ひんやりとした空気が流れ込んでくる。私は衝動に身を委ね、手すりを飛び越えた。
落ちていく最中、満天の星が視界に飛び込んだ。あまりにも場違いな景色に、思わず涙が出た。その涙は宙に浮いて星々の一つとなる。
――何処で、物語の歯車は間違ってしまったのだろう? 最初は両親も婚約者のエドリック様も私を確かに愛してくれていたのに。そうだ、チェリーが来てからな気がする。
そこまでぼんやりと考えて、ふと何かが引っかかった。
「なんで、私が3歳の頃生まれたチェリーと一緒にいる思い出がないの?」
まるでここ最近彼女は現れたような。
だが、そこで思考は止まった。私の体が、酷い音を立てて地面に叩きつけられる。
最後に滲む視界の中で見えたのは、私の自慢だった菫色の髪と庭師が育てたであろう白い花がどろりと濁った赤に染まる姿。
そして「お嬢様!」という声だけだった。
◇◇◇
そこで、目が覚めた。暫くピクピクと瞼を動かしながら、ゆっくりと上に上げる。そうすると、私を心配そうに見つめる両親とエドリック様の姿があった。目を開けた私に安堵したかのように皆が笑顔になる。
「ヴァイオレットが目を覚ましたわ!」
「ああ、本当に心配したんだぞ!」
「ヴァイオレット。君の目が覚めなかったら俺はどうしようかと……」
大きい声は起きたての耳に響く。顔を顰めながら私は思った。
死に損なったのだと。
またあの地獄、いや自殺をしたのだからこれ以上に嫌な待遇が待っているのだろうと考える私の耳に、お母様の喜色ばんだ声が入ってくる。
「私達、時が戻ったのよ!」
「はい?」
そこで気がついた。チェリーがいない事に。
「あの、チェリーは何処ですか?」
それに答えたのはエドリック様だった。私の手を触る手には嫌悪感しか感じない。
「あの女は隣国の魔法使いだったんだよ。騎士団に追われているのから逃げる為にアーリー公爵家の令嬢に偽装していたんだ。人を殺して金品を奪うとびきり性根の汚い女だったんだ! しかも魔法が使えなくなる手錠をつけたら変化の姿が溶けて婆になったんだよ。俺は騙されていたんだ!」
「……まってください、理解が追いつきません」
貴方達の心変わりも。チェリーの正体にも。
次に答えたのはアルワードだった。彼の輪郭は最後に見た時よりまろくて、幼い。
「今は、3年前です。チェリー、いえ魔法使いがこの国に来てから1年です。時間が戻る前、貴女が死んでしまってから隣国にもお嬢様がその、浮気された事が届き、魔法使いの術が及んでいなかった隣国で『チェリー』という存在はいないという事が分かったんです。そこで、時間が巻き戻りました」
「いま、チェリーは?」
「国中に魔法をかけるという事をしていて逃げる力を魔法使いは貯めていなかったので、時が戻る前を覚えていた隣国の騎士団に捕まりました。今は我が国の牢屋に入っています。あと2週間後には処刑されます」
処刑、その言葉の重みに唾を飲み込む。自分を貶めた相手でも、殺されると聞いて笑えるような性格を私はしていない。
「そう、なの。だったら私は、どうして眠っていたの?」
「分かりません。ただ時間が戻る前唐突に皆眠くなり、起きた時にはもう戻っていました。皆そんな風に直ぐに目が覚めたのですがお嬢様だけが一週間眠りについていたのです」
私をお母様が抱きしめた。
「どうしてあんな女を信じていたのかしら! 私の大切な娘は、今も昔も貴女だけだというのに!」
「もう一度、本当の家族になろう」
「お前が死んでから、ずっと後悔をしていた」
頬が、引き攣った。
あぁ、時間を巻き戻した救世主様。なんという皮肉ですか? この人達にもやり直す機会を与えるだなんて。私はこの人達に改心して欲しいから死んだわけではないというのに。
私の心に咲いていた小さくも可憐な花は、もうきっと全部摘み取られた。
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