満月への供花
満月への供花 和久井志絆
序章
殺人、強盗、詐欺、レイプ、戦争、飢饉、汚職、医療ミス、食品破棄、温暖化、酸性雨、森林伐採、大気水質汚染、オゾン層破壊、いじめ、虐待、学力低下、運動能力低下、モラル低下、コミュニケーション能力低下、セクハラ、パワハラ、マタハラ、少子高齢化、男女不平等、未婚晩婚化、無趣味、無気力、無関心、無責任、言葉の乱れ、食生活の乱れ、語彙力低下、引きこもり、ニート、8050問題、嫁姑問題、モンスターペアレンツ、パラサイトシングル、ドメスティックバイオレンス、ルッキズム、活字離れ、理数系離れ、無知、無恥、孤食、孤独死、アルコール・ニコチン中毒、スマホ依存、迷惑系ユーチューバー、過労死、生活困窮者増加、鬱、ストレス社会、差別、偏見、誹謗中傷、感染症……。
その男にとってそれはもはやお経だった。
狭く薄暗い部屋ではその男が蛇蠍の如く嫌っているバラエティー番組が小さなテレビから吐き出されている。もう不快感すら感じなくなっていた。
ニ十年、言葉にすれば短いが実際に生きてみれば長い年月だった。牛馬の如き扱いから、やっと人間らしい生活ができるようになって見えてきたものがたくさんある。
人間は思っていたよりずっと優しい。ただ、そう思っていたのは最初だけだった。
行き交う人々の、顔が見えなくなった。誰も彼もが争い合うことに怯え強い自我というものを捨ててしまったようだ。
この腐り果てた世界で。
誰もが生きづらさを抱えているなど大嘘だ。誰も彼もが普通に穏やかに波風立たぬように振る舞っていれば、毎日をそれなりに平和に生きることは実に容易い。
だがー
その男は手にしていたワイングラスをバリンと割った。その程度のことで血が出るほどヤワな手ではない。その手を赤く染めていたのは、あくまでも真っ赤なワインの色だ。ポタポタと滴るその液体を委細気にせず、男は唸る。
「そんな上辺だけの平和のために恐慌が終わったというなら俺がもう一度起こしてやる。もう一度地獄を見ないと目が覚めないっていうなら」
男はもう何年も朝日を見ていない。不思議と心を落ち着けるのは無音の部屋にコチコチと鳴り続ける時計の音。
午前二時を示す時計がその男には満月に見えた。
第一章 腐り果てた世界
1
葎花はもう何度目になるか、冷房のリモコンに手を伸ばした。設定温度は28℃。だが全然足りない。只今の室温は35℃。
「あぁ、いい加減にして異常気象!」
葎花はベッドの上で枕を抱えながらジタバタする。
「なにやってんの? 葎花」
「ひゃあ!」
葎花は握りしめていたリモコンを思わず放り投げていた。ガバッと起き上がると可愛くない顔で自分を見つめている弟の真を一旦無視して壁に叩きつけてしまったリモコンを擦る。
「よし、壊れてはいない」
正常に画面が表示されていることを確認するとあらためて弟を睨みつける。
「ちょっと! ノックぐらいしなさいよ! 着替え中だったらどうすんのよ!」
真はため息をつく。そして眉一つ動かさずに呟く。
「したよ。十三回。で、着替え中だったら? うーん、少しはドキッとするんじゃない? 一応は女だし」
敢えてストレートに馬鹿にせず、正直に答えながらさりげなく馬鹿にしてくる辺り、ぶん殴りたくなる。
「しょうがないでしょ! 暑すぎて何にもする気力が起きないの!」
「ちなみに今何時だと思ってる? 一時半、もうあれ、終わっちゃったよ」
「バッ! ふざけんな! 教えろよ!」
「だからノックはしたってば十三回を四セット」
「だったらドア開けていい! 着替え見られてもいいわ!」
葎花が何に憤慨しているかというと「あれ」こと葎花が毎週楽しみにしているアニメ「ドクター少女」を見逃してしまったということ。
「ビデオは撮っといたけど」
「言えよ! あぁ、よかったー。真、愛してるわ」
葎花はようやくベッドから起き上がった。来ているシャツはゆったりサイズのはずなのに大量にかいた汗のせいでぴったりと肌に張り付いているほどだ。
「ごめん、本当に着替えるから出てって」
「了解」
再び一人になった部屋で葎花は替えのTシャツを出す。びしょ濡れのほうはもう脱ぐのにも手間がかかるほどだった。
しばらく上裸の状態でいたが少しも涼しくはない。おとなしくタオルで汗を拭くとさっさと着替えを済ませて部屋を出た。隣は真の部屋、二階はそれだけだ。
父の名は相楽、母は弥生。四人家族。姓はない。葎花たちの暮らす村、凛府では普通のことだ。姓を持つのはもっと都会に住む上流階級のみだ。
季節は、夏ではない。冬真っ只中の十二月のはずだ。それは間違いないのだ。
だが、ここ一ヶ月ほど信じられないほどの暑さが続いている。それも凛府の中だけの話ではない。ニュースによれば世界中で、それも凛府よりもはるかに北のほうの地域でもそうなのだ。
異常気象ー名前はまだない。いずれ通称が確立されると思う。気がかりなのはこれが未曾有の事態ではないということ。
葎花は階段を降りていく。リビングのほうはあまり賑やかしくないようだ。
「おはよう」
「おはよう。もう早くないけどね」
弥生が穏やかに笑いながら言う。日曜くらいは好きなだけ寝かせてやりたいと思っている。毎日、頑張り過ぎだから。
リビングも猛烈な暑さ。それでも冷房は28度までと政府から要請が出ている。
「今日も暑いね」
「そうね」
「お父さんは?」
「今日もお仕事よ。この暑さがなんとかなるまでは忙しいでしょうね」
いつも騒々しい相楽がもう二週間ほど家に帰っていないから家の中はすっかり静かだ。真はいつも本ばかり読んでいる。弥生はもともとおっとりした性格で口数も多くない。
「今日はこれからどうするの? 今からでも道場?」
「こればっかりは一日も欠かしたくないからね」
「止めはしないけど。熱中症には気をつけてね。本当に十二月にこんなセリフを言うことになるとは思わなかったわ」
「本当、なんとかしてほしいよね」
葎花はチラリと弥生のほうを見やる。それだけで言いたいことは伝わる。
「あぁ、ご飯? 私と真はおそば茹でたわよ。ちょっと待っててくれれば作るけど。本当にこれも十二月に冷たいおそば食べるとは思わなかったわ」
「あぁ、もっとすぐできるものでいいよ。トーストかなんかできる?」
「それで足りる?」
「暑くて食欲もないよ」
弥生は少し心配そうに眉をひそめる。元気だけが取り柄みたいな娘がここしばらく目に見えてしょんぼりしてる。だが、その心配も言葉にしなくても伝わる。仲の良い親子だ。
「あぁ、大丈夫だよ。バテてるだけだから。気持ちはバッチリ元気」
弥生は「それならいいけど」とだけ言ってトースターに食パンをセットする。真のほうはというとこの間なにも言わずに黙々と本を読んでいる。ブックカバーをつけているのでなんの本かはわからないがとりあえずそんなに厚くはない文庫本だ。
「葎花、ビデオなら入ったままだから。見るなら巻き戻してよ」
「うん、ありがとう。帰ったら見るわ」
真は三つ上の姉を呼び捨てにする。いつからそうなったか、たぶん中等部に入って学聖とか呼ばれるようになってからだ。
学聖ーどこの誰がつけたか真は学校でそう呼ばれている。優れた音楽家のことを「楽聖」と呼ぶのに倣ってつけられた称号。
七歳の頃から剣術を習い今では町の剣術大会で三年連続優勝という成績を修めるほどに武に長けた葎花。本当に同じ親から生まれたのかと思うほどだ。IQ180とも噂されているがさすがにそれは言い過ぎだろうと葎花は思ってる。
「お父さん、この暑さについてなにか言ってた?」
弥生がトーストとミルクを運んでくれた。葎花は真の隣の席でパンをかじりながら問う。
「余計な心配はかけたくない、とだけ言ってた。そんなこと言われたら心配するよね」
「ニュースでも言ってたけど、妖魔恐慌? あり得ないよね。二十年経ってやっと平和になったのに。バカバカしい」
テレビのニュースは暗い気持ちになることしか言わない。それも本当にタメになる情報なのか甚だ疑わしい。
「父さんは現実的に考えてると思うよ。二十年前もこんなふうに真冬だってのにバカみたい暑かったって。それが前兆だったって」
「やめてよ。私は本当に怖いんだから」
「なるようにしかならないよ」
真は十四才とも思えない大人びた口調で言う。それも強がりだと伝わる。少し生意気なとこもあるけど可愛い弟と思っているのは心底本音だ。
「ごちそうさま。じゃあ、お母さん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。本当に無理はしないでね」
葎花は剣術の道具一式を抱えて少し憂鬱な気持ちとともに意を決してドアを開けて外へ出た。途端に猛烈な暑さに襲われる。
三十年前に始まり十年もの間、全人類を恐怖のドン底に突き落とした、通称「妖魔恐慌」。それがまた始まるなんて、考えたくもないのは誰だって同じだ。
2
万月様ーこの名前は葎花にとってなによりも大切な意味を持つ。
三十年前、人間界(この呼び方を葎花は気に入ってない。この世界には人間以外にもたくさんの動植物がいる)と魔界との間に亀裂が生じた。
最初はほんの些細な綻びのはずだった。だが、そこから少しずつ妖怪が人間界に浸出し始めた。
最初は下等な妖怪だけだった。警察が出動すれば造作もなく退治できるような。
だが、原因がわからないだけに事態は簡単には鎮静しなかった。下等妖怪と警察隊の戦いはズルズルと、二ヶ月近く続いた。
今、世界になにが起きているか、学者たちが解明した。この宇宙に地球という星が誕生してから百万年に一度の周期で起こるという時空間の歪み、第一段階は異常なほどの気温の上昇(それが今の異常気象と同じ?)、第二段階は下等妖怪の浸出、多くの場合はここまでで収束している。
だが、極稀に中等以上の強力な妖怪が出没し始めることがある。学者たちはそれをこう名付けた。
妖魔恐慌と。
三十年前、当然、葎花は生まれてもいない。だが、歴史の教科書にも載るほどに語り継がれている大惨事だ。
人々は恐れ慄いた。百万年周期で起きているとはいえ人類にとっては未曾有の事態だ。諸説あるとはいえ、恐竜を絶滅させたのも妖怪たちだとすら言われている。
対抗か、和睦か、世論は真っ二つに分かれた。だが、すぐに対抗派が後者を大きく上回った。戦うしかないと。
勝算はあった。確実に総力戦になり甚大な犠牲を出すことも覚悟の上で。
十二億八千万人。正確にはわからないが、これが妖魔恐慌収束までに人類が被った人的被害だ。自然も大量に破壊され、多くの市街地は焼け野原と化した。
それでも、一時は人類の滅亡さえも囁かれた事態は一人の剣客によって救われた。
その男、万月。
香伽という、葎花たちの暮らす凛府よりもさらに田舎といえる村に生まれ育った、当時弱冠十七歳の青年。今の葎花と同い年だ。
剣術を愛し、動植物を愛し、なによりも人を愛した、心優しい青年だった。そして病的なほどに争いを好まなかった。
牙崙ーそれが人類にとって最後の、そして最大の強敵だった。
まだ若く純粋だった万月は苦悩していた。強大な戦力はいつの世も国家に利用される。既に万月は警察隊の、強制とも思える兵役を課せられていた。
万月はまだ血の味も痛みも知らなかった。だが、良心の呵責と罪悪感に潰れそうな万月も人類の存亡とを秤に掛けざるを得なかった。
どちらに振れたか?牙崙の消滅がその答えだ。
それから先、万月青年がどうなったか。彼は剣を捨てた。相手は情けも正義も持たぬ畜生餓鬼の如き妖怪たちだと頭では理解している。それでも数え切れぬほどの命を奪ってしまったことに変わりはない。
万月は年老いた母親とともに残りの人生を葡萄作りに精をながら慎ましやかに暮らしている。
ここまでは葎花が歴史の授業で学んだ話。なんだかあまりにも現実離れした話で葎花は正直、実感を持てなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。大事なのは教科書に載せられた万月青年の写真。
なんてお美しいお方!
銀色の長髪に、右眼だけが炎のように紅く輝いている。真っ直ぐに通った鼻筋は高貴さと同時に硝子細工のような繊細さも感じさせた。薄い唇は写真の中で少しだけ開いていて、まるでなにかを伝えようとしているようにも見えた。
お父さん!お母さん!私、剣術やりたい!
家に帰るなりまだ初等部の二年生だった葎花は両親に抱きついた。あまり我がままを言わない少女の初めてのおねだりだった。
初めて、憧れと夢を持った。
初めての、恋だった。
次の日には町の剣術道場に相楽を腕を引っ張りながら駆け込んでいた。
「一番小さい子でも十歳だよ。お嬢ちゃん、それでもついて行ける?」
「やります! 絶対続けます!」
戸惑い気味な受付係だったが葎花の勢いに気圧されたらしい。すぐに入門を許可した。
「じゃあ、私も。いいですか?」
すぐ隣りに立っていた少女。葎花と同い年くらいの背格好だが顔立ちやオーラは葎花より遥かに年上に見えた。
「あの……」
「ん?」
自分と同じ入門希望者だろう。すっごく綺麗な子。それが第一印象だった。
「あなたも剣術始めるの?」
「そのつもりだけど?」
「私、葎花っていうの! よかった! これから仲間だね! よろしくね!」
いきなり馴れ馴れしく話しかける葎花に相楽が無理矢理、頭を下げさせる。お辞儀くらいしなさい、バカモン!と。
「私は夏芽。七歳、同い年みたいね」
それだけ言って夏芽と名乗った少女はさっさと道場の中に入っていってしまった。
「クールな子だねぇ」
呆気にとられる葎花と同じ感想を相楽も抱いていた。
「あの子はなんで剣術やりたいのかなぁ」
「さぁ……。でも、しっかりした子だねぇ。親御さんも連れてこないで一人で門を叩くなんて」
あれから十年が経った。上背は夏芽のほうが五センチ高く成長した。でも剣術の腕前は葎花のほうが一回り上になった。
凛刀術、それが葎花たちの励む剣術の名前。真剣と違い刃を持たないのが最大の特徴である凛刀。凛府で栄えている剣術だから凛刀術なのか凛刀術が盛んな町だから凛府なのかは定かではない。だが、護身用として剣術を学ばせている保護者の中にはそれでいざという時に身を守れるのかと危惧する声もある。
それに対して、おいおい、正当防衛とはいえ殺傷能力のある刀で人と戦いたかないよと葎花は苦笑する。
自分たちの剣は少なくとも敵を気絶させるくらいの力は持っている。それで十分だ。
「葎花は、高等部を卒業したらこの町を出てくの?」
「そのつもり。剣術を通して道を説く人になりたい」
「頑張ってね。私はこの町で咲斗とずっと一緒に生きていく」
「夏芽ちゃん……」
咲斗とは葎花がもう三年も前から付き合ってる恋人の名前。まだ男の子と手を繋いだこともない葎花にはあまりにも大人びた話だった。
「咲斗君ならきっと大丈夫。幸せになってね」
「お互いにね」
なにも言わずに右手の小指を差し出す。
「嘘ついたら針千本飲ーます! 指切った!」
幸せになること。ただそれだけを約束した。それが全てだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。人生はもっと複雑で、現実は余りにも険しくそれ故に深遠なものであると、葎花は学ぶことになる。
長く凄惨な戦いの果てに。
3
「また奴等からの斬奸状です」
「またか。いい加減にしてくれ」
それによると次のターゲットは炎上系ユーチューバーのミカエルという男。
「この前は政治家だったのに今度は随分と小者だな」
「あいつらからしたら社会悪であることに変わりはないんです。この世の中をダメにする腐ったミカンは容赦なく排除する。奴等のやり方です」
「なんにしてもこの異常気象が片付いてからにしてほしいな」
禾南警察機構は今、猫の手も借りたいほど忙しい。その中でも総長の時春総悟はもう二週間も家に帰っていない。
「まぁ、ミカエルっていったらこの前もバカやらかして警察にこっぴどく叱られたのに懲りずにまた炎上やらかしたアホだろ? 正直、ほっといていいんじゃねぇか? 他のバカユーチューバーも大人しくなるだろ」
「時春さん、全く同意見だから聞き流しますが、どこで誰が聞いてるかもわからないから気をつけたほうがいいですよ」
随分とまぁ、優秀な部下だよ。時春は嫌味でなく思う。
波町栄、去年の夏、職務中に再起不能と言われるほどの大怪我をした部下の代わりに彼が入ってきた。それ以来、時春の仕事でのストレスは激減した。
「あいつらも一体いつまでこんなことを続けるんだ。もう捕まえる気力も失せる。強過ぎる上に頭が良過ぎる」
六煉桜ー時春が「あいつら」という極悪暗殺組織。時春とはもう十年来の付き合い(?)になる。暗殺組織なのにわざわざ斬奸状を出す奴等はその存在をはっきりと匂わせているにも関わらず未だにその尻尾すら掴めていない。
「えーと、この前が拡大自殺を起こして本人は結局、最後の最後でビビって死に切れなかったって奴がターゲットでしたよね? 留置場に忍び込んでまでトドメ刺したっていう」
ガイシャの名前は奈倉。大学受験生だったが四浪目が決定した時から気力を失い以降、十五年間引きこもり。挙句の果てに起きたのは無関係の人間に次々に斬りかかり重軽傷者七名、死者三名を出す悲劇だった。
「まぁ、社会問題の一つではあるよな。悪いのは誰だって議論が紛糾するのも無理はない」
「それに比べりゃ今回のターゲットは雑魚すぎませんか? たかがユーチューバーですよ。この前だって駐車場の車に何台バレずに落書きできるかって動画撮ろうとして結局二台目で即バレたアホですよ。ほっといたって人に危害は加えませんよ」
「いや、確かにそうなんだが、ある意味ではそういう美学も信念もない俗悪こそあいつらが一番忌み嫌う存在だからな。雑魚で下衆、そういう奴がヘラヘラしながら偉そうにしてるのが一番許せないんだよ。あいつら自身のプライドがな」
それにしても酷い言われようだなぁ、ミカエル。そう思う波町である。
「なんにしても次のターゲットはミカエル。決行はご丁寧に明後日の夜と書かれてる。一応、警護の要請は出しておくぞ。ミカエルを守るためじゃねぇ。あいつらを今度こそ捕まえるためだ」
今度こそーこの言葉を時春さんはもう何十回使っただろう。そう思う波町である。
「死にたくねぇよー! お巡りさん、助けて! お願いだから助けてくれよう!」
時刻は午後五時、所はミカエルこと照日の住むアパート。さっきから手当り次第に警備員の膝にしがみつき、鬱陶しがられて振り払われている。感情の輪が憐れみと身勝手さへの怒りをグルグルと回りついには失笑が漏れる始末だ。
「わかったから一旦落ち着いて椅子に座ってろ! 大丈夫、俺たちは絶対あいつらを捕まえる」
波町は時春が「絶対お前を守る」とは言ってないことにしっかり気づいていた。むしろミカエルをおとりにして六煉の奴等を捕まえる気ではないかとすら思う。
幸いミカエルの家は六畳一間、狭い。警備員が五人入ったらもう窮屈だ。そこに時春と当然、ミカエル自身。
ー斬奸状。愚かなるミカエルがその身を再び天に召される時、静かに満月は欠け始めるー
いつも通りと言えばいつも通りの六煉桜の斬奸状だ。だが、時春の長年の刑事としての勘からこれがいつもの暗殺とはなにかが違うことを感じ取っていた。
満月が欠け始める、とはどういうことだ?
「波町、お前はミカエルを守ることに集中してくれ。あくまでも警察のメンツのために」
「了解です。メンツのために頑張ります」
普段、ユーチューブどころかスマホを弄ることすらほとんどしない時春だが、今回の暗殺に対抗するためミカエルこと照日という男について入念に調べた。
胸糞が悪くなるほどの下衆だった。
人に迷惑を掛け、不快にさせ、時には人の名誉も侵害し、最悪の場合は人に大怪我を負わせたことも一度や二度ではない。
それを面白がる人間がウン十万人という単位でいるらしい。だからそんな馬鹿げた行いが商売として成立してしまう。
それが今の世の中の姿なのか。腐ってる。
波町にはあくまでも冗談としてああは言ったが本音は照日自身のためにもこの世の中のためにも死なせるわけにいかない。この男だけじゃない。この世界に蔓延る一人や二人じゃない劣悪なユーチューバーに自分の愚かさを骨の髄までわからせなければならない。
「それにしてもどんな手を使ってくるか。相手はそんじょそこらのコソ泥じゃねぇんだから戸締まりはしましたで済む話じゃねぇぞ」
「わかってます。戦う覚悟はできています」
照日ことミカエル……じゃなくてミカエルこと照日、もはや時春にとってどうでもよくなっている男は余りにも五月蝿いので猿ぐつわをはめておいた。さすがに可哀想になる扱いだと波町は思う。
異変に気づいたのは警備員の一人だった。
「なにか、匂いませんか?」
「ん、たしかに。なんか焦げたような……」
時春はハッとした。
「消化器! 急げ!」
波町も気づいた。来た。想定の範囲内だが一同に一斉に緊張が走る。
「灼瑛だ! 奴が近くにいる!」
ゴッ!
地の底からなにかが爆ぜるような音。大人しく椅子に座った(座らされた?)照日から見て右側の壁が一瞬にして燃え上がった。
「放火かよ! アパートだぞ! 他の住人だっているんだぞ!」
六煉桜、赤の桜・炎術使いの灼瑛。
ビー!ビー!ビー!
「うるせぇよ! 火災探知機! わかっとるわ!」
予め用意していた消化器で急いで鎮火する。ん、鎮火できた?時春はキョトンとしてしまう。
「なぶり殺しだ。第二弾の攻撃が来るぞ」
「んー! んー! んー!」
「お前は座ってなさい!」
時春も波町も既に呼吸が荒くなっていた。
「下手したら俺たちも死ぬぞ」
「あいつらを見くびっちゃいけませんよ。殺ると言った奴しか殺らないのが奴等のやりー」
ゴッ!
今度は先程よりも強い音。次の瞬間には、照日は火だるまとなっていた。
「ぎゃー!」
「照日!」
一瞬なにが起きたのかわからなかった。気づいたら照日はゴロゴロと床を転げ回っていた。だが、まるで炎が「そういう材質なんです!」と言っているかのように床にも壁にも燃え移らない。
「熱い! 熱っ! あぁ……」
警察隊の存在などまるで無視するかのような直接攻撃。情け容赦なき獄炎が照日を襲う。
消化器が集中的にぶちまけられる。だが、とても抑えられるレベルじゃない。
「波町!」
「わかってます!」
波町の両手が青白く光った。冷却の魔法。だが、灼瑛の力に太刀打ちできるか。
シュゴーという音を立てて炎に対抗する。ほぼ南極の吹雪にも近い低温と水力、風力をかけている。それでも炎は弱まる気配すらない。逆に波町の顔からは大量の汗が吹き出していた。
「チキショー! 灼瑛の野郎! 兎狩りにも全力尽くすったって、限度があるだろ!」
波町は体力はある。しばらくは粘れるだろうと踏んで時春は自分のすべきことを考える。
「待ってろ。他の住人を避難させないと」
時春は玄関口へ急いだ。この様子だと炎が隣室にまで広がることはなさそうに思える。それでも万が一に備えてだ。しかし、時春は絶望する。
何度もノブを回してもドアが開かない。ただガチャガチャ鳴るだけだ。
「閉じ込められてんのか。くそ、そこまでするかよ」
二度、三度と体当りするが開く気配すらない。
状況判断力。刑事に大切な資質。考えろ。今なにをすべきか。
時春はドアを開けることを諦めて波町たちのもとに戻る。灼瑛による遠隔操作での人体発火から十五分ほどが経過していた。もう波町の体力も限界に近いだろう。
照日の手足はまだ微かに動いている。生きてはいる。意識はあるだろうか。あるとしたらこれ以上、苦しめるよりは……。
時春は冷却魔法を続ける波町の肩に手を置いた。
「諦めよう。俺たちの負けだ」
「イヤです。こんな奴でも同じ命です。死なせたくない」
「お前までくたばるぞ」
そう言うと時春は波町の首筋をトンと叩いた。
「あっ」
波町はその場に倒れた。回りの警備員は呆気にとられる。
「総長……」
「ミカエルはもうすぐ死ぬよ。霊柩車を呼ぼう」
その時、瀕死の照日がなにやら口を動かしているのを見た。
「言い残すことが、あるのか?」
「……なんで、俺が……」
それが最期の言葉だった。
こうして自称・大天使「ミカエル」は再び空に召された。半分、自業自得の死をもって。
4
炎上系ユーチューバー、最期は自分が「炎上」
翌日の新聞や各種ニュースではこんな言葉が踊った。予想通りの反応に晃は面白くもなさそうに笑う。
悪どいやり方で儲けようとする卑劣な人間ではあったがなにも火だるまにされて殺されるほどの悪人だっただろうか。犯人探しの前に論点になったのはそこだった。
「なんの罪もない人間が虐殺されることもある世界で、なにを今さら大騒ぎしてる。バカめ」
晃は椅子から立ち上がり窓を開けた。小高い丘の建てられた六煉桜のアジト、名付けて龍獄怨。今、他の五人のメンバーも集められている。
「こんな小者狩り、金輪際、勘弁してくれよ。晃サン」
灼瑛は斜め読みしただけの新聞をさっさと破いた。白の桜・舞雪が「かえって散らかるから」と文句を言う。
「言われなくともあんなゴミを相手にするのはこれで最後だ。言っただろ。これは大事の前の小事だって」
晃の声音がいっそう重々しさを増す。一同に緊張が走る。
「あいつが暴走してる。もう俺にも止められない」
「いつかこんなことになるとは思ってましたよ。僕らといつまでも大人しくつるんでるようなやつじゃないって」
青の桜・氷綱もお手上げといった口調で言う。散々こき使ってきた自分たちにも非はあっただろうとは思ってる。
「俺たちが拾ってやらなきゃあいつ、今頃どうなってたと思ってたんだよ。今さら裏切りやがって」
「そう言うなよ、灼瑛。今となってはどうでもいいことだ。俺たちは面白いほうを選ぶだけだ」
黒の桜・血風刃が実に愉快そうに言う。組織に非常事態が起きているというのにこの男はすこぶる楽しんでいる。
「舞雪、妖怪どもはいつ頃こっちまで浸出してくる? このぶんだとそう遠い話じゃないだろう」
「亀裂はここから北方に二百キロほどの所で広がり始めています。あと一週間もすれば」
「そんなにすぐ!」
黄の桜・孤兎市が素っ頓狂な声を上げる。氷綱は失笑しながら諭す。
「驚くことじゃないよ。妖怪どもの大好きな負の感情さえあれば向こうからこじ開けられる。今ごろあいつはそこで禅でも組んでるさ」
灼瑛は呆れてため息をつく。
「ストレス解消は十分させてやってたってのに空恐ろしいな。あいつの憎悪の念は。なぁ、氷綱よぉ」
「それだけ、今の世の中に絶望しているんだよ。あいつは」
氷綱も立ち上がり、なにか物思いに沈みながら外を眺め続けている晃の隣りに立つ。目線は合わせない。自分も同じように外を見渡す。淀んだ空気が視覚からでも伝わってくる。
「それで? 次の一手はどう進めます? 僕らは従いますよ」
「俺はあいつの思い通りにさせるつもりはない。だが、やろうとしてることに反対はしない。むしろそれは俺たちがすべき事だ」
首領、金の桜・晃は不敵に嗤う。
「全面戦争になりそうだなぁ、晃。いいぜ。ド派手に行こうぜ」
血風刃は愛刀の手入れに両手を忙しなく動かしながら舌舐めずりする。今までに殺めてきた命は百や千の次元ではない。この男に恐れるものなどない。
それはここにいる誰もが同じだ。
「基本的にやることは今まで通りだ。が、警察と世間の奴等に今までと違うってことは匂わせられた。最初の仕事は二人に任せる。舞雪、孤兎市」
名指しされた二人は互いに目を合わせる。
「仰せのままに、晃様」
「任せてよ。大丈夫、大丈夫」
翌日、世界は泰平の眠りから叩き起こされることになる。
5
「新聞ばっか読んでるとバカになるよ、葎花」
「本当にそう思う。でも、今はどうしたって最新情報がほしいよ」
新聞もニュースもここんとこずっと異常気象に関するものでいっぱいだった。日々、更新される事実と憶測。
「それにしてもなんなの? このミカエルって人。迷惑系ユーチューバーもついに殺されるほどの社会悪に成り下がったの?」
「ネットニュースのコメント欄なんて笑っちゃうよ。散々言われ放題。これが最後の炎上だね」
「悪趣味! よくそんなもん見れるね。あたしゃ、不愉快なだけだから絶対見ないよ」
お互いに額の汗を拭きながら朝食を摂る我が子二人を、だが弥生は不安そうに見つめる。
「正直、被害者さんのことは私はよく知らないけど、殺ったのはあの人たちだって言うじゃない。これでまたお父さんももっと忙しくなるね」
「会いたいなぁ。帰ってこないかなぁ。お父さん」
「六煉の話になると人が変わっちゃうから、お父さん。僕はしばらく帰ってきてほしくないな」
中心都市と言われる禾南は住宅地や会社、各種店舗が増え過ぎて資源と呼べる物はほとんど自給できない。よって近くの町が供給することとなっている。凛府もその一つ。主に米や野菜などの農作物が多い。
そんな田舎と言っていい町でも当然、お巡りさんはいる。相楽はその中でも上官に当たる。巨大な組織である禾南警察とも太い繋がりがある。
「昨日、電話があったけど、どうも様子がおかしいって。時春さんってけっこう直感の鋭いとこあるでしょう。悪い予感しかしないって」
「なるようにしかならないよ」
「あんた、最近そればっかだね。じゃ、私はお先に学校行くからね」
葎花は今日も朝練だ。それも最近は一人のことが多い。みんな無気力になってる。ずっと前からそうだ。中等部に入った辺りから周囲の子どもたちがみんなつまらなそうにしてるように感じる。シケた面してるか、ヘラヘラしてるかどちらか。世の中全体がそうなってると専門家も分析してる。部活動にも勉強にも精を出さない若者が増えていると。
年長者は嘆いている。妖魔恐慌という災厄と二十年の平和を挟んで、この世界は変わってしまったと。
「う、あっつ」
飽きもせず、家から一歩出ると第一声はこれ。だが、二言目はいつもと違った。
「はい?」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。まずは後方を、それからぐるりと辺りを見回したが誰もいない。
「気のせいかな」
「なにが?」
ひょいと肩越しに顔を覗かせてきたのは夏芽。葎花は心臓が止まるほど驚く。
「わぁ! あぁ、なんだ、夏芽ちゃんの声かぁ」
「だからなにが?」
「なにがって……。今、私のこと呼んだでしょ?」
「呼んでないよ。驚かそうと思って黙って近づいたんだから」
こっちにも悪趣味が、というツッコミはさておき葎花はいよいよ不気味に感じる。ただでさえこの暑さでナーヴァスになってるから尚更。でも夏芽には言わないでおこうと思う。楽天家の葎花に対して夏芽は意外とデリケート。気高そうな外見や言動とは裏腹に。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。それより今日はどうしたの? 夏芽ちゃんも朝練?」
「発表会も近いからね。まぁ、そんなに大規模じゃないらしいけど」
七歳から一緒に剣術を始めた二人だが十年が経つ間に方向性ははっきり分かれた。あくまでも武道として一対一で戦うことを前提とした葎花に対して夏芽が選んだのは儀式としての剣術、一言で言えば剣舞。
だから表現は当然、試合ではなく発表会とか披露会とかそんな感じになる。
「いいよねぇ。剣舞も。かっこいいし綺麗だし。私も観に行こうかなぁ」
「……葎花、なんか視線感じない?」
「え?」
夏芽は後ろを振り返り、辺りを警戒する。葎花も、たしかに感じる。なんだか物凄く禍々しい。それでいて決して陰湿ではない、変な形容だけど、純粋な悪意。
その時、唐突に雨が降ってきた。いわゆる狐の嫁入り。天気予報でも降るなんて言ってなかったのに。
「こんにちは」
傘を持ってない、どうしようと思っていた二人に突然話しかけてきたのは自分たちより三つや四つは確実に歳下と思われる少年だった。
「はい?」
タイミングがタイミングなだけに不審に感じざるを得なかったが、この少年自体にはなにも怪しい点はなかった。それなのに、なぜだかわからないが葎花は鞄の中に入っている凛刀の存在を意識していた。使わなければならない事態が脳裏に浮かんでいた。
まだまだ未熟者とはいえ、それは剣士としての本能だったんだと思う。
「この辺りで一番、街中が見渡せる場所はどこかな?」
葎花は夏芽と目を見合わせる。ただ道(もとい場所)を尋ねているだけ?感じていた視線の主はこの子ではない?
「えぇと、それだったら自然公園の展望台かな、夏芽ちゃん」
「そうだね。えっと、ここから真っ直ぐ行くと教会があるんでそこを右に曲がって、あぁ、でもけっこう遠いんでむしろ駅の方まで戻ってバス使ったほうがいいかも」
「ふうん。ありがとう。お礼にいいもの見せてあげる」
「え?」
刹那、少年の背中からドス黒い影が吹き出てきた。この感じ、さっきから感じてる負の感情の塊のようなただならぬ気配。
「僕の友達のシューイっていうんだ。まだ子どもだけど、強いよ」
黒い影は徐々に動物の形を帯びてくる。よくて狼、最悪ならケルベロスと言っても過言ではないほど恐ろしい魔物となって、今にも飛びかかってきそうだ。
「葎花、なんかこいつやばい」
手を掴まれた葎花は夏芽の顔を見てギョッとする。先ほどまでとは比較にならないくらい、滝のような汗をかいている。
「逃げるよ!」
なんなの。一体なんなの。
葎花はわけもわからぬまま走る。
「あいつの左目、見た? あいつ六煉桜だよ!」
「ひぇっ? なんでわかるの?」
「バカ葎花、現社の授業で習ったでしょ! 黒目が消えて真っ白になって気を解放するとピンクに染まる。しばらくするともとに戻るんだけど、絶対に三秒以上睨まれたらダメだって!」
呼吸を乱しつつも夏芽は説明する。剣術の鍛錬のためでもこれほど全力で走ることはないってくらい、二人は必死で逃げている。
深く考えての選択ではなかったが、二人は結局、学校に駆け込んだ。まだ朝も早い。校庭には誰もいなかった。職員室、目指すべきは職員室だと、二人は確認するまでもなくアイコンタクトだけで頷き合った。
校舎に入るとそこで初めて後ろを確認する。あの少年は追いかけてきてはいない。少なくとも見える範囲まで追いつかれてはいない。
二人はそこで一つ深呼吸してからとりあえず靴を履き替える。本当に怖かった。だが、どうやら緊急の事態は去ったようだ。
「さっきの子、いったいなんなの? 六煉の奴等だって本当? なにが目的なのよ」
「私だってわかんないよ。でも葎花だってニュース見たでしょ。ミカエルとかいう奴が殺られたって。あいつら、なにか今までとは明らかに違うことを考えてるよ」
「この異常気象と関係あるの?」
「だから私にもわかんないよ。とにかく職員室に行こう。警察にも言わないと」
なんだか大変なことに巻き込まれてしまっている。葎花はそう感じた。
「お父さんからいろいろ聞いてはいるけど、六煉桜ってあんなに子供もいるの? だとしたら怖すぎるよ」
「大人でも子供でも怖いよ。わかってる? あいつら言ってみりゃ殺し屋だよ。そんな奴等に私たち、目ぇつけられたかもしれないんだよ」
「道聞かれただけ、だよ。たぶん」
そんな会話を交わしているうちに職員室についた。剣術部顧問の紫門先生がいたのが幸いだった。一番信頼できる。
まだ気持ちが落ち着いていない葎花に代わって夏芽が今、自分たちに起きたことを説明した。紫門先生は半信半疑な感じだった。二人のことを疑っているわけではなく、二人の考えたことが現実的でないと思うという意味でだ。
「六煉桜、あいつらがどれだけ極悪人揃いかわかってるのか? そんな奴等が凛府みたいな平和の代名詞みたいなとこに現れると思うか?」
「思わないです。でも時々、全く理解できないようなこともやってきた奴等ですよ」
父親である相楽から何度も聞かされてきた。二十年前の妖魔恐慌の時、六煉桜はまだ存在していなかった。いまだ未確認の部分も多い組織だが、頭である晃という男はあの時、ちょうどそう、あの万月と同じくらいの年代だった。
たしかに味方だったんだ。あの頃は。万月と並び称される剣豪として悪と戦った。
恐慌の終焉から数年、万月と晃、奇しくも対照的な意味合いの名前を持つ二人の英雄は、互いに全く違う道を選んだ。
「警察には俺から電話しておくよ。一応な。でもな、あまり気にし過ぎるなよ。特に夏芽、お前は気持ちの乱れがモロに剣に出るからな。発表会はもちろん年明けからは練習はもっと厳しくなるからな。それは葎花、お前もだぞ」
「はい」
紫門先生はいい先生だ。二人のことを本当に愛弟子と思ってくれてる。でもそれだけに、他の部員があまりにも怠け切ってることにイラ立っていて八つ当たりのように二人に厳しくなり過ぎる時がある。
いくら剣術家としても指導者としても一流であるとはいえ先生も人の子である以上、仕方ないことだとは思う。それでもまだ十七歳の二人には辛過ぎる時もある。
「失礼します」とだけ言って二人は職員室から退室した。まだホームルームが始まるまでにはかなり時間があったが、すぐに気持ちを切り替えて朝練に向かうのは不可能だった。
ガラッ!
これからどうしようと話していた二人は乱暴に開かれるドアの音に驚いた。視線を上げると身長百八十五以上の紫門先生が怖い顔をして二人を見ていた。
「葎花、今すぐ病院に行け。禾南の総合病院だ。そうだな、俺も一緒に行ったほうがいいな」
「あの、なにかあったんですか?」
葎花はなぜだか恐ろしくて紫門先生の目を見られなかった。居たたまれなくなって夏芽のほうを見たが、こちらも同じ気持ちで二人は見つめ合うことになった。
「街に妖怪が出始めたらしい。特に禾南のほうに一匹、群を抜いて手強い奴が。相楽さんが退治したらしいが、軽傷とは言えない状態らしい」
6
「お父さん!」
廊下は走らないでと三人の看護師から注意されながら駆け込んだ病室で今度は「静かに!」と注意された。
「お父さん」
言われた通り今度は静かに言ったがあまり意味はなかった。久しぶりに会う相楽は冷えた目をして窓の外を見ていた。各地で少なくともこの世のものではないと人目でわかる生物が確認され始めたという禾南の街並みを。
「孤兎市め。ガキだと思ってたのに随分と力をつけやがった。正確に言えば舞雪が力を増幅させているんだろうが」
「コトイチ? マユキ? ねぇ、お父さん、なにがあったのさ。説明してよ」
相楽はベッドから上半身を起こした。「イテっ!」と言うので葎花は駆け寄ったが手で制した。大丈夫だ、と。
「まだ内密の情報だがもう二、三日もすれば隠せなくなる。いや、隠しておくわけにはいかなくなる。恐慌がまた始まる」
「恐慌?」
もちろん、知らないわけじゃない。でも、現実の問題としてピンとこない。二十年も前に終わったはずでしょう?
「問題なのは妖怪たちの様子がおかしい。何者かが明らかに意図して操っている。と、思ってたら案の定これだ」
相楽はA4程度の大きさで、三つ折りされた跡のある紙切れを見せてきた。
六煉桜からの、宣戦布告と言っていい内容だった。妖怪たちの操縦桿は我々が握らせていただいた。これから全人類に地獄を見せてやる、と言った内容だった。要約すれば。実際に全文を一字一句熟読することは葎花には無理だった。あまりにも辛辣な言葉の羅列で、心臓を引きちぎられそうなほどの悪意と狂気に満ちた文面だったから。
「ほとんどの妖怪はまだなにもしてない。紫門先生から聞いたろ? 明らかに一番強い奴だけが動いた。それが不自然なんだよ。孤兎市が操っている」
黄の桜・妖魔使いの孤兎市。
相楽はその男の容姿や特徴を説明した。鈍い葎花でもイヤでもピンとくる。
「そいつ、私、会ったよ。夏芽ちゃんの話ともしっくりくる。間違いないよ」
「会った? どこでだ?」
葎花はここでようやく自分がバカみたいに突っ立ってることに気づいた。近くにあった椅子を引いてきて腰掛ける。そして今朝からの自分たちの身に起きたことを説明する。
「あいつら、マジでキレてるぞ。その一番強い妖怪が誰を襲ったと思う? 総理大臣だ」
葎花はギョッとした。
「今までもそこそこの大物は狙ってたよ。でも妖怪が現れた途端にいきなり国のトップの首、穫りにきやがった。この世界を腐らしてる奴等に対してマジで容赦しねぇつもりだ」
「腐らしてるって……」
葎花が口を噤んでしまったところで病室のドアがノックされた。相良が「どうぞ」と言うのとほぼ同時にドアが開けられて、葎花も何度か面識のある人物が現れた。
「時春さん、見事にやられちまいましたよ」
「いや、それでも思ってたよりは軽傷だ。首相官邸を襲った妖怪の死体の解剖結果が出た。どうやら二十年前にも多発していた狼型の中等妖怪だ。学者たちは白尾って名付けてるらしいが、正直、名前なんてどうでもいい」
とにかく獰猛さが最大の特徴。実際、今回も大量に動員されたガードマンを次々に蹴散らしながらド派手に大暴れしてくれた。
時の総理大臣、残馬康生。こいつも中々の悪人物だ。
「残馬総理もたしかに六煉が大っ嫌いなタイプだよな。国民のご機嫌取りばっかして支持率は上がってるけど、実際には私腹肥やすことしか考えてねぇ」
「完全週休三日制、これが史上最低の悪政だと自分も思ってます。無計画に一律に。一体あいつはこの国のなにを知ってるんでしょう」
「皆さん、もっとのんびり生きましょうだと? 世の中の歯車が全部ぶっ壊れるぞ。乱心か? あいつは」
相楽も時春もかなりイラ立ってる。特に相楽のほうは普段はいたって温厚なお父さんだから葎花にとっては、怖い。
「あのさ、お父さん。時春さんも。さっきからどっちの味方なの? 残馬さんは被害者でしょ? あの人だって大怪我したんでしょ?」
「葎花、大人の話だ。聞きたくなければもう帰りなさい。お父さんは大丈夫だから」
相楽はともかく、時春は葎花をまだお子様だと思ってる。事実、いくら剣術に長けているとはいえ、これから始まるであろう戦いに於いては、市井の人にすぎない。
「帰らないよ。私だって、なにがなんだかわからないまま死ぬなんて絶対にイヤだ」
「死ぬなんて言うな。まだ悲観的になるには早い」
「葎花ちゃん、悪いけど俺たちはこのまま話を続けさせてもらうよ。俺はな、六煉の奴等の考え方にはむしろ賛成なんだ。もちろんやり方には反対だから絶対に止めてみせるけどな」
「葎花、やっぱりお前もう帰れ」
子供に聞かせたくない話だと相楽は判断した。だが、久しぶりに会えた大好きな父にはっきり「邪魔」と言われたようで、葎花は泣きたくなった。
「無理をし過ぎるのはダメって風潮が一周回って人は一切努力しなくなった。そんな状態でどうやって夢や目標が持てる。結局、どいつもこいつもスマホに取り憑かれたまま家と職場を往復するだけ。休みの日は一日中、動画を見てそのコメント欄だけが居場所だ。七十億総引きこもり時代、そう遠くないうちにやってくるかもしれねぇぜ」
「ちょっと待って下さいよ! 考え方が極端過ぎます! 私の友達はそんな人たちばっかじゃない! みんな明るくげん、き、で優し……」
思い浮かんだのは夏芽だけだった。「みんな」なんて言いながら、葎花が大好きなのは、ちょっとクールで取っつきにくいけど、いつも自分を支えてくれる大人びた、夏芽の笑顔だけだった。
「葎花、たしかにまだ絶望するには早い。でもこの世界はもう腐り果ててるって考える人間はたくさんいるのが事実だ」
「裏返せば、そんなんじゃダメだって、変えようとしてる人だってたくさんいるってことでしょ」
「この世界はもう全部みかんの箱なんだよ。腐敗を止めるのは簡単なことじゃない」
限界だった。葎花は立ち上がって、まだ言いたいことはあったけど、なにも言えずに逃げ出した。
「二人とも、どうかしてるよ。バカ」
病室を出てすぐの階段の踊り場にうずくまり葎花はひとしきり泣いた。
家に帰った時には既に国中、つまりは禾南とその周辺の市町村が大混乱だとテレビのニュースが伝えていた。
「本当になるようになっちゃったよ。ヤバいね、これ」
真はなんでそんなに落ち着いていられるの、と葎花はまた悲しくなってきた。
第二章 真実の戦い
1
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず
いつの日からか歴史の教科書から消えた狂歌。葎花はわりと世界史が好きだから知識の中にあった。
これから世界はまさにその状態になるだろう。
案の定、世論は荒れた。考えなければいけないのは自分の身の安全の確保。それが最優先のはずなのに始まったのは批判合戦だった。
あいつが悪い、お前が悪い、そういうお前が一番悪い。
耳を塞ぎたくはなかった。胸糞悪い気持ちを凌駕するほど、今は真実を知りたい気持ちでいっぱいだった。
人間てものは一体どうなっちゃってるの?
残馬康生への襲撃からわずか二日後、六煉桜は間髪入れずに禾南最大規模の病院を襲った。
相楽が言うにはここもどうやら随分と胡散臭い「企業」のようだ。
そんなこと知らないよ、患者さんたちにはなんの罪もないでしょ。葎花はそう思ったが、妖怪たちは一般の患者たちに危害は加えなかった。
ー六煉グッジョブ!ー
ーゴミ掃除お疲れ様です!ー
ー胸がスッとしたわー
不愉快になるだけだから見ないほうがいいのはわかってる。それでも、この期に及んでまだヘラヘラしてる(文字からだけでも伝わってくる)ネット民はもう人生を舐めてるのかと泣けてくる。
お願いだから、みんなもっと真剣に生きて……。
理不尽かと思いきや、綿密な謀略のもと行われているとわかる六煉の猛襲。それはギリギリまだ警察の手に負えるレベルだったからタチが悪い。負けず嫌いの時春はかなりムキになって人員を大量に動かし、妖怪と対峙した。
悪徳金融が襲撃されたかと思えば、次は刑務所が襲われた。この辺りまで来ると人々は気づき始めた。善良な小市民は狙われないと。ニュースも「だからご安心下さい」と、嬉しそうに。
自分たちの物差しだけで襲っていい人とそうでない人と計っていいと思ってるの?
古来から、罪を犯した人間は心から反省し、謝罪し、償うべきだった。
それが、人間というものは神様が思うよりずっと愚かだった。
反省するどころか後悔もせずに、過ちを繰り返す人間に、人々はお互いに「罰を与える」という制度を作らざるを得なかった。
目には目をだかなんだか知らないけど、それが「法」というもののそもそもの始まりだとー
夏芽が言ってた。葎花は人間がどうの人生がどうのと複雑に考えてなかった。ただみんなが笑顔で幸せに生きられればいいと幼心に思っていた。
六煉はこの社会が生み出した悪に罰を与え続けるの?自分たちが神様にでもなったつもり?
妖魔恐慌の終焉から二十年。復興は十分に済んだ。だが、同時に人々はものの見事に平和ボケした。
それも優しさが生んだ平和じゃない。妥協が生んだ平和だ。
そもそも人間は「譲れないもの」というのが無ければ争い合ったりしない。良くも悪くも、と言いたいところだが、今の世の中では明らかに悪い意味でだ。
疲れるから、めんどくさいから、怖いから、それほど強く主張したいことなどないから、自分が悪者になりたくないから、かえってストレスが溜まるから、そういう理由で人々は滅多に喧嘩などしなくなった。
希薄化していく人間関係に比例して人々のモラルも同時に知性も加速度的に低下していった。
「その結果がこれだ」
残馬康生の一件からちょうど一週間、今日で退院できるという相楽を見舞いに行った葎花だったが、怪我のほうは全快したというのに相変わらず暗い顔に辛辣な口調の父に、正直辟易した。
「未知の敵に対して怯えきってるだけならまだマシだってのに逆に街に繰り出したあぁだこうだ喚いてる輩がウジャウジャいる」
「みんなパニックになってるだけだよ」
「うん、だからそれが問題なんだよ」
日本、禾南からは遠く離れた国にそれはそれは大きな蒸気船が四隻来航した。それに対して国民は大混乱を起こし夜も眠れぬような事態に陥った。
今の禾南はそれと同じ状態だ。
「よく勉強してるんだな。葎花」
「文系科目は全体的に好きなの。心がある気がするから」
一応は真にバカにされっぱなしは悔しくて勉強も決して手を抜いてはいない。ただ、理数系、特に数学は苦手だった。
なんというか、全てが論理だけで説明できてしまう感じ。合理的で明確な正しさだけが力を持つ世界が葎花には、容赦なく非情に感じられて怖かった。
「日本と言えばな、葎花。六煉桜には日本出身の人間もいるんだよ。舞雪っつう、女だ」
「女の人?」
葎花は少し驚いた。これほど過激な暴力行為を繰り返す人たちの中に女性もいるの?
白の桜・影援魔導師の舞雪。
「こいつだけは俺も正直、手を出しづらい。理由がある。でも時春さんが言うにはこいつを先に片付けることが一番、戦局を有利に進められる」
「理由ってなに?」
「んー、まぁ。俺の私情だ」
相楽は頭をガシガシかいて誤魔化した。葎花もそれ以上は追及しなかった。
影援魔導師ーあまり一般に知られていない位で世界的にも例が少ない。
自分は決して戦陣に立たずにあくまでも危険の少ない場所(影)から、組織の補佐をする役割。見方によっては直接的な攻撃魔術よりも高い知略知慮と高等な妖技力を必要とすると言われる。仲間の能力を高める魔術を駆使するのもその特徴の一つ。たしかに真っ先に成敗すべき存在かもしれない。
「それからあいつらの中では一番下っ端の孤兎市。こいつも厄介だ。武力も魔力も大したことないが動物を自由に操る。舞雪によってその能力を高められた状態なら魔獣や妖怪だって意のままだ。言わずもがなだろ?」
葎花はコクリと頷く。二の句も継げない。なんだか自分の想像を遥かに上回るほどにとんでもない組織で、逆に呆れにも似たため息をついていた。
「あいつらの本当の目的、最終目標が見えてこない。あいつらは半分近くは愉快犯の側面もある。人間社会へのたっぷりの皮肉を込めた犯罪行為だよ。あいつらがしてきたのは」
「許せない、よね?」
「んー、まぁな」
また、怖くなった。相楽は六煉桜を心底憎んでいないのが伝わってくる。たぶん相楽は自分なんかよりもずっと彼等についてよく知っている。そのことが葎花には歯がゆい。
「葎花、しばらくは一人で行動するなよ。大勢で言えば安心てわけでもないが、例えば怪我をした時なんかにすぐに救急車を呼んで応急処置をしてくれる人がいれば命の危険はグッと下がる」
「わかってる。気をつけるようにする」
「それとな、葎花。これはまだたしかな情報ではないが、葎花、お前、もしかしたらまた孤兎市と遭遇することもあるかもしれないぞ」
相楽の口調がさらに厳しくなった。それ以上に言葉の内容に葎花は鳥肌を立てた。
「なんで? 私がなにかした? 勘弁してよ。本当に怖いんだよ」
「気持ちはわかるけどとにかく不自然なんだよ。あいつがわざわざ単独でお前と夏芽ちゃんの前に姿を現したことが。なにか意味があるはずだ」
「私なんてただの女学生だよ。ちょっとばかし剣術ができるだけの。なんにも悪いことなんてしてないよ」
「わかってるさ。なにも命を狙ってるとは限らない。ただもしものことがあったら、すぐに逃げるんだぞ。戦おうなんて思うなよ」
「当たり前でしょ。私は試合でしか剣術は使わないって。殺し合いなんて論外だよ」
葎花は話題を変えたかった。なにかないか、明るい話題は、と必死で考えたが無理だった。仕方なく会話を継続する。同時に終わらせようとする。今はもう二人で早く家に帰ってゆっくりしたい。
「夏芽ちゃんにも一応話しとく。だからお父さんも安心して。お願いだから、笑ってよ。お互い疲れちゃうよ」
「そうだな。悪いほうにばっか考えても仕方ないしな」
そう言ってやっと相楽はニコリと笑ってくれた。精一杯の作り笑いだとしても嬉しかった。
2
その時は思っていた以上に早く訪れた。
妖怪たちは当たり前のように街中を闊歩するようになっていた。当然だが人々は気味悪がると共に恐怖した。
所詮、作り話の中にしか存在しないと思われた生き物が目の前に存在している。そして彼等が人間の持つイメージ通り夜に活動することも学者たちが主体になって解析し、発表した。
それでも人々は最低限の食料調達程度に外出を抑えた。ただ相楽の言うように怖いもの知らずで、いや、逆に怖いもの見たさで外出する者も決して少なくなかった。
学校は、というと平常通りに開校している場所がほとんどだった。と言っても登校する生徒は半数にも満たなかった。
「冷静に考えれば妖怪たちは家の壁くらい突き破ってくるんだから閉じこもってたって無駄なんだよね」
夏芽はとりあえず目の届く範囲に妖怪の姿はないので安心して歩いている。むしろ腕を掴んでくる葎花を鬱陶しがってる。
「頭ではわかっててもさ。本能だよ。本能で怖がってんの」
ちなみに今日も絶賛異常気象。ただし妖怪たちが出回る段階になって平均して3〜5度程度下がっているのは二十年前と同じだと学者たちは解析している。
「あれ、やばい。葎花、この感じ。デジャブ?」
「へ、なにが?」
夏芽が急に険しい顔になってぐるりを見回す。葎花は何事かわからなかったがすぐにピンときた。
「視線、感じるよ。葎花、あいつがこの近くにいるのかもしれない」
「気のせいだよぉ。ていうか気のせいであってよぉ。本当に怖いんだよぉ」
ちなみに「三秒以上睨まれたらダメ」というのは完全に都市伝説だと相楽から教わった。「俺なんて灼瑛と三十分以上ガンつけ合ったことあるからなぁ。はっはっは!」と時春は豪語しているらしい。そもそもなにが「ダメ」なのか具体的に言ってない時点で明らかに胡散臭いデマだとわかるが。
「こんにちは」
「ぎゃー!」
一体どこから現れたのか。確実にあの時のあいつだとわかる少年が葎花の真横に立っていた。夏芽も葎花もバッと身を引いて距離を取った。即逃げたほうがいいのはわかってるのにどうしてだか足が思うように動かない。
「そんなに怖がらないでよ。僕は別に君らを攻撃したりしないから。『僕は』ね」
その少年、孤兎市は右手をスッと前に突き出した。手の平を上に向け、なにやら怪しげに指を動かす。説明できない不思議な感情が二人の少女の視線をそこに釘付けにさせる。
十五秒ほどそうしていただろうか、プシューという音と白い煙と共にそいつは現れた。
「まずは小手調べ。この子を倒せる?」
キュー!
それはそいつが発した鳴き声だったのか。とにかく大きな、軽く全長一メートル以上はあるネズミのような生き物が葎花たちに明らかな敵意を含んだ眼で見つめていた。
「逃げるよ」
「ごめん、夏芽ちゃん。私、なんか戦ってみたい」
「は! なに言っちゃってんの? あんた!」
葎花は愛用の凛刀を収めた袋の紐を解いていた。完全に自分でもおかしなことをしているとわかってるのに。
「そうくると思ってたよ。さぁ、チャミー。この子たちを好きなようにしな。食べちゃってもいいよ」
穏やかじゃない。夏芽はなにがなんだかわからないけど正気を失ってる親友に合わせて自分も剣を抜いた。
私は武術としての剣は素人なのに……。
「キュー!」
今度は確実にこのネズミもどきの声だとわかる。いきなり襲いかかってきた。葎花のほうに。
「はっ!」
チャミーとやらの腕より葎花の刀のほうがはるかに長い。まずは腹に一太刀浴びせた。大丈夫、固くなってはいない。葎花はそう感じた。
戦える。十分に勝算はある。
「うおりゃっ!」
ガンッ!
隙だらけの脳天に夏芽が一撃!これには葎花が面食らった。
「夏芽ちゃん!」
「化け物に食べられるくらいなら戦うわよ」
ネズミもどきは声も出さずにその場にぐったりと倒れてしまった。はっきり言って気持ち悪い。
「あら? 呆気ない」
二人が拍子抜けしていると、孤兎市はうーんと唸った。左手を腰に、右手を顎に当てている。
「ありゃりゃ、思ってたよりずっと強いね。ごめんね、チャミー。あとでちゃんと回復させるから許してね」
妖魔使いの孤兎市、だったか。これがその能力なのか。動物を操るっていう。葎花はあらためて自分が六煉桜の一人と対峙していることを実感する。
「だからさ、あんたはなんなのよ! なんで私たちに付きまとうの? あんたたちが狙ってるような人間じゃないでしょ!」
「うーん、正直、用があるのは葎花って子のほうなんだよね。どっち?」
「こっちよ!」
葎花は名指しされたことに驚きつつも威勢よく答えた。その時だった。
ぞくっ!
孤兎市から感じていた視線とは比べ物にならないほど強い敵意を持って睨まれている。
どこから?一体どこか……。
「可愛い子じゃない。なおさら、可哀想ね」
「キャー!」
そいつは葎花の背後から、たしかに首を握っている。ショートボブの髪がふわっと浮かび上がった。風がそうさせたのか?それとも恐怖からか?
葎花は慌てて振り払ってそいつから距離を取った。夏芽も五メートル以上後ずさった。
綺麗な人。
心臓が止まりそうなくらい怖いはずなのにまず感じたのはそれだった。
真っ白な生地の、たしか日本でいう「着物」っていう服。そこに紫の花柄が上品に散りばめられている。
なんて綺麗な人。この世のものとも思えない。
葎花も夏芽も見惚れてしまっていた。この人は何者?考えられるのは一人しかいない。
「舞雪……さん?」
二人ともよっぽどマヌケな顔をしていたんだろう。白の桜・舞雪は妖艶に、そうあまりにも艶めかしく色っぽく嗤った。まだ十と七の二人には到底真似できない大人の女の色香。
「敵に対してさん付け? お行儀のいいこと」
言われてみればおかしいことだが二人は違和感を感じていなかった。それくらい、この女の人が六煉桜の一員、二人のイメージからすればだいぶ野蛮な人たちの仲間だなんて思わなかった。
「あまり礼儀正しい挨拶でなかったことは謝るわ。ただね、葎花さん。あなたにはどうしても言っておかなければいけないことがあるのよ」
「……」
「声も出ないようね。そんなに怖がらなくていいのよ。今この場で命の取り合いをする気はないから。『今この場で』はね」
「一体、私になんの用があるっていうんですか? 私、あなたたちになにかしましたか?」
舞雪が登場してからはずっと黙っていた孤兎市が一歩前に出た。
「月虹石」
「えっ?」
「光栄に思いなよ。晃様が君を必要としているんだから」
アキラーこの名前が出ただけで葎花は息を飲んだ。夏芽も同様だ。
「君の体内に眠っているんだよ。月虹石っていう石がね」
「コト、あなたは黙ってなさい。説明が下手なんだから。この子たちも困ってるじゃない」
「同じことじゃん、マユ姉。どうせ一から十まで説明するわけじゃないんだし」
頭の中にクエスチョンマークが三十個くらい飛び回っている葎花だったがどうにか気持ちを落ち着けようとする。
「ゲッコウセキってなんなんですか? 体内? 私に、なにをどうしろっていうんですか?」
「今はまだこれ以上は言えない。ただ一つだけ。私たちは人類全てを敵に回そうとしてる。これから始まるのは、本当に正しいのは誰か、真実を決める戦いよ」
ここまで、ただ圧倒されるように言われるがままになっていた葎花だったが、ついに感情が爆発した。
「か、勝手なこと言わないで! あなたたちがどう思おうとそれは私が変えられることじゃないけど、今やっと世界は平和を取り戻してるの! たしかに私にだって気に食わないやつの一人や二人いるけど、だからって関係ない人まで怖がせて、殺されるほど悪いことなんてしてない人まで殺して、正しいのは自分たちだけじゃないのよ! それこそ、私にだって正義くらいある!」
自分でも驚くほど強気な言葉が出た。隣りにいた夏芽もビビるほど。
舞雪は孤兎市になにやら耳打ちした。孤兎市もコクコクと頷く。
「気に入ったわ、葎花さん。今日のところはこれで引き上げるけど、長い付き合いになりそうね。お互いに生きてる限りだけど」
舞雪は右手を高く上げた。左手は自分より二十センチ以上は低身長の孤兎市の肩を握っている。
次の瞬間、二人は音もなく消えた。
移動魔法。そういうものが使える人がいることは知ってたけど実際に見たのは初めてだった。
夏芽はヘタリとその場に倒れ込んでしまった。無理もないと思う。
「私、しばらくは家に引きこもる。もうイヤ。なにがなんだか頭ではさっぱりわかんないのに、気持ちばっかこんなに怖いなんて」
「そのほうがいい。でも、私は向き合わなきゃいけない気がする」
夏芽の顔は見ないで葎花は静かに宣言する。
「葎花! あんた、おかしくなったんじゃないの! さっきもあんなわけわかんない化け物と戦うとか言って!」
「もちろんなるべく無鉄砲にはならない。お父さんとも、よく相談して」
夏芽はもうなにも言えなくなっていた。
葎花もそれ以上はなにも言わず、ただ「今日はもう帰ろう。学校なんてどうでもいいよ」と言ってお互い真っ直ぐに家に帰った。
とても疲れていた。
3
誰一人、笑っていられない状況になっていた。誰が見てもグロテスクだと感じる化け物が街中を跋扈している。それもその勢力は禾南の外にまでどんどん広がりもはや警察隊だけでは歯止めが効かない。
「民間人からも戦士を集うべきです」
警察の間ではそんな意見も出始めていた。妖怪たちもいつどのタイミングでもっと獰猛に暴れ出すかもわからない。全ては奴等の、六煉桜の思うがまま。
そんな折、凛府へと続く道を北上していく男が一人。
薄茶色に汚れた布に巻かれた長い棒状の獲物。それが彼の外見を説明する九割だった。実際にはその男自身も風変わりだったのだが、すれ違う、そうこの男は妖怪たちを全く恐れるふうもなく歩き続けていた。そんな妖怪たちもその明らかに殺傷能力を感じ取れる武器を恐れていた。
「ひゃあ、こりゃあ並の人間じゃあビビって外出れんくて無理もないわ」
襲ってくるわけでもない相手に自分から手を出すつもりはない。だが、そんなことも言ってられないだろうと男は思っていた。この事態を解決するには妖怪どもを一つ残らず退治してやるしかないはず。相手はまだなにも悪いことはしていない?知ったことか。
情け容赦などしていられないだろう。
シュルリ……。
男はずいぶん長いこと洗濯などしていないその布を解いた。現れたのは槍だった。
周囲を徘徊していた妖怪たちは一斉に反応した。生物としての本能だったのだろう。
その男、名は乱。姓はない。
互いの敵意が強く呼応した。妖怪たちは一斉に襲いかかった。
「この程度の妖力じゃ準備運動にもならへんけどな」
それは地獄とも思える光景だった。
まずは一匹目の心臓を寸分の狂いもなく貫く。表情一つ変えずに二匹目、三匹目、四匹目、五匹目、六匹目、七匹目、八匹目……。
「まだ終わらんのかいな」
一面、屍体だらけになったところでまだわずかに残っていた妖怪たちは逃げて行った。
「ほれ見い。こいつら感情なんてないんや。生存本能だけで生きとる肉の塊を殺してなにが悪い」
化け物の血でだいぶ汚れてしまった槍を洗いたいと思った乱はやはり目的地への道を急ぐことにした。
「月虹石……奴等はたしかにそう言ったんだな?」
「言ったよ。間違いないよ、お父さん」
相楽としては不本意そのものだったが今、自分は警察の一人として娘と向き合っている。もちろん自宅の中でとは言え。
「なんなの? 月虹石って」
葎花は率直な疑問を口にした。
「お前も万月についてはかなり詳しく知ってるだろ? だったら牙崙についてももちろん知ってるよな」
「それは、もう……知らない人いないよ」
牙崙ー二十年前の妖魔恐慌で最後まで人類を苦しめた最強にして最恐の敵。
こちらも最強の剣士である万月ですら倒すことーすなわち殺すことはできなかった。最後は魔界へと追い返し、警察隊の決死の覚悟で空間の歪みを閉ざすことしかできなかった。
「そこで万月が使ったのが伝説とも言われる聖石、月虹石だよ」
全ての強者がそうであるように万月も最初から強かったわけじゃない。だが、彼には天賦の才とも言うべき力があった。
「天文学的な確率だが心臓に月虹のように輝く石が埋め込まれた状態で生まれてくる人間がいる。万月がまさにそうだったんだよ」
「あいつ、孤兎市とかいうやつが言ってたよ。それが私の体内にも埋まってるって」
「信じられないな。まさか葎花が。お前、これからとてつもなく強くなるぞ。いつか必ず危険な戦地に駆り出されることになるくらい。ちょうど万月がそうだったように」
信じられないのは葎花のほうも同じ、というかそれ以上だ。たしかに剣術鍛錬に励む身として強くなりたい気持ちは当然ある。でも、そんな常軌を逸した、人間離れした強さは求めていない。
「それで、そこまではまぁ、無理矢理でも納得するとして、晃が私を必要としてるってのはどういうことなの? なんか見当がついてきたけど。晃って六煉の親玉だよね」
「俺から話そう」
それまで窓際に立って外を眺めながら二人の話を聞いていた時春が椅子を引いて座った。
「月虹石の力を使えば牙崙をも操ることができるだろう。万能であり使いようによっても白くも黒くもなる代物なんだよ。月虹石は」
さらに時春は「要するに」と言ってから葎花の鼻っ面を指差してこう言った。
「徒に怖がらせたくはないが六煉が君の力を利用するために狙ってくる可能性が高い。どんな手段でも使うだろうが、あいつらは、君みたいなタイプーまぁどんなタイプって一言では言えないが、好きなんだよ。単純に言って」
葎花はとりあえず鼻をベチャッと潰してくる時春の指をどかして、当たり前のように抗議する。
「あんな人たちに好かれたくないよ。鳥肌が立ちます」
ピンポーン!
シリアスな空気を逆に茶化すようなインターホンの音が響いた。対応したのは弥生だ。ちなみに真は今は自分の部屋にいる。時春たちの話を聞きたがったがまだ、特に子供には内密にすべきというのが警察たちの意見だった。
「はいはい、どちら様?」
ドアを開けたらいかにもみすぼらしい男が立っていた。弥生は一目見ただけで日頃、我が家を訪ねてくるような人間とは明らかに毛色が違うと感じ取った。
「あの……」
「突然すいません。先に警察の方へ寄ったのですが総長さんがこちらに出張ってると聞きましたんで」
弥生は警戒心を強めた。この男、意識して標準語を使っているということがわかるくらい、明らかに地方の訛りがある。それが悪いというわけではないがなにか素性を隠しているという空気が伝わってくる。
要するに、怪しい。
「母さん、どちらさんだい?」
なかなか玄関の方から反応がないので相楽が呼びかけた。
「失礼ですが、どちら様でしょう? 時春さんに御用でしたら日を改めては? うちは警察署ではありません」
「それも考えましたが、お宅に来ればもう一つの目的も果たせると思いまして。一石二鳥ってわけですわ」
「はぁ……」
弥生は一歩、後退った。特に理由は無かったのだが、それがよくなかった。男は靴を脱いで半ば強引に入ってきてしまった。
「あの失礼ですがその格好は……」
「あぁ、すんません。大丈夫、ボロボロなだけで汚れてるわけやあらへんっす」
もう標準語もどきをやめた。なんなんだ、この人はという気持ちはあったが、自分だけで応対するよりもむしろ相楽たちに任せてしまおうと考えた弥生はリビングへと男を通した。
「乱、どうしてお前がここに……」
最初に反応したのは時春だった。葎花は相楽と目を合わせた。だが、相楽は首を振る。知らない、と。
「おひさしぶりです、時春さん。正確に言うと三年ぶりやな」
「乱、お前は一体……。今までどこにいたんだ? 今さらなんの用だ? とっとと失せろ」
「つれないこと言わんといて下さい。あんたたちの手助けをしにはるばる帰ってきたんやで。日本から」
日本、という言葉に葎花が反応する。
「日本! あんなに遠くから! あなた、日本人なんですか?」
「日本に興味があるんかい? お嬢ちゃん」
葎花はなんだか自分から面倒な輪の中に入ってしまったような気がしたが、致し方ない。この男と向き合う覚悟を決めた。
「学校で習ったばかりで、ちょっと印象に残ってただけです。別に」
「そうかい。察するにあんたが葎花ちゃん。で、そちらの恰幅のいいおっちゃんがお父さんの相楽さんやな」
恰幅のいい、と表現された相楽も娘と同じような心境だった。なんだか上官である時春と不穏な空気を漂わせているこの男と関わるのは正直、気が進まなかった。しかし、そうも言ってられまい。
「弥生も聞いただろうが、どちら様です? 時春さんとお知り合いのようですがー」
「あぁ、いいよ。相楽。とりあえずこいつは悪者ではない。俺も事を荒立てたくはない。しばらくおとなしくしててくれ」
時春はいつになく慎重な口調でそう言った。そう言われれば相楽は黙るしかない。葎花ももちろん。
「バリバリの禾南人だろ、お前は。そのけったいな方言は母親譲りだよな。まぁ、そんなことはいい。日本なんかに出向いていったいなにをしていた?」
「別に、六煉桜の発祥の地をこの目で見てみたかっただけですわ。まぁ、なんてことのない中流国って感じやったけど。桜っちゅう花だけは綺麗やったわ」
六煉桜の発祥の地ーあまり有名な話ではないが巷ではそう言い伝えられている。首領と最初の同志が出会った場所だという。
「日出る国だの神の国だの言われとるようですがなぁ。今はこの辺よりももっとしけた国やったで。暇つぶしの喧嘩の相手も見つからんかったですわ」
「二度言わせるな。そんなこともどうでもいいんだよ。そこから帰ってきてここになにしに来たんだ?」
「そう怒り口調にならんといて下さいよ。こっちこそ二回目やで。手助けしに来たんや」
しんとした空気になる。その重い空気を破ったのはほのかな香りだった。
「そんなに遠くから来たならなおさらお疲れでしょう? 冷たいジュースでもいかが?」
「お母さん!」
弥生がキンキンに冷えたオレンジジュースを持ってきた。葎花は嬉しくなる。こんな時でも弥生は親切で優しい。誰に対してでも。
みかんはここらへんの名産品だ。もちろん世界の各地で取れるメジャーな果物ではあるが凛府のみかんは余所のものとは香りが別格だ。
「これはこれは。気が利く方や。ワシもちょうど喉が乾いとった」
乱ーそう呼ばれた男は弥生からコップを受け取るとジュースをゴクゴクと一息に飲み干した。異常な暑さは少しずつ弱まっているとはいえまだ外は例年の初夏くらいには当たる。それにしてはこの男はあまり汗をかいた様子がない。
「生き返りましたわ。おおきに」
弥生はにっこりと笑っただけで、空になったコップを再び受け取ると自分はまた部屋から出ていった。やはり複雑そうな心境だと、葎花には伺い知れた。
「おい、乱。みかんの香りのおかげで逆に気づいたが、血の匂いがするぞ」
「そうや、忘れとったわ。相楽さん、お風呂場かなんか貸してくれはりませんか? 槍に付いた血を洗い流したいんですわ」
部屋に入るなり壁に立て掛けておいた長い棒状のもの。それの正体は槍だと知った途端、葎花は立ち上がった。
「やっぱり! それ、槍だったんですね!」
別に葎花はバトルマニアではないがいろんな武器にはそこらへんの男子以上に興味がある。
「見てもいいですか?」
「ええけど、話聞いとったか? 妖怪の血が滴っとるで。気持ち悪いと思わんのけ?」
「そりゃ、思いますけど。そんなには。むしろ私が洗ってきますよ。なんか……」
もうこの場にいたくないんで。
そう言いたい気持ちだったが、言えなかった。
「他人に自分の家のお風呂なんて見られたくないんで」
変な理由をつけてしまったが、大人三人はそれで納得した。というか彼らとしてももう女の子をこの場に置いておきたくなかった。
「それじゃ、そういうことで」
葎花は自分の身の丈ほどもある長い棒を持って部屋を出ていった。本当は抱きかかえるように持たないとかなり重いのだが、そこは女の子。服が汚れるのがイヤで両手だけで無理して持った。
「さて……」
時春がいよいよ本格的に怖い顔になった。
「お前の考えを聞こう。まず、お前は自分のしたことを忘れたのか?」
「覚えとりますよ。酔った勢いで同じく酔っ払いに襲いかかって五人殺傷。そうでっしゃろ?」
当然、殺人罪で逮捕されたが、その襲った相手が問題をややこしくした。
「乱っていう名前、ずっと引っかかってましたがあの時の犯人でしたか。思い出しましたよ」
相楽も当時の記憶を呼び戻した。殺したのはとある「元」少年グループだ。当時十七歳だった少女を暴行の末に殺害。だが、例によって例のごとく、少年法に守られ極々軽い刑で済んでしまった。もはや、あるある話だ。
「よくぞ殺してくれたっていう無責任な世論がお前の味方をした。結果、お前自身も極々軽い刑で済んでしまった」
「所詮は酒の失敗や。もう時効っちゅうことにしてくれまへんか」
「バカたれ。だが、ここでお説教してたら話が進まん。『元』警察官のお前が俺たちの手助けをするのは不自然だぞ」
相楽は口を挟まなかった。もう九割方、思い出していた。乱はたしかに禾南の警察官だった。だが、事件をきっかけにお払い箱。散々、不満をぶち撒けて「あんたらなんざ金輪際、顔も見たくないわ」と蒸発した。
「なぜ今さら?」
「反省したからや」
意外な言葉が出た。常識的に考えれば普通のことかもしれないが、今、目の前にいる人間に常識的な物差しなど無意味なことは時春がよくわかっている。
「相手がクソガキだからワシは許されてもうた。そんなんはあんたらが六煉桜をイマイチ憎み切れんでいるのと大差ない。愚かなことや」
「喧嘩売ってんのか、おい」
「正義と悪の区別もつかんあんたらと同類やって気づいたら自分が情けなくなったんや。だから償おうっちゅうことや。あんたらのためやで」
しばし沈黙。時春はいろいろ考えているようで実はよく頭が働いていなかった。それは相楽も同様だ。胸の奥の方がムカムカするのだけを感じていた。
「相楽さん、一応、自己紹介しときますわ。名前は乱。元禾南警察の警察官。獲物は槍。自分で言うのもなんやけど腕は立ちますで。まぁ、今はただの風来坊。各地で日雇い労働みたいなもん繰り返して生きてきましたわ」
「噂には聞いてるよ。僕は凛府では一番、偉いお巡りさんで通ってる。相楽だ」
乱のほうから握手を求めてきたのであまり気は進まないが素直にその手を握った。
「お前をもう一度受け入れる気はないが、今は一人でも多く兵隊が必要だ。それに、不本意だが一応は一騎当千の強者と認めてる。力を借りるぞ」
「そう言うしかないと思ってましたわ」
時春は軽く咳払いした。今日のところは帰ってほしいと思い始めていたが、乱に席を立つ様子はなかった。まだ用があるようだ。
「槍を洗いたかったんだろ、お前は。葎花ちゃんに任せておいていいのか。大事なもんだろ」
「葎花ちゃんに一度、血ってもんを見ておいてもらうのもありやなって思うてな。あの子、なにかワケアリやろ?」
「昔から勘の鋭いやつだったよな、お前は」
ドーン!
唐突に凄まじい轟音が鳴り響いた。三人とも何事かと、慌てて窓の外を見た。
「花火……なわけあらへんな」
「空が、赤い」
「あっちの方角、禾南の方ですね」
嫌な予感がした。次の瞬間には時春の無線が鳴った。
二、三の問答。それだけで時春は全身が総毛立つのを感じた。そして、深刻そのものの表情で見つめる二人に告げた。
「禾南警察署が何者かに爆撃された。すぐに向かうぞ」
葎花はなんだか無心だった。外の轟音にも気づかなかったほどに。
「おかしいな。血ってこんなにべっとり付いちゃうものなの? こんなに擦ってるのに落ちないや。こんなにこんなにこんなにこんなにこんなに……擦ってるのに」
4
ガッ!
片膝を折り地べたに向かって拳を振り下ろす。時春は悔恨と自分への怒りを抑えられなかった。
「やられた。これほど完膚なきまでにやられるとは……」
「まさか、これほどとは……」
相楽も呆然と立ち尽くすことしかできない。
禾南警察署は瓦礫の山と化していた。
救急車は何台も出動していたが、消防車は一台も必要なかった。火災は一切発生しないほどに木っ端微塵に破壊された。
「灼瑛の仕業じゃない。あいつは炎を操るだけ。だが、これは明らかに爆破だ。誰だ。六煉の中でこんな芸当ができる人間。それとも妖怪の仕業か」
「今の段階ではなんとも言えないでしょう。時春さん、今は怪我人の救助が先決です」
心臓の鼓動が落ち着くのを待っているうちに先に鈍っていた五感が目覚め出す。
痛い、イタい、いたい……
地獄というものを地上で見れることになるとは思わなかった。当然、署内にはたくさんの人間がいた。即死した者もたくさんいる。腕を、脚を吹き飛ばされた者もいる。数十分間苦しみながら結局、息絶えた者もいる。
「待て、あいつは誰だ?」
時春が異変に気づいた。瓦礫の山の中央、先程までは確実にいなかった人間が、威風堂々と立っている。
「あいつは、血風刃!」
黒の桜・武闘剣士の血風刃。
「クソ野郎が!」
「待って! 時春さん、罠かも!」
その声は完全に激昂していた時春の耳に届いていなかった。時春は既に明確な闘志を持って血風刃に立ち向かっていた。
「売られた喧嘩は買う。いや、ずぅっと前から喧嘩は続いてるよな」
キーンッ!
周囲に響き渡る金切り音。時春の刀と、血風刃の刀が激しくぶつかり合い、火花が爆ぜた。
「微温い!」
「クソが!」
ブシュー!
時春が派手に倒れた。かなりの量の血しぶきが飛んでいる。
「相変わらず、化け物より化け物だな、血風刃よ」
「あんたが弱くなったんだよ。年を考えな、時春サン」
相楽が慌てて時春に近づこうとする。が、それを手で制す。これくらいの傷、屁でもねぇ、と。
「時春さん、申し訳ない。俺じゃあどうすることもできなかっです」
「気にすんなよ、波町。俺がいたとしたってどうしようもなかった」
自身もどうやら左足を負傷したらしい波町が瓦礫の山の中から出てきた。苦痛に顔を歪ませながら。
「答えろ、血風刃! これは一体全体なんだ! なにが狙いだ! そして、お前はここに一人でなにしに来た!」
極悪暗殺組織・六煉桜の、ナンバー2。それが警察たちの血風刃に対する認識。口癖は「どうでもいい」。剣術と格闘技の二つの道を極めし「武闘剣士」と呼ばれるタイプの戦士だ。
「狙いは俺としてはどうでもいい。ただ、ここに来たのはそうだな。花火大会を見るためだ」
「「「あっ?」」」
時春、波町、相楽の三人の声がハモった。
「なるべく死人は出したくないんだ。俺としてはな。一時間くらい待ってやるから街中の人間を避難させたほうがいいぜ」
「お前はさっきからなにを言ってんだ」
「決着を着けようと思うんだよ。晃の発案だが、俺たちも楽しんでやってる。ただ、どうも面白くねぇことが起きてる。俺たちとしてもな」
六煉とは長い付き合いになる時春にはこいつの言おうとしていることが朧気ながらわかっていた。「俺たち」というのは血風刃以下、晃以外の五人のメンバーのことだ。
「妖怪たちをもとの世界へ還してやれ。お前らならそれができるだろう。決着をつけるのは人間だけですべきだ」
決着ーこの言葉が具体的になにを意味するのか、警察や市民たちはわかっていなかった。六煉の思考回路は異常だ。そう、彼らはこの言葉に何年も前からこだわっている。
「真実を決める戦いを始めよう。というか、もう始まるようだ」
ドーン!
ドーン!!
ドーン!!!
耳をつんざくような轟音と閃光。一瞬にして視覚と聴覚がイカれるほどの。同時に思考も感覚もその機能を止められた。
「うーん、いい眺めだ」
遠く、北北西の方角から只事でない気配がする。徐々に感覚を取り戻すとそう感じた。
「あっちのほうは倉甲の街だな。この感じだともう、墜ちたな」
「なにをした! 貴様ら、なにをした!」
ドーン!
ドーン!!
ドーン!!!
ドーン!!!!
「次は向こうか。壇島の方向だな。あの辺りはかなり人口も多い。可哀想なもんだ。どうでもいいけど」
血の、血の匂いが漂ってきた。悲鳴も聴こえてくる。遠すぎて、どちらも微かにだが。
時春は、大変なことが起きていることをやっと理解した。
「波町! 相楽! 動けるやつらを集めろ! こいつら、禾南をぶっ壊す気だ!」
それからはあっという間だった。四方八方から聴こえてくる爆裂音。
戦争ー久しく聞いていなかった言葉。だが、今になって思い起こされる。本当に恐ろしいのはいつの時代も妖怪なんかよりも、人間の憎悪だ。
痛い、イタい、いたい……
痛いよ、お父さん、お母さん……
俺の手が、私の足が……
いたい、たすけて、だれか、しにたくない……
「血風刃! もうよせ! 誰がやってんだ! これは! 止めろ! やめさせろ!」
「どうでもいいじゃねぇか。人間いつかは死ぬんだよ」
まだ動ける警察官たちは東奔西走した。そこら中に転覆した救急車が見える。焼け石に水とはこのことだ。
ドーン!
ドーン!!
ドーン!!!
ドーン!!!!
ドーン!!!!!
さっき、ここは地獄だと感じたが、それは間違いだった。
どんな宗教家も哲学者もこんな惨状を思い描くことはできなかっただろう。名前をつけることができない。
「てめぇ! 六煉はこんなやつらじゃなかったはずだろ! 関係ねぇやつは巻き込むな!」
「だから、俺たちとしても面白くねぇんだよ」
時春はキレた。今、目の前にいるこいつをギャフンと言わせても無意味なことはわかってる。それでも……
「おぉおおおおお!」
「命は粗末にするなよ」
時春は我を忘れて血風刃に斬りかかる。ブンブンと刀を振り回す。が、全てなんなくかわされる。
「おやすみ」
血風刃は息を切らし始めた時春の首元にトンと一撃。それだけで、事は済んだ。
「これが、お前らの正義なら、絶対に許さねぇ……」
時春は気絶した。彼にとっては、そこで死んでいたほうがましだったかもしれない。
「目が覚めたら、もう一度戦おう。俺もこんな戦い方は本当はイヤだ。どうでもいいけどな」
5
禾南壊滅。
翌日のニュースも新聞も全てこの言葉で埋め尽くされた。
誰もが言葉を失った。お調子に乗り続けていたネット民も全員、言葉を失った。
「なるようにすらなってないよ。こんなふうになるなんて誰も思ってない」
冷静沈着な真もさすがに新聞を持つ手が震えている。葎花は体中、震えているが。
相楽は「花火大会」の後始末がある。もう半年くらいは帰ってこないんじゃないかと思えた。
「二人とも、一息つこう。コーヒー入れたから」
弥生も青ざめた顔だがなんとか平静を装おうとする。インスタントとはいえ、これまた震える手でコーヒーを三人分準備するのは一苦労だった。
「ありがとう、お母さん」
「いただくよ」
弥生としてはアイスにするかホットにするか迷ったが子供二人はどちらでもよかったらしい。氷の入ったブラックコーヒーをちびちびと飲む。
「どうなっちゃうのかな。私たち。っていうかこの世界」
「僕たち、死ぬのかな」
禾南の総人口は約八百万人と言われている。それが一夜にして、かき消えた。いつものように予告状があれば当然みんな避難していただろう。だが、今回はそれすらもなかった。やつらは間違いなく皆殺しにするつもりで禾南を襲った。
「死にたくないよ。殺されたくないよ」
葎花は泣き出してしまった。妖怪に殺されるのも怖くてたまらなかった。人間に殺されるのだって恐ろしくてたまらないのは当然だ。
「ちょっと横になってくる。なんか吐きそうなくらい気持ち悪い」
真はさっさとコーヒーを飲み干すと足を引きずるようにしてリビングから出て行った。
葎花は考えていた。嘆いているばかりではなにも解決しない。
今、自分はなにをすべきか。凛府、自分の生まれ育った場所で、思考を巡らす。
ゲホッ!
同じ頃、名もなき森の奥で吐血する男が一人。
勢いが余った。さすがにやり過ぎだったか。いや、そんなことはない。前哨戦はド派手にいかなければ。ずっと前から決めていたことだ。
それにしても世界的に見てもトップクラスの規模を誇る大都市・禾南を全てぶっ壊すだけの爆撃は自分の体も耐えられるギリギリだ。
ニュースでは全て六煉桜の仕業と伝えている。現場に居合わせた血風刃の存在が大きい。というか実際、報道は間違っていない。自分も六煉桜の「七人目」のメンバーだから。
狂い桜・人間爆弾の影狼。
幼き日、両親につけられた名前などとおに忘れた。捨てたわけではない。誰からも呼ばれることのない名前など記憶に残るはずがない。
夕べ、晃が訪ねてきた。説得のために。
俺たちのやり方に合わせてくれ。それがお前を拾ってやるための最初からの約束だっただろう、と。
その場で、まさに一触即発とばかりに殺し合いになる可能性もなくはなかった。だが、爆破呪文の最大の欠点は接近戦では使えないこと。剣だけの戦いになれば自分は晃に勝てる自信はなかった。少なくともかなりの重傷を負うことは避けられない。
死ぬわけにはいかない。生温い平和に浸かりっぱなしで脳味噌の髄まで腐らせた馬鹿共に、死んだほうがマシなほどの生き地獄を味合わせてやるまでは。
上辺だけの平和など、クソ喰らえだ。俺がもう一度起こしてやる。そして……
今度こそ、人類は滅びるべきなんだ。
第三章 贖罪
1
時春と相楽と、それから来るな来るなと言われながらも駄々をこねてついてきた葎花。行く先は凛府からからはかなり離れた山村、名前はさほど重要でないので葎花は知らされていなかった。
伝説の剣士・万月の現住地。それだけで十分だった。
憧れの万月様に会える。葎花は状況もわきまえずに胸を高鳴らせている。
別に、今までだって会おうと思えば会えたかもしれない。ただ勇気がなかった。門前払いを食らうのがオチだと思ったのだ。
最恐最悪の敵・牙崙から世界を守った英雄。だが彼は当然受けられるべき褒美を全て拒否しただけでなくこの小さな村に隠居することに決めた。
もう血を見たくない。剣を棄てて、違うやり方で罪を償う道を探そうと思う。
それが彼の意志ならばと人々はそれ以上なにも言わなかった。
そんな彼のもとへ向かう一行の思いは、彼の思いに反するものであることは百も承知だった。だが人類史に再び刻まれつつある災厄。食い止めるためにはどうしても強者の存在が必要だった。
「葎花、疲れてないか? 帰ってもいいんだぞ」
「そんなに帰ってほしいの?」
「危険なことに巻き込みたくないのは親として当然だろう」
「巻き込まれずにいるなんてできるわけないじゃない。もう既に地球人全員巻き込まれてるよ」
「そりゃそうなんだけどな」
結局、禾南を壊滅させるほどの「花火大会」を起こしたのは誰かわからない。だが、六煉桜以外に、六煉桜以上に厄介な敵がいるかもしれない。加えて世界中に蔓延る魔物たち。
勝てない。絶対に勝てない。
時春はそう確信していた。地球は終わる。人類は滅びる。考えれば考えるほど最悪な結論は真実味を増すばかりだ。
「万月さんは、動いてくれるでしょうか?」
「わからない。だが動いてもらわなけりゃどうしようもない。一騎当千の強者が、本当なら五十人くらいは必要な状況だからな」
そんなことを話し合っているうちに人家の群れが見えてきた。この中に万月の住む家がある。
勇退後、間もなく幼馴染の娘と結婚した。子供はいない。今は剣よりも強いとはとても思えないペンを手に日々を小説を、物語を紡いでいる。葎花は全て読んでいる。
どの作品も優しさや愛情に満ちた穏やかな筆致と世界観。これらの本を読んで、どうか優しい人間がこの世界に一人でも多く増えていってほしい。そうすればこの世界は変わる、かもしれない。それが剣士を辞めたあとの万月の願いであり、生き様。
万月ーそれがお前さんの終の棲家なのか。もう一度、立ち上がって、戦ってはくれないか。
時春はさほど迷うこともなく目的地を見つけた。事前に連絡は取ってある。電話越しでは彼の心中を全て読み取ることは到底できなかった。ただ乗り気でないことは察せた。戦いたくないわけではないという。自信がないというのだ。
自信ーそれがどういう意味なのか時春にも相楽にも察せなかった。
だが、葎花はわかる気がしていた。が、口には出さなかった。差し出がましすぎる。
ピンポーン。
インターホン一回ですぐに足音が聞こえた。出迎えたのは、控え目な美人、といった雰囲気の女性だった。万月の奥さんだと一目でわかる。女性はぺこりとお辞儀して「お待ちしておりました」とだけ言った。
実は初対面ではない。恐慌の終息後、何度か顔を合わせたことはある。ただ、それ以来ずいぶんひさしぶりであることに変わりはない。今現在の万月が一体どんな風貌になってるかなど、わからないことだらけだ。
警察手帳は出す必要もないだろうと思った。名前を名乗るだけで「百合流」という名の夫人は家に上げてくれた。
「あの、主人は今は少し、なんというか情緒が安定していない状態で。まずは私がお話を伺います。それを私が主人に伝えて、その後どうするかは、私たちに考えさせてもらいます。構いませんか?」
わからない話ではなかった。時春は素直に首を縦に振った。
「それで、そちらのお嬢さんは?」
百合流の興味と疑問は当然、後ろでモジモジしている少女のほうに向かった。葎花はドキッとしたが声が詰まってしまい、なにも言えない。が、相楽は助け舟を出さない。無理を言ってついてきたんだから自己紹介くらい自分でしろという圧力だ。
「えと、お父さんの娘です」
馬鹿だ。
「葎花と申します。あの、どうしても万月様にお会いしたくて」
「様?」
百合流は全く警戒心はないようだが、それでも頭の中は疑問符だらけだ。
「あぁ、なんと言いますか。娘は万月さんの大ファンでして」
「はぁ、そうですか」
四人がけのテーブルが置かれた居間に通された。下座に百合流、その正面に時春、その隣に相楽、葎花は百合流の隣ではなく少し離れた場所に置かれた椅子に座らされた。
「どこから話し始めればいいかもわからないくらいややこしい事態になってますので、まずは世間話から始めませんか?」
「構いませんよ。私もあまり難しい話は苦手ですから」
万月、百合流夫妻はあまり裕福でないようだ。さすがに水道水をそのままではないが、煮沸し、よく冷やした水程度のもてなしだけだった。
「万月さんの作品は全て拝読してます。正直、あれほどの強者が書いたとは思えない。力弱くとも清らかに生きる者たちへの愛に満ちている」
「それが今の主人の全てですから」
「あなたとしても、万月さんが再び剣を持つことには、反対ですか?」
「個人的に言えば。でも、彼の性格を考えれば、あなた達に強く求められれば、必ず応じる」
「無理強いはしたくないんです。というより闘志のない者はどんなに強くとも戦陣で力を発揮できない」
「それではなぜここに来たんです? 無理強いでもしなければ彼はもう動きませんよ」
万月という男の人となりは警察側は十分に知ってる。常人離れした剣腕にあまりにも似つかない壊れやすい心。
「あの人は、昔から罪の意識の強過ぎる人でした。学校で花瓶をうっかり割ってしまっただけでも、誰に言われずとも一ヶ月間トイレ掃除を自分に課しました。女の子を泣かせてしまったら、その子以上に大泣きしてただ謝り続けた。親御さんたちも巻き込んで一番困り果てたのは、自分が普段食べている肉や野菜は動物や植物の亡骸だと知った時。生き物を殺して食べるなんて絶対にイヤだって泣き喚いて、何日も部屋に閉じこもってなにも食べようとしませんでした。私がなんとか説得しました。五時間以上ドアの前で粘って粘って」
葎花は息を呑んだ。万月という男の異常性と、この百合流という女性との関係性。
「子供の頃のことですよね? その頃からあなたはー」
「親友でした。正直、私のほうは恋心を抱いていましたが」
少しも恥じらう風を見せずに百合流は言う。
「十歳の時に剣術を始めました。こんなに優しい人はあんまり人と直接、戦うような競技は向いてないと私は思ったんですが、お母さんはお父さんのような軟弱な男になってほしくないと言って。彼は渋々だったようです」
「それが結果的に世界を救うことになった」
「本当に結果論です」
百合流は飲み干したグラスをあまり音を立てずテーブルに置いた。左手薬指の指輪がキラリと光る。葎花は複雑な思いでそれを確かめた。子供はいないという二人。まだ老後と呼ぶには早過ぎる夫婦は今どんな思いでこの世界を見ているのだろう。
「お母さん、お父さん、についてですがー」
「彼の両親は彼が幼い頃に離婚しています。妹がいたそうですが、父親のほうが引き取ることになり、彼はその顔も覚えていません」
「それで……そうですね。結局、自然な流れは作れなかったので単刀直入に本題を言います」
「どうぞ、覚悟は出来ています」
「我々に協力してほしい。もう地球を救えるのは万月しかいない」
「もう、と言うには早いのでは? まだ総力を尽くしてはいないでしょう、あなた方は」
「結果は見えています。死体の山を増やすだけです」
万月の存在さえも一縷の望みにすぎない。それくらい時春は最悪の事態を覚悟していた。
「主人は、もう月虹石を持っていませんよ」
葎花はピクッとした。そして自分の胸に手を当てた。
「主人はもともと優れた剣士だったことは私も存じてます。でも、あの石がなければそれ以上でも以下でもないこともよくご存知でしょう?」
相楽が立ち上がった。葎花は何事かと思ったが彼はつかつかと自分のほうへ近づいてくる。
「すまん、来るな来るなと言っておいて悪いが、お前がいたほうが話は早かった」
「どういうこと?」
「奥さん、僕の娘の葎花ですが、どうやら月虹石を持っているらしいのです」
これには今まで終始ポーカーフェイスだった百合流も驚きを隠せなかった。
「あの、私、月虹石とかよくわかんないんですけど、万月様のお力になれるならなんでもします」
四人の視線が互いに交錯する。ここで全てが決まる。百合流は意を決した。
「わかりました。主人と話し合いますので、そうですね、三十分ほど待っていてもらえますか?」
四十分ほどは待つことになった。だが、なんの前触れもなく奥間のドアが開かれ、呆気ないほど普通に、その男は現れた。
葎花は右手を口元に当て、感情を抑えた。
「万月様……」
銀色の髪は写真で知るよりも遥かに短くなっていた。髭は綺麗に剃られ、決して高価ではないであろう衣服は、それでも決して見すぼらしい印象は全く与えなかった。
伝説の剣士にはとても見えない。が、どこか只者でないと思わせるオーラは健在だった。
「ひさしぶりだな、万月」
「こちらこそ、ずいぶんご無沙汰してすいません、時春さん」
「謝ることじゃない」
数年ぶりの再会と思えないほど、時春も相楽も自然な笑顔を見せた。
「大変なことになりましたね」
「その通りだ。事態は一刻を争う。昔語りをしている余裕はない」
達観しているような顔ーとはよくある表現だが、その解釈、印象はだいたい間違っている。迷いがないかのように見える人間ほど、常に迷い探し続けている。人間とはそういうものだ。
「まだ、答えは見つからないか?」
時春の静かな問いかけに、万月はしばらく応えない。葎花が固唾を呑んで見つめる中で、こちらもまた静かに首を振った。
否定形による質問に対する「ノー」の返事。どちらとも受け取れる。
答えーそれは万月が剣を置く時に、警察一同に告げた言葉。答えが見つかるまで自分は、もう何もしたくないと。
「小説を書くことが、お前の答えか?」
「それだけでは足りないということに気づかされました」
そこで万月は葎花のほうを見た。葎花は思わず椅子から落っこちそうなほどどぎまぎしてしまう。
「ひと目見てわかりました。あなたは葎花さんですね」
「は、はい!」
万月は一枚の便箋を懐から取り出した。葎花は慌てて立ち上がる。頭が考える前に体が動いてしまう。万月のほうへ駆け寄ってそれを引ったくろうとするが、ひょいとかわされる。
「それ、それはー」
「写真まで同封されてたのでよく覚えてました」
葎花が一夜漬けで書いた傑作(?)ファンレターだ。
相楽は笑いをこらえている。葎花の慌てぶりから、相当に恥ずかしい内容だろうと察せる。
「落ち着いて下さいよ」
万月に頭をなでなでされながらとりあえず葎花は
再び着席する。
「正直に言ってかなり落ち込みました。作品に対する評価はほとんど書かれずに僕への恋慕ばかり書かれていたので」
「あ、ごめんなさい」
葎花は焦った。確かに失礼だった。葎花自身、彼の小説も十分に好きだった。それでも恋する乙女の心は強く優しい万月様への憧れのほうが勝った。
「作家として生きた時間も無駄だったとは思いません。ただ、どうやら世界はなにも変わっていない」
今の妖怪まみれの世界のことを言っているわけではない。彼が言っているのは恐慌終息以降の人心の乱れ切った世界。
「この世界を変えたい。やはりそれがお前の贖罪か?」
救世ースケールが大きすぎて葎花には想像もつかない。
贖罪ーこれも万月が詠い続けている言葉。
「あれから、僕なりに考えました。気が狂いそうなほど考えた。人間は本当に生き延びるべきだったのか、いっそ滅んでしまうべきだったのではないか。でも、僕はもう一つの可能性に懸けてみたい」
「それが答えか?」
「今こそ人間は償うべきなんです。生きるか死ぬかはそれから……」
万月はまぶたを閉じた。その心の奥には葎花とは次元が違うほど深い、思考の海がある。
「結論を急いでくれ。はいかいいえで答えられるように聞こう。戦ってくれるのか?」
万月はまぶたを開けた。四十分の間、夫人となにを語らっていたのかはわからない。それでも、最初から返事は決まっていたのだろう。
「オフコース」
2
今はまだ静かな空だった。だが、椋鳥のソポが孤兎市の肩でそわそわしてる様から直に嵐が来ることは察せる。
「警察はどう動くと思う? 氷綱」
晃が煙草をくゆらせながら問う。特になにをするでもなくお得意の「物思いに耽る」をやっていた氷綱は意見を求められ、すっと身体をボスのほうへ向けた。
「我々を退治しに来るでしょう。今度こそ殲滅も覚悟の総力戦になる。きっと背水の陣を強いて死にもの狂いで向かってくる」
「他にどうしようもないからな」
警察隊は六煉桜は今度こそ人類の滅亡を企てていると考えている、と晃は考えている。それがそもそもの誤解であることを知っている忠臣たちは揃って苦い顔をする。まず声を上げたのは灼瑛だった。
「影狼の野郎。うぜぇ。先にぶっ殺しときましょうよ。これ以上は俺たちの威信に関わりますぜ」
歴戦の傷跡として火傷の跡だらけの両腕。普段は包帯で隠しているが、組織の中ではさらけ出している。彼なりの仲間への信頼と晃への忠誠の証だった。
「うずく、誰でもいいから闘いてぇ」
「落ち着きなよ、灼瑛」
組織の中でも狂犬扱いの灼瑛に対して常に冷静沈着の氷綱。中堅層として一番メインに戦闘を担当しているのはこの二人だ。
ぴーぴーぴー。
ソポが不安気に鳴くのを孤兎市が慰める。大丈夫だよ、と。
「舞雪はどうしてる?」
「相変わらずですよ。僕らには近寄れません。晃さんでないと」
「氷綱、正直に言ってな。俺はもう終わりにしていいと思ってる」
「と、言うと?」
「舞雪と同じさ。影狼ともな。人間の歴史を、もう終わりにしていいんじゃないかとな」
「舞雪サンはー」
「わかってるさ。いつものように情緒不安定なだけだろ。それにしたっていつまでも蛇の生殺しじゃ、可哀想じゃねぇか」
「同じことの繰り返し……」
「虚しいだけじゃねぇか」
氷綱は自分の過去に思いを馳せた。あの二人の魂は今どこを彷徨っているだろう。
人間は死んでしまえば、もう苦しまなくていい。ならばなんのために、苦しんでまで生きる?
「どうでもいいけど、お喋りしてる時間じゃないぜ。招かれざる客だ」
「バカ言えよ、血風刃。大歓迎じゃねぇか」
灼瑛と血風刃が乱暴に窓の柵に足をかけて言った。
警察隊のお出ましだ。
「氷綱、あいつら、どうやってここがわかったんだと思う?」
「舞雪サンの結界が緩んだからですよ。あいつら、ずっと神経を張り巡らせて、こっちの妖気を探っていたようですね」
「舞雪も、もう長くはもたないな」
晃は豪奢な椅子から立ち上がった。
「いいぜ、派手にやってやるよ。孤兎市、龍獄怨の周囲を大量の廃蛮鬼で固めろ」
「うん、わかった」
「完全に楽しんでるじゃねぇか、晃。どうでもいいけどよぉ」
煙草を窓の外に捨てた。
「お手並み拝見といこうか」
同じ頃、崩壊した禾南から二十キロほど西へ行った山地。
「灯台下暗しというほど近くもないが、意外と遠くはない場所にあったんだなぁ、敵のアジトが」
「結界を張っていたのは十中八九、舞雪ですよ、時春さん。恐ろしくキレる上に恐ろしく脆い」
「波町君、一体全体、あいつらになにがあったんだと思う?」
先頭を歩くのは総長、時春崇悟。その後ろに波町、相楽の二人。あとは後ろに生き残った警察官が総勢で三十ほどいる。
葎花は、そのたくさんの警察官たちに護られるように、内心ビビりまくりながらついてきている。
万月は、葎花の隣にいる。
今から一時間ほど前に「儀式」は済んでいた。万月が葎花の左胸を入念に擦っているだけで月虹石の「移行」は済んでしまったわけだ。これで二人の心臓には互いに半分ずつの月虹石が形もなく光っている。
ただ、その間、憧れの人に要するに「おっぱいを揉まれまくっていた」葎花は今でも恥ずかしくて気絶してしまいそうだった。
「そう言えば乱君はどうしたんです?」
「あいつは別行動だ。いざという時の奇襲部隊。そっちのほうがあいつの性に合ってる」
時春に説明されて相楽はあぁ、なるほどと頷いた。
「二人とも、ここら辺からお喋りは控えましょう。どんな罠が仕掛けられてるかもわからない。妖魔たちにも、なるべく気づかれないほうがいい」
「いや、どうやら無駄のようだ」
時春が指差した先、そこにはまるでテレビゲームにでも出てきそうな塔がそびえ立っていた。
そして、その周囲にはおびただしい数の妖魔たちが既に待ち構えていた。
我らがアジト・龍獄怨へようこそ
空耳でも、気のせいでもない。かと言って実際の肉声とも思えない。晃が彼らの脳波に直接語りかけている。
「あの薄気味悪い化け物ども、廃蛮鬼です。鬼の中でも特に魂の腐った、要するに頭が悪くて性格も悪いやつらです!」
波町が説明する。葎花は思った。絶対嫌い!
「要するに雑魚だろ! 一匹残らず片付けるぞ!」
それが時春の鬨の声になった。
開戦!
3
ひゅるるるるぅ、パシ!
葎花は目を丸くした。おそらくは相楽が放ってきた棒状のブツをキャッチしたわけだが、なにがなんだか。
「これ、真剣?」
「戦うんだろう! その覚悟で来たんだろう! お前もやるんだよ! 殺し合いを!」
ドクンッ!
覚悟はしてきたはずだった。今、目の前で行く手を阻むキモい奴等は「対戦相手」ではなく「敵」。
「わかってるよ! やるしかないんでしょう!」
「やる」という言葉は葎花の頭の中で「殺る」という表記ではなかった。当然だ。まだ、十と七の女の子が刀で、自分の手で、斬り殺すなんて躊躇うに決まってる。それは優しさや情けなんかじゃない。恐怖と罪悪感だ。
「迷ってる時間がなくて助かるだろう。来るぞ」
ただ、突っ立ってるだけだった廃蛮鬼の群れが一斉にこちらに気づき、同時に向かってきた。
「ウキャキケケケェー!」
知性は猿以下だが、感性と欲望は人間と同程度に持ってる。その大部分は享楽主義を根幹とした肉欲と食欲の塊だが。
「目測で数は約百二十。一人頭四人です。ここで手こずってたらあいつらに笑われますよ」
「波町、お前だけで六十片付けろ。剣客隊! A組だけ残してあとの者は隙間を縫って突破しろ! 先制攻撃するのは俺たちのほうだ!」
男たちは全員、駆け出した。葎花も置いてかれぬよう全力で走る。
「葎花! 後ろ!」
相楽の声の前に気づいていた。
ズバッ!
それが一匹目の死者だった。周りの大人たちも驚いた。葎花が、容赦なく、躊躇なく、敵を斬った。
「毎日、牛も豚も鳥も魚も殺して生きてる分際で、いい子ぶるわけにもいかないでしょう? ナメないでよね」
頬に返り血を浴びて、それでも自分は戦えることを証明してみせた少女。一番、驚いていたのは万月だった。
「素晴らしい……」
両手がわなないてきた。何十年ぶりの戦士としての矜恃が動いているのか。
あとは一面、地獄絵図だ。廃蛮鬼たちの屍を無視するように、時春の指示通り波町とA組以外の人間は既に龍獄怨の入口まで辿り着いていた。
「お前が門番てわけか」
「少し違うよ。僕は戦うつもりはない。ただのチュートリアル係」
不必要なほどデカい門。周りには龍や虎の装飾がド派手に施されており、結界を張って隠していなければ「どうぞ、見つけて下さい」と言っているようなものだ。ますます六煉のやることはわからないと感じる。
その門の前にいたのが孤兎市だ。
「チュートリアルだと? ふざけるなよ」
「説明が必要でしょ? みんな、わけもわからず戦って何も知らずに死ぬなんてイヤでしょ? 説明が済んだら通してあげるから」
後ろではまだ廃蛮鬼たちが半数近くは残ってる。前後から挟撃されればさすがに厄介だから波町たちが皆殺しにしてくれるのを期待するが、そもそもこの門自体、素直に開くかどうかはわかっていなかった。時春はぶっ壊してでも通るつもりだったが、穏便に開けてくれるならそのほうがいい。
なにより、たしかにわからないことだらけの戦いは好むところではない。
「いいだろう。話せ。手短にな」
「まず、禾南を滅茶苦茶にしたのは僕らじゃない」
「……じゃあ、誰だ」
「僕らと今までずっと戦い続けてきて、なにか違和感のようなものを感じたことはなかった?」
「どれのことを言ってるのかわからないくらいたくさんあるさ」
「計算が合わない、時間的に無理だ……六煉桜は本当に六人なのかな?」
「なにが言いたい? 手短にと言っただろ」
「裏切り者がいるんだよ。僕らの中に。それで僕らも困ってる」
一同に、これまで以上の緊張が走る。背後から聞こえる廃蛮鬼たちの断末魔の叫びが滑稽なBGMとして響く。
「最後まで話してみろ。聞きたいことはその後でまとめて聞く」
「その男の名前は影狼。もうさほど若くないよ。僕が言うのもなんだけどね。僕はもう年を取れない体だから」
葎花は袴をギュッとつかんだ。今までずっと気づいてなかった。そう言えば、この子はなんでこんなに若いの?
「無口で付き合いにくい人だよ。だからいろんな仕事を転々としてたんだけど、晃さんが素質を見抜いて仲間に入れたんだ。でも、いつまでも打ち解けられないからいっそのこと影武者として使うことにしたんだ」
そこで孤兎市は一呼吸置いてニヤリと笑う。また時春はいらつく。
「続けろ、と何回言わせる」
「彼も満足してると思ってたんだけど、実際には欲求不満だったみたい。急に暴れ出したんだ。もう僕らには止められない。彼は人類全てに復讐するために動き出した」
「そいつはー」
「まだ話は終わってないよ。質問は最後にでしょ? とにかく僕らもたくさん話し合った。それで出した結論は……」
時春が刀に手をかけた。
「僕らも彼に乗る。うんざりするような世界でしょ? もう我慢する必要もないと思ったんだ。氷綱君辺りは最後まで反対してたけどね。でも、僕は賛成。人間さえいなくなれば動物も植物も海も空もみんな大喜びだからね」
時春は抜刀した。
「質問はないってことだね。でも約束は守るよ。門は開けるよ」
それだけ言って孤兎市は煙のように消えた。
「くそ! 舞雪の仕業か」
ガガ!ゴゴゴゴゴゴ!
説明係が消えた途端に門がやかましい音を立てて開く。
「六煉桜にはやっぱりもう一人いたんですね。薄々気づいてはいましたが」
「万月、あいつの言ったこと、全て真実なのか?」
「考えてもわからないことは後で考えることにして、次が来ましたよ」
門の奥から出てきたのは本来なら先陣を切るはずのない男ーいや、この猛々しい場にはおよそふさわしくないほどに美しく静謐な、女。
影援魔導師の舞雪。
「ようこそ、と言いたいところですが、邪魔な方々にはここでお待ちいただきます」
4
舞雪、実年齢四十二歳。
魂の年齢は十九歳。容姿もそれくらいで変化を止めてしまった。
全てはあの日、寒い寒い雪の夜に始まった。いや、終わってしまった。
物心ついた頃から歌が好きだった。歌手になることが夢だった。十五歳の時に大手の事務所にスカウトされあっという間にデビューが決まった。舞雪の希望に反して女優として、芝居の仕事が多かったが特に不満はなかった。単純に楽しかったし、人気も右肩上がりだった。
有頂天だった。それだけに舞雪はあの地獄を今でも夢に見てうなされる。
三人組の暴漢に襲われた。自分も不注意だったとは思ってる。それどころか事件のあと数年間は自分を責める気持ちでいっぱいだった。
人通りの少ない夜の路地裏で突然に後ろから羽交い締めにされ車に押し込まれた。わけもわからぬままただ声にならない悲鳴を上げ続けた。
辿り着いたのは光も音も消え果てた雑木林だった。ビリビリと服を破かれた。呼吸を荒くした男たちはなにやら意味のわからない言葉を吐き出し続けていたけど、とても舞雪の頭には入っていなかった。
一般的に輪姦というものはどれくらいの長さをかけて行われるものなのか、そんなことは知らない。だが、いつ果てるともわからない地獄は夜明けまで続いた。
事件はマスコミによって「大々的に」報じられた。イメージが全ての芸能の世界。一夜にして人生というのは簡単に壊れることを知った。
ごめんね、もうあなたのことを「可哀想」っていう目でしか見れない。
仕事を全て失ったことなどもうどうでもよかった。世間からの中傷もどこ吹く風だった。それでも親友から言われたその言葉が舞雪の魂を粉々にした。もう私を救える人はこの世界に一人もいない。
自殺という選択肢を考えなかったのはなぜか。
復讐するまでは死ねないと思ったからだ。
晃と出会ったのは事件からまだ一年も経たない頃だった。
グラリ!
「なんだ! 地震か!」
地面が尋常でないほどに揺れている。葎花などは真っ先に立っていられなくなってその場に倒れた。
「うおっ! なんだこりゃぁぁぁ!」
時春と、相楽、万月、葎花の四人が真っ黒なモヤに包まれた。
「勝負はフェアに行かないと。ここから先は我々と同じ四人しか通しません」
「きゃあ!」
ビュオン、ビュオンと音を立ててモヤが塔の中へ吹き飛んで行く。
「総長!」
あっという間の出来事だった。残された警察隊は不敵に嗤う舞雪に対し、ただ戸惑うだけだった。
「さぁ、どうする? 頼もしい上官はこの塔の中。あなた達はどうする? 指を咥えて待ってる? 尻尾を巻いて逃げる? それとも……」
舞雪は右足をユラリと前に出した。あまりにも艶かしい脚線が露わになる。
「私と遊ぶ?」
男たちは一人残らずゴクリと息を呑んだ。だが、バカバカしい。敵相手に色仕掛けで狂わされる警察など死んだほうがいい。
「ふざけるな!」
警察隊の中でも特に負けん気の強い連中は轟々と文句を言った。その中でも一番屈強な男はずいと前に進み出た。
「影援魔導師如きが図に乗るなよ! こんだけの数で勝てるとでも思ってるのか! お前こそさっさとそこをどけ! 白の桜だと? 女が戦いの場に図々しくー」
ひゅっ!
「ガッ!」
舞雪の白く細い指が最短距離で、男の左目を突いた。それだけではない。確実に差し込まれた。
「ぎゃあああ!」
グチュッ!グヂュグヂュュッ!
攻撃は終わらなかった。
ぼぐっ!
とても今にも折れてしまいそうなほどの細腕から繰り出されたとは思えない重いボディブロー。
「うげっ。ごっ」
ゲロゲロゲロゲロー!
真っ赤な血と潰れた眼球でどろどろの顔の上半分と、口からは大量の吐瀉物。その顔面に舞雪は容赦なく蹴りを入れる!
「ぐわっ!」
あまりにも非情な連続攻撃に男は為す術もなく倒れた。が、それで終わらない。
首根っこを掴んでひょいと巨漢を持ち上げた舞雪は男の口に左手を突っ込み、「とりあえずこれくらい」とでも言うように軽く前歯を二つつまんだ。
男は心の底から恐怖した。
「ら、らめ、て……」
ブシュ!
引っこ抜いた。男がもう声を上げることもできなかったのは激痛のあまりではない。舞雪が同時に右手で「喉を潰していた」。
ぐったりと倒れることしかできなくなった男にそれ以外の男はもう絶句することしかできなかった。
「あぁ、男の子をいじめるのって本当に楽しいわ。どう? これが私のア・ソ・ビ。あなた達も付き合ってくれるかしら?」
狂ってる。イカれてる。その場にいた誰もが思った。
「あんた、なんなんだよ。なんで、あんたみたいに強いやつが組織のサポート役なんてやってんだ?」
「私以外の五人のほうがもっと強いからよ。あぁ、コトちゃんは弱いから正確に言うと四人ね。それに、影援魔導師は晃様が私に与えて下さった名誉ある役目。それ以外に身に着けた武力は全部、趣味よ」
「いい加減にせぇよ」
茂みの奥から一人の男が姿を現した。「別行動」を取る予定だった男。
「こっそり着いてこい、隙を見て奇襲を仕掛けるように。タイミングはお前に任せる。時春さんからはそれしか指示されてへんけど、まさかお前みたいなキチガイ女に邪魔されるとは思わんかった。塔に入ることもでけへんやんけ」
乱は舞雪の「遊び」を見ても怯む様子がない。
「誰だか知らないけど、ただの雑魚じゃないってことは目を見ればわかるわ」
「なら話は早いやろ。そこどきな。いくら強いったって今の手合い見れば高が知れとるってわかるわ」
「どいてもいいけど。ここで引いてくれるって言うなら私とイイことさせてあげてもいいわよ」
目の前にいる変な言葉遣いの男がそんな取り引きに応じるはずもないし、安い挑発に乗るほど馬鹿でもないことはわかっていた。
「お前、この戦い、楽しんどるだけか? 聞いとったで。これ、人間の存亡賭けた戦いやろ? わかっとるんか?」
「あなたのほうでしょ? 楽しんでるのは。私はわかってるわよ」
ドカッ!
乱の拳が舞雪の美しい顔を歪めた。その一撃で事足りた。舞雪は堕ちた。
「ひでっ」
「あっさり……」
乱は気絶した舞雪を跨いで塔の中に入っていく。目的のためなら邪魔になるだけの甘さは全て捨てる。
くるりと振り返ると警察隊の面々にこう言った。
「こいつ見てたらわかったやろ? 半端な覚悟のヤツは邪魔なだけや。ここでせいぜいこれ以上の追手が入ってこんように見張っとるくらいがお前らにできることや」
こうして図らずも六煉桜の望み通り、少数精鋭同士の戦いの布陣が決まった。
5
ゴー……ビューン!
「うわっ!」
「なんだ! 今のは!」
「すげー! ドラゴンだ!」
大人たちは明らかに不穏な気配を感じ取っていたが子供はみなはしゃいでいた。上空を今まで見てきた不気味な妖怪とは明らかに毛色が違う「カッコいい」竜が上空を飛び交ってる。
「いいよー。ギルドン。 、試しにこの辺りを焼け野原にしちゃおう」
孤兎市は慣れた手つきで手綱を切る。
「なるべく一思いに焼き殺さないでよ。たっぷり楽しもう」
ブフォー!
孤兎市の操る翼竜、ギルドンが燃え盛る巨大な火炎を吐き出す。一瞬の出来事だった。次から次へ建物から建物へ燃え移り、孤兎市の言う通り、辺りは炎の海に包まれた。
晃の指示だった。戦闘要員の四人が万月たちを迎え撃つ。その間に孤兎市は今まで大人しくさせていた妖怪たちを一気に「解放」する。
罪悪感がないわけではなかった。なんの躊躇もないはずはなかった。
孤兎市は孤児だった。生まれつき体つきが小さく筋肉が上手く育たない病気も持っていた。
同じように身寄りのない子供を引き取って育てる優しい老婆がいた。孤兎市もその人に育てられた。
他の孤児たちは自然に学校にも世間にも受け入れられていた。自分だけが違った。
よくいじめられた。毎日毎日、暴力と暴言と、嫌がらせと嘲笑に苦しめられた。それは一向に収まることもなく逆にエスカレートし続けた。
「僕のなにが悪かったんだと思う? ギルドン」
動物たちだけが友達だった。だからこそ、人間を憎む気持ちが昔からあった。あの出来事がある前から、晃と出会う前から。
自分たちの欲望のままに自然を破壊し、動物たちの棲み処を奪うだけでは飽き足らず、奪う必要のない命まで奪ってしまう人類という生き物が大嫌いだった。
大好きだった「おばあちゃん」が死んで、孤兎市の中のなにかが弾けた。
死ぬことにした。見渡す限り大嫌いなものに囲まれて、苦しみしかない毎日を送ることに、孤兎市は明るい未来を見出だせなかった。
でも、死ねなかった。死んでからも誰にも発見されないまま土に還りたかったから、誰も立ち入らない樹海を選んで首を吊った。でも、大切に想っていた動物たちに命まで救われることになってしまった。
脳に重い障害が残り、孤兎市はほとんど物言わぬ肉の塊となって生きることになった。この社会のほんのスミッコの福祉施設で。
「晃さんの恩を仇で返すわけにいかないものね」
今度こそ、本当に寄る辺のなくなった孤兎市を仲間に入れようと言い出したのは、氷綱だった。その時の気持ちを彼は後々になっても話そうとしなかったが、ほとんど廃人と化した孤兎市をここまで再生させてくれた晃に「お前はなにも知らなくていい」と言われれば追及する気にはならなかった。
「ん、あれは? 凛府か。ちょっと寄ってこうか。ギルドン」
「ゴー!」
わーわー、きゃーきゃー言って逃げ惑う人々。蜘蛛の子が完全に散った後の原っぱに一人と一匹は降り立った。
「葎花ちゃん、だっけ? あの子は今頃は龍獄怨にいるのか。もう死んじゃった頃かな?」
「そう簡単に死ぬやつじゃないよ」
孤兎市は驚いて振り返る。そこには自分と同じくらいの背格好の少年と少し年上に見える少女が立っていた。
「女の子のほうは覚えてる。たしか葎花ちゃんのお友達でー」
「夏芽よ」
「僕は葎花の弟の真だよ」
「どうしてここにいるの?」
孤兎市はいくつかの解釈のできる質問をした。二人は目配せしたが、先に答えたのは真のほうだった。
「偶然だよ。どこもかしこも大火事で、建物の中にいたほうが危ないから。こういう広い場所にいるのが一番いいと思っただけ」
「実際、降り立つのにも都合がよかったみたいね。あなたのほうこそ、ここになにしに来たの?」
孤兎市はギルドンの背中から降りた。怯む気配のない二人を不思議に思う。
「前に来た時に、いい村だと思ったから。少しギルドンの羽も休ませたかったし、僕も一息つこうと思った。それだけだよ」
「そう、悪いけど一息なんてつかせないわよ。あんたたちの悪行、見過ごすなんてできない」
孤兎市は両手を広げた。臨戦態勢に入っていく。
「私だって、こんなクソみたいな世界ウンザリよ! どいつもこいつも心の中では不満だらけなクセに、ヘラヘラ笑ってごまかして、薄っぺらい快楽に満足したつもりになってる! 上辺だけの平和よ! 本当は、助けを求める声さえ届かない人たちがいるのに知らん振りか、知りもしないか、どっちか! みんな他人事と思ってたって社会問題なんて山積みでいづれ雪崩を起こすわよ! そうなったらすっかり軟弱になった人間なんてみんな地獄を見るわよ! わかってるわよ! そんなことは!」
夏芽はまくし立てる。とても十七歳とは思えないほどに、この世界の未来を憂いてる。
「だからね、影狼は言うんだ。もう一度、地獄を見せてやるって。そして人類は絶望と後悔に塗れてー」
「滅びるんだっての?」
真は一歩前に進んだ。一触即発の空気が既に出来上がってる。翼竜が自分を見ていることには気づいていたが、その目は、本当は邪悪なものではないことにも気づいていた。
「君は知ってる? このままじゃいけないって気づき始めた人がたくさんいること。今はまだ非力だとしても必ずこの世界にもう一度、希望の明かりを灯そうって立ち上がった人たちもいることを」
「知ってるよ。でも、無駄だよ。ほんのひとときの希望はまた消えて時代は同じことを繰り返す。だからもう終わりにしよう」
「なんのために?」
「僕の大好きな動物たちのために……」
お喋りの時間は終わった。孤兎市は右手を振り上げる。辺りには、どこに潜んでいたのか大量の、トカゲ?いや、これも竜の一種なのか?見たこともない生物が取り囲んでいた。
「好き勝手なこと言ってくれたね。土下座して命乞いするなら今なら見逃してあげるよ」
「好き勝手はあんたでしょうが!」
夏芽は凛刀を取り出した。迷ってはいられない。どの道もう逃げ場はない。
「人類の悲惨な最期を見ることもなくあの世へ行けることに感謝しなよ。死ね!」
トカゲもどきたちが二人に襲いかかる。
6
「ここが龍獄怨……」
「想像以上に薄気味悪いところですね」
モヤから抜けた四人は薄暗い大広間のような場所の中央にいた。外から見たらいったい何階建てなのかもわからないほど高い塔だったが、ここはそもそも一階なのか?
「わかってるだろうが、気を引き締めて行けよ」
「当然です」
時春と相楽がそうしていないと落ち着かないのかとりあえず言葉を交わしている間、葎花は全身の震えを抑えるのに必死だった。
どんな人間でも、ある日突然、例えば交通事故に遭って死ぬ確率は0ではない。でも、そんなことを常に考えながら生きている人間はいない。
今、自分は一分、それどころか一秒後には死んでいるかもしれない状況にいる。怖くないはずがない。
「大丈夫ですよ、お嬢さん」
「万月様……」
「その『様』っていうのはやめようよ。僕はもう神格化されるほど強い人間じゃないよ」
「強さの話だけじゃないんです。私があなたを、敬愛するのは」
それ以上、万月はなにも語ろうとはしなかった。
「時春さん、あいつは、灼瑛……」
相楽が前方にたしかに捉えた影。何度となく対峙してきた六煉桜一の荒くれ者にして切り込み隊長と言っていい存在。
「ここ一番でも一番手はあいつか」
直線距離にして十メートル。灼瑛なら一足飛びで襲ってくる上に火炎による遠距離攻撃もある。
「躊躇してちゃダメだ! 行くぞ!」
せぇのの合図もいらなかった。時春、相楽、葎花は一斉に走り出した。
「え、え、え!」
もちろん実戦経験のない葎花にはそんな度胸はない。オロオロしているところに、背後から殺気。
「動かないで。あなたの相手は僕だよ」
「あ、え、え?」
冷たい何かが後頭部に当てられている。葎花は恐怖という概念すら空白と化すほどの悪寒に襲われた。
「氷綱!」
「相楽! 今はこっち!」
ブーン!
ハエが飛ぶような、だがそんなのん気なはずのない音がする。次の瞬間には先程と同じモヤが時春を包んでいた。
「時春さん!」
「またかよ! 今度はどこに飛ばす気だ!」
ヒュン!
「よく来たな! 俺たちの縄張り龍獄怨へ! まずは万月! てめえからだ!」
「俺は無視かよ!」
相楽は再びどっかに飛んでいってしまった上官のことも気がかりだが、今は目の前にいるこいつと戦うしかないとわかっていた。万月と共に二対一なら勝ち目はある。がー
「ぐわぁ!」
相楽の先手必勝を狙った一振りを造作もなくかわすと灼瑛は右手で相楽の額を鷲掴みにした。そこから物凄い力とスピードで、窓ガラスのほうへ叩きつける!
「無視?」
ガッシャッーン!
「眼中にないの間違いだろ!」
相楽は悲鳴すら聞こえないほどの奈落へ落ちたかのようだった。一瞬の出来事だった。
「お父さん!」
葎花は既に大粒の涙を溢していた。考えが甘かったとは言わない。でも、この男たち、私の想像なんて遥かに凌駕するくらい、本当にやばい!
不気味なほどの静寂が広がった。緊張感が極限まで張り詰める。
「どうした? 一歩も動かねぇで」
「随分と腕を上げたな。そう思っていたんだよ」
「光栄だな」
「それでも、これくらいなら勝てると考えていたんだよ。相楽君もそう簡単に死ぬようなタマじゃないしね」
灼瑛は顔をひくつかせる。自分の常軌を逸するほどのプライドを知りながら、こいつは俺をおちょくっている。
「最期に、聞かせてくれないか? 君たちはそもそも何者なんだい? 僕にはどうしても君たちが根っからの悪者だとは思えない。昔からね」
「どっちの最期か知らねぇが、そうだな。冥土の土産に昔話をしようか」
灼瑛は右手に一気に魔力を集中した。二つ目の太陽ができたかのような炎熱がほとばしる。
「お前を半殺しにしてからな!」
小手調べとも思えないほどの巨大な火球が万月に向けて放出された。受ける手はない。避けるしかない。同時に灼瑛のほうへ間合いを詰める。
二十年ぶりの抜刀。灼瑛は両手に嵌めた手甲で防ぐ。そしてへし折ってやるくらいの剣幕で万月の刀を握り締める。両者、睨み合う。気迫で負けたら、一瞬で勝負はつく。
「万月『さん』! 死なないで! 私も頑張るから!」
葎花は父から渡された真剣の柄を全力で握り、一気に背後の「敵」に一刀を御見舞しようとした。がー
ドン!
「あっ……」
ライフル?葎花はたしかに敵の獲物をその眼に認めた。同時に自分が右脇腹を撃たれたことにも。
「あなたが月虹石の後継者、葎花さん。自己紹介しておくよ。凍術使いと言ってもその獲物は銃器。もっとも弾丸は氷だけどね」
「くっ、痛っ、うぅ」
かすっただけ、と楽観はできない。こいつ、わざと急所を外した。嬲り殺しにするために。それくらいはわかってる。
葎花はなんとか立ち上がった。月虹石の後継者なんてまだ全然ピンときてないけど、それでも自分には今、自分でもコントロールできないほどの力が芽生えている、はず。
「活きのいい小娘だな。だが、何かを守りながらの戦いじゃ俺には勝てねぇぜ」
「それ以上にいざとなったら、君たちはあの子を人質にするっていう手がある」
結論はー
「「河岸を変えるぞ」」
二人はおよそ人間と思えない跳躍力で壁を忍者のように跳び上がっていった。
残されたのは自分だけ。葎花はもう覚悟を決めていた。
真、お母さん、夏芽ちゃん、バカ。走馬灯には早いでしょ。
「いつも私は絶対勝つぞっていう気持ちで対戦相手と向き合ってる。でも、あなたは対戦相手じゃない。『敵』だから、勝つだけじゃダメ。殺さなきゃいけないってわかってる」
葎花は真剣の切っ先を真っ直ぐに氷綱に向けた。極悪暗殺組織の一人とは思えないほどに優しげで端正な顔立ちのこの男に。
「君が甘っちょろいお子様でなくてよかった。僕も安心して、非情になれる」
7
万月が時春の頼みを快諾した時、一同はそこでお開きにするつもりだった。
でも、葎花は「ついて行く」と駄々を捏ねていた時から決めていた言葉を口にした。人生で一番、恥ずかしくて、でもそれは気持ちのいいドキドキだった。年頃の女の子として当たり前の感情として、恋する乙女の可愛いワガママとして、周りの大人たちも認めてあげるべきことだった。
「あの、万月様と二人きりにしていただけませんか!?」
一瞬、誰もがキョトンとした。最初に吹き出したのは相楽で、そこから伝染するように部屋中を爆笑が包んだ。
「僕は構いませんが?」
万月はにっこり笑って答えた。相楽にも時春にも止める理由はない。ただ、この有事に不謹慎というかのん気というか、な気はしていた。
「いいよな? 百合流」
「ええ、優しくしてあげてね」
まさか十七の小娘に対して嫉妬心なんてない。婦人である百合流も承諾した。意味深な言葉を添えて。
葎花がどれくらい長話したいつもりなのか相楽にも
検討はつかなかったが、とりあえず別室への移動を皆に促した。
かくして葎花は憧れの人と二人きりになった。十年間、恋焦がれ憧れ続けた伝説の剣士と。
声が、出ない。
優しくしてーってどういうこと?私はそんなやましい気持ちは。あくまでも健全に、そんなエッチな気持ちじゃ……
葎花のアホな妄想を見抜いているように、まるで心が読めるかのように万月は再びにっこり笑った。それで葎花もリラックスしたとは言い難いが、少なくとも安心した。
「あの、私、あなたのことがずっと前から大好きで、あなたに憧れて剣術始めたくらいで。だから今日、こうしてお会いできて、もう生きててよかったってくらいで……」
万月は両手に顎を乗せてただ微笑むだけのスタンスを崩そうとしない。
今更だが、葎花はけっこう可愛い女の子である。美人系の夏芽といつも一緒にいるし、性格が快活すぎてそこそこ女性らしい身体つきになってくる年代の女子としては色気が無さすぎるせい、プラス生意気な弟にいつも馬鹿にされているせいで男からチヤホヤされる対象になりにくいだけ。実際にはけっこう美少女である。
「光栄ですよ。君みたいな素敵な女性に慕われて」
顔が茹でダコになる。それでも落ち着きたかった。今、地球は大変なことになっている。こうして万月と二人きりになりたかったのは、あくまでも真面目な話がしたかった。
「さっき、あなたはおっしゃりましたよね。人間は償うべきなんだって」
「そうだよ。僕は残りの人生を全て犯した咎の贖罪に捧げる」
「私は、恩返しに捧げたいと思っています」
「ほう」
万月は右手だけ顎から話してとっくに空いてるグラスの縁をいじる。
「聞きましょう」
葎花はこの日のために「万月様に話したいこと」をリストアップして入念にイメージトレーニングをしてきていた。
「あなたが、罪人だなんて誰も思っていません。これだけは本当だと思います」
「いろんな人から言われたよ。でも、僕自身の心の問題なんだ」
「それをあなたは人類全てに求めようとしている」
万月の眉間に一瞬だがしわが寄った。だが、それも本当に一瞬のことですぐにまた笑顔に戻った。
「君は賢い子だよ。世の中を憂いているのが手紙から伝わってきた。どうして僕をそんなにも慕うのか、理由が伝わってきた」
「この世界がどんどん卑に堕して、愚に墜ちてることくらいお父さんたちに言われるまでもなくわかってます」
「もう一度、清く正しい心を取り戻してほしい」
「同感です」
既に悪い意味での緊張は消えていた。自分とは次元が違うほどに深い信念と哲学を持った人を前にしてまるで自分が自分でなくなったようだった。
「それで、恩返しという言葉の真意は?」
「こんなこと言ったら笑われそうですけどー」
「そういう前置きはいいよ。どっちにしても僕は君の話を真剣に聞いて、正直に応えるだけだからね」
敵わない。この人には手を伸ばしても飛び上がっても、逆に逆立ちしてみても到底、人として及ばない。だからこそ素直になれる。
「私はあの異常気象からこの妖魔恐慌に至るまで、私なりにたくさん考えました。それで思ったんです。私はこの世界で、自分の人生の中で、いったいなにをどうすればいいんだろう。ずっとそう考えていました。出した結論は、どうもしなくていいんじゃないかって」
「うん」
「何十年も前から地球はもうそう長くは保たないとたくさんの学者が悟ってます。でも、どうせいつかなくなるなら、世界が終わるその日まで精一杯生きたい」
「素晴らしいと思うよ。若者らしい」
「ただ、温かいお布団で寝て、お母さんの美味しいご飯を食べるの。大好きな友達と夢中で好きなことをするの。ただそれだけで私は、ありがとうの気持ちでいっぱいになる」
「君は本当にいい子だね」
「だから、どんなにクズだらけの世界でも私は嫌いになりたくない。私を包んでくれるこの世界を、感謝の気持ちでいっぱいにしたい。それが、私が十年間の修練の果てに導き出した理です。信じたい。人が人を大切に想う気持ちを」
葎花は「言ってやった」と思った。恥ずかしくなるくらい青臭い理想論だとは思う。でも、万月様なら笑わずに聞いてくれる。そう信じて語り切った。
だが、万月の表情は決して明るくなかった。
「君は僕と同じだ。少なくとも二十年前までの僕とは」
「万月様……」
優しくしてくれて、いない。声色からわかる。
「人間は悪い意味で変わる。悪い意味で変わらない。君は知ってる? 例えば魔女狩り。ホロコーストに代表される大虐殺。今も消えない貧富の差。君の言う温かいお布団と美味しいご飯すら一生手に入らない人たちがいくらでもいることを」
「それは……」
「人類の歴史は憎しみと復讐の歴史。幸せに生きられる人間は誰でも自分の頑張りのおかげだと思うだろう。頑張る気力すら理不尽に奪われる人間が同じ惑星に何億人といるという事実には目を伏せてね」
「でも……」
「僕は思う。天使として生きるか? 悪魔として生きるか? どちらにしても目指すのは君と同じ。皆がたくさんの幸せと汗と涙を分け合って生きる世界さ。そのために必要なのは人間の悪いところを正すことさ。そのために僕は悪魔として生きることも厭わない。君が人間の良いところを褒める天使として生きるならそうすればいい。君の目に映る平和な世界でね。どちらにしてもこの窮地を無事に乗り越えてからの話だけどね」
万月としても「言ってやった」という気持ちだっただろう。十七のうら若い少女に語るには辛辣過ぎた。もちろんそこいらの普通の女の子なら受け入れられないのもわかってる。万月は「町の剣術大会で三年連続優勝」という肩書きを軽く捉えてはいない。
「万月様、私はあなたと共に戦えることを光栄に思います。心から敬愛します。でも、正直に言うと今のあなたは少し怖い」
「無理もないと思う」
どちらともしばらく黙ってしまった。やがて頃合いを見て相楽たちも「もう済んだか?」と声をかけてきたので葎花は「ありがとう」とだけ答えた。
それがあの日、二人にあった出来事。
葎花は思う。
私に、なにができる。
第四章 心を鬼に
1
「サーナディーバーロカシードヘータイメリーフォアカッドナシンファー……」
「真君!」
三百六十度、逃げ場はない。真はなにやら唱えているが、夏芽には理解できない。
「ロン!」
パーン!
何かが爆ぜる音。次の瞬間にはトカゲもどきたちは全て粉々に吹き飛んでいた。
「うげぇ」
正視に耐えない光景に夏芽は吐き気を催すが、どうやら真が何かすごい事をしたということはわかった。一番驚いていたのは真自身だったが、二番目の孤兎市も相当驚いていた。
「へぇ、やるぅ」
「はぁ、まさかこんなに上手くいくとは思わなかった」
魔法とは本来、恐ろしく高い知能を持ったものが使いこなせるもの。孤兎市のように脳に異常のある者より上手く使えるのはある意味では当然のこと。
「真君、魔法なんて使えたの?」
「本で読んでなんとなく覚えてみただけだよ。実際に使ったのは初めて」
これだけの数の敵を一気に吹き飛ばすのはかなり高度な術だ。少し息を切らしながら、それでも真は姉譲りの強気で迫る。
「さぁ、もっと強いやつを出しなよ! でないと一番手っ取り早い方法を取るよ! 君自身を倒す!」
「この辺りでいいでしょう」
「そうだな」
万月対灼瑛。舞台は定まった。おそろくは葎花たちを置いてった場所よりも五十メートルほどは上に昇ったフロアの四方二十メートルほどの部屋。
「のんびり行こうぜ。たぶん向こうも長引く」
向こう=葎花対氷綱。
「長引く? どうして?」
「あいつがあんなに面白そうな玩具をあっさり壊すはずがねぇ」
万月の目が鋭くなる。徐々に闘気を解放していく。臨戦態勢に入っていく。強い怒りと共に。
「そんな目で睨むなよ。俺はお前みたいな猛者と久しぶりに殺り合えるってんで気分がいい」
「僕は不本意だよ。本当なら君たちと和解して、その七人目の男とやらを協力して倒したい」
「じっくり話し合うのは苦手でな。俺は」
言葉とは裏腹に、灼瑛はなかなか戦闘を開始する様子を見せない。攻防どちらの構えも見せない。やがておもむろに動かしたのはまたしても口だった。
「俺の父親はよく酒を飲む男だった」
「?」
「普段は子犬みたいに弱い男だった。だから家ではお袋にいびられて、職場じゃ上司に叩かれて、ストレスを絵に描いたような男だったよ」
「それがどうした?」
「もともとは下戸だったはずなんだ。ある時から酒を飲み始めて人が変わった。常に酒瓶を手放さないようになった。あいつにとってそれが武器だったんだ。酔った時だけは誰よりも強かった。そしてその暴力の一番の対象は、一番の弱者だった、俺さ」
「想像がつく話だね」
ボウッ!
灼瑛の右手から唐突に放たれた。小さな火球。だが、速い。
が……
「何がしたい?」
「なっ!」
灼瑛は驚嘆した。威力は犬小屋一つ燃やせないほどのものだったが、相当のスピードで放ったつもりだった。それも話の途中でそれなりに隙はついたつもりだった。それを眉一つ動かさずに余裕で避けた。どう動いたのかも見えなかった。
「君はこの程度か?」
灼瑛の落胆をも見透かすように万月は容赦なく言う。
「どうやら聞きたくもない話を聞かされそうだ。君がどっちか死ぬまでの勝負をしようってなら、いっそすぐに楽にしてやる」
「待て!」
自分でも自分の気持ちがわからなくなる。躊躇の気持ちが強まるほどに万月は逆に徐々にだが確実に殺気を高めているのがわかる。
「聞いて、くれよ。親父は来る日も来る日も俺に暴力を振るった。逆らえなかった。俺はその頃、まだ八歳だぜ」
「それで、君はどうした?」
「殺したよ」
万月の目の色が変わった。それは悲哀の色だった。ちょうど灼瑛の狂気の奥に潜んでいる誰にも打ち明けられなかった感情の色と同じだった。
「一つだけ約束して。いやらしいことはしないって。そんなことしたら幽霊になって末代まで祟ってやる」
万月たちの気配が消えて第一声がそれだった。日頃からポーカーフェイスの氷綱だが、これには笑ってしまった。
「心配しなくても、僕は年上の女性にしか興味はないですよ」
「そうなんだ。私もタメ以下の男って無理」
なんの話をしているのかと思う。それでも、年頃の女の子が明らかに悪人とわかっている、それも常軌を逸するほどに強い男と二人だけで取り残されては、死んだほうがマシなことをされることが、一番怖い。
「晃さんの作戦では君たちを別々の場所に飛ばしながら僕ら四人がかりで一人ずつ確実に殺すつもりでした」
「はぁ! なにその卑怯な作戦!」
葎花は当然のブーイングをした。相楽たちの話では六煉桜は実はそれほど悪人ではないかのような印象だったからなおさら。
「反対したのは僕ですよ」
「えっ?」
なぜだかわからないけど、葎花の中の尖った感情が一気に解けた。目の前にいる男が心底から優しい目をしているように見えた。
「葎花さん、ちょうどあなたと同じくらいの年頃でしたよ。姉さんが死んだ時、僕は十七歳だった」
「お姉さんがいたの?」
相手の話に素直に耳を傾けるふりをしながら刀を握り締める。剣対剣の戦いしか経験のない葎花だが、怯んではいられない。隙あらばいつでもー
パンッ!
「ひっ!」
「動かないで! まだ、あなたを殺したくはない」
隙を見せてはいけないのは自分のほうだった。しかも恐ろしいほどに冷たい弾丸。一瞬にして部屋の空気が冷えた。
「僕は弱い子供だった。でも、母さんはよく言っていた。あなたは喧嘩になったら決して勝てない。でも、どんなに悔しくても、卑怯な手を使ってまで勝とうとするんじゃないって」
「なんで、私にそんな話するのよ。さっさと殺すことくらい簡単でしょう?」
「死期が近い人間というのはそういうものですよ」
「死期?」
氷綱は銃口を下ろした。それでも決して踏み込む勇気は出ない。虎の穴に入り込むようなもの。
「外を見てごらん」
氷綱に言われて慌てて窓の外を向く。全く気づかなかった。まだ昼時のはず。だが、辺りでは漆黒の闇に雷鳴が轟いていた。
「外では孤兎市が全能力を解放し始めたようだ。今頃、妖怪たちが世界中で大暴れしてますよ」
「そんな、嘘でしょ……」
ほんの数ヶ月前には夏祭りで満開の花火を見た。同じ空、同じ世界のはずなのに。
「しかし、おかしいですね。どうやら誰かが孤兎市と戦っているようだ。妖怪たちの気はたしかに感じるのに想定していたほど暴れてはいない」
「誰だか知らないけど、食い止めてくれてるわけね。人間はそう簡単に滅んだりしないわ」
「たしかにね。でもね、わからないものですよ。人間の命なんて」
一体なんなのよ、と葎花は思う。だが、思った通り氷綱は自分語りを始めた。
「七個も歳上の姉でした。優しい人だった。髪は黒く長かったですが、なんの因果でしょうね。顔立ちはあなたにそっくりだ」
「だからなによ。他人の空似でしょ」
「性格は対照的のようですね。姉さんは淑やかで物静かなタイプでした」
「悪かったわね。どうせ私は男勝りなお転婆娘よ」
死期、という言葉が葎花の心にも浮遊した。この男のほんの気まぐれ一つでも、すぐにデスマッチが始まる。自分はほんの数秒後にはもうこの世にいないかもしれない。
「僕が生まれたのとほとんど同時期だったそうです。姉さんの身体に重い病が見つかったのは」
「それは、お気の毒なことね」
「部屋で寝込んでいる姉さんを見る度に、僕は自分の無力さを呪った。少しでも力になりたかった。僕は医学を学び始めました」
「いいことじゃない。それでどうなったのよ」
呼吸が荒くなっていく。もう強がる気力も失せた。全身が極度の緊張と恐怖で固まるでも震えるでもなく説明不可能な状態に陥っている。
「まず最初の不幸は父が僕らを捨てて他の女性とどこかへ行ってしまったことです」
「最悪、信じらんない」
「ショックから母は精神的に少しおかしくなりました。でも、僕らを育てるため、それから姉さんの治療費のため必死に働き、やがて倒れました」
なぜだかわからないけど葎花は瞳が少し潤んでいくのを感じた。
相楽、弥生、真、時には喧嘩だってあるけど、みんな優しくて楽しくて幸せな家族だ。
葎花は幸せしか知らない。平和しか知らない。
もちろん本やテレビで凄惨な事件や問題だらけの家族を目の当たりにすることなど日常茶飯事だ。
でも、今、倒すべき敵からの悲壮な告白を直接に聞いて初めての気持ちを知る。これが人生の深淵というものだと。
「寒い寒い雪の日に二人は二つ並べた布団に横たわったまま、逝きました。僕は大切な人と、夢を失いました」
「夢?」
「医者になって、二人を救う夢。その先でもっとたくさんの人を助ける夢」
氷綱は冷たく笑った。暖かい心まで失ってしまったとは、葎花にはどうしても思えなかった。ただ、この人の心を冷たくしてしまったのは、無力感と、きっと孤独感。
銃口がはっきりと葎花に向けられた。来る。
「たぶん向こうでも同じように自分語りをしてるよ。でも僕の話はここまで、聞いてくれてありがとう。そして、さよなら」
向こう=万月対灼瑛。
パンパンパン!
葎花はカッと目を見開いた。三発の銃弾は全て一並び。右が左に避けろ。
スッと横っ飛びするだけで避けられたのに、葎花は前につんのめってしまった。慌てて起き上がる。
ダダダダダダダダダダ!
葎花の四方八方に氷の弾丸が飛び散る。その全てが地面から逆向きの氷柱のように突き上がった。
「さぁ、逃げ切れるかな? それとも、反撃できるかい?」
パーン!
「あっ!」
右半身に激痛を感じた。次の瞬間には右肩から血が吹き出していることに気づく。
距離を詰めることすらできないままひざまずく。右肩を抑えながら。くそっ、利き腕からやられた。
「不思議な気持ちですよ。姉さんに似ているというだけであなたを殺す気が失せる」
「だから他人の空似よ。でも、正直、殺さないでほしい。私は別にプライドとかないから。命乞いを、するわ」
葎花は土下座の一つもしようと思った。その時だった。
「スキあり」
ザスッ!
氷綱の背後から一閃。ちょうど彼の身体のド真ん中、みぞおちの辺りを「槍」が貫いた。葎花には刹那なにが起きたのかわからなかった。
「ガッ……」
氷綱は崩折れた。背後に立っていたのは、葎花としては一度しか面識はないが一目でそうとわかる人物だった。
「乱」
大量の血しぶきにその身を汚しながら、そいつは不敵に笑った。
「奇襲成功。ずいぶん探し回ったけど間に合ってよかったわ」
2
「くそっ。乱の野郎、人を小馬鹿にしやがって」
「で、どうするよ? この女」
「決まってるだろ。今のうちにトドメをー」
意識を失っている舞雪を男一同はチラリと見やる。乱の手加減なしの拳で派手に倒れた彼女の着物はかなり乱れ、豊満な胸元や真っ白な太ももがはだけて見えている。
男たちは一瞬怯む。だが、そのスケベ心が戦陣においては致命的な甘さだった。
ムクッ!
「痛っ! クッ! なによ。あの下品な男。気持ち悪い」
トドメを刺す好機を逃した。舞雪は起き上がったが乱れた服を直そうとはしない。男心を完全に掌握してしまった。誰一人、この蠱惑的美女に手を出せない。
「始める? 第二ラウンド。むさ苦しい警察署暮らしじゃずいぶん溜まってるんじゃない?」
「舞雪サン、あなたいい加減にしなよ」
先程の乱の時と同じような登場の仕方で進み出てきたのは波町だった。一人で廃蛮鬼を百人は倒して流石にバテ気味だったが、まだ闘志は失っていない。
「そうやって一体、何人の男を嬲り殺しにしてきたんですか? 昔、あなたになにがあったかはもちろん知ってます。でも、だからって世の中の男全部を憎むのは筋違いですよ」
「そういうあなただってハァハァ言ってずいぶん興奮してるじゃない」
「これはそういう呼吸じゃなくて……って絶対わかってて言ってんだろ!」
実直、勤勉を絵に描いたような波町も苛立ってきた。
このままでは埒が明かないと思っていたところにちょうどいい刺客が現れた。
「ぎゃー! 落ちるー! チクショウ! 死ぬー!」
上空からなにかが降ってくる。それが何物か真っ先に気づいたのは敵方である舞雪のほうだった。
スッと右手を天にかざした。
辺り一帯の空気がグニャリと歪むような感覚が男たちを包んだ。その落下物の降下スピードが緩やかになっていく。
「はれ? はりゃ? なんだなんだ!」
ドシーン!
結局、「それ」を盛大な音を立てて着地した。
「相楽さん!」
「痛え! 腰打った! 痛え! あれ? 生きてんのか?」
なにが起きたのか全くわからないが波町はとりあえず相楽に駆け寄った。どこから降ってきたのかもわからないが、どうやら相当な高さから落下したのはわかる。それにも関わらず、どうやら大きなケガはない。
「ひさしぶりね。会員番号一番のおデブちゃん」
「舞雪? お前が助けたのか?」
波町はキョトンとする。会員番号一番?
これが相楽には舞雪を殺せない理由。相楽は女優時代の舞雪のファンクラブの会員番号一番、今でも弥生からつねられるほどの大ファンだった。
「重力を操ったのよ。あなたくらい重い身体を支えるのはけっこう堪えるわね」
「どうして助けた?」
「あなただけは私を見捨てなかったから」
あの日から最大時には五万人を超えていたファン達は一人また一人と自分から離れていった。相楽だけは、自分まで白い目で見られることになっても、退会しなかった。事実上解散してるクラブでも、相楽は何度も舞雪に会いに行った。舞雪自身からもストーカー呼ばわりされても。
「俺のこと、気持ち悪がってると思ってたぜ」
起き上がって全身についた土を払う。
どうやら役者は揃ったようだが、波町は迷う。肝心の駒の進め方。
「どういう事情でシータみたいに落ちてきたのか知りませんけど、戦いましょう。この女を……殺せば戦局は確実にこちらに好転します」
かなり躊躇ったが波町ははっきり「殺す」と言った。相楽も覚悟を決めるしかないと悟った。その時だった。あまりにも馬鹿げたことが起きた。
「もう我慢できない!」
警察隊の中の一人が猛然と舞雪に襲いかかった。その様は正に発情期の猿と同等。
「ばっ! おまっ! なにやってんだ!」
常人離れした舞雪の色香。それはまるで戦場における慰安婦。ただでさえ死に対する極限の恐怖を抱えた人間にとって、それはもはや本能で、抑えられないものだった。
「キャッ!」
死闘の真っ只中とはいえあくまでも硬派に自分と向き合う相楽、波町に舞雪も油断していた。
「落ち着け! 離れろ!」
相楽は次の言葉だけは錯乱状態の部下にもはっきり届くように叫んだ。
「取り返しのつかないことになるぞ!」
もう遅かった。
ブチッ!
それはなにが切れた音だったのか。舞雪の理性?違う。
「ぴぎゃーーーーー!」
長い髪を不気味に振り乱した舞雪はその肉片をポイッとゴミのように捨てた。
男の性器だった。
「舞雪! 落ち着け! 許せ! 全部こいつが悪い!」
必死で叫ぶ相楽の声も虚しく響くだけだった。
男たちを睨む舞雪の目は先程までの大人をからかって楽しむ女の子のようなそれではなかった。
舞雪の脳内でなにかがフラッシュバックしている。触れてはいけないものに触れてしまった。
「よくも……よくも、私の体を……」
ゴッ!
鈍い音とともに地面から無数の柱状の物体が飛び出す。
警察隊と舞雪のぐるりを鉄柵が取り囲んだ。それら一つ一つからビシッビシッと鋭い棘が飛び出す。
「影援魔導術、呪縛の章ー有刺結界!」
「……責任取れよ。馬鹿野郎。もう死んでるだろうけど」
局部をちぎり取られた男は即ショック死した。一瞬の痛みだけで、これから始まる地獄のショーを見なくて済んだ彼が一番幸せだったかもしれない。
「晃様、命令の範疇を超えることをお許し下さい。でも……こいつらは全員殺す!」
3
「しつっこいよ! 君たち!」
「当たり前でしょうが! あんたにさえ好き勝手させなきゃ妖怪たちはおとなしくしてるんだから!」
「夏芽さん、時間稼いで!」
凛府、真と夏芽対孤兎市。
孤兎市は弱い。はっきり言って武力だけで言えば六煉桜の中でダントツで最弱。それでも普段は踊るようにしか剣を振らない夏芽では若干押されてる。
「僕は操術のためでも鞭振るのは好きじゃないんだよ! いい加減離れ……っろ!」
ビュン!
「おっと!」
大振りの鞭が夏芽の頬をかすめた。血がつたう。
「ギルドン!」
孤兎市が指笛を吹いた。一番の相棒、移動用にも戦闘用にもここぞという戦いでは一番頼りにしてきた翼竜が雄叫びを上げる。
「よーし、溜まった!」
両の手を握り合わせていた真にギルドンが大きな爪を突きつける。迫力にはビビらされるが、心の奥は一切怯まない。キッと睨み返した。
「真君!」
「負けず嫌いは姉譲りだよ!」
パーン!
「ギャース!」
ギルドンの巨体が爆ぜる。全身から血が吹き出す。
それでもパンパンッと容赦なく呪文の効果は続く。
「ギルドン……」
孤兎市の目から光が消えたように見えた。その一瞬を夏芽は見逃さながった。
「あんたの相手はこっちでしょうが!」
孤兎市はハッとして条件反射的に素手で防ごうとする。刃を持たない凛刀とはいえ、この道十年の夏芽の渾身の一撃。
「!!!」
声にならないほどの激痛が右の手のひらに広がる。
「夏芽さん、チャンス!」
「はぁぁぁ!」
技の名前なんてない。ただ無我夢中で夏芽は剣を振り孤兎市に怒涛の五連撃を浴びせる。
ズザザー!
砂埃が一面に舞い上がった。真の放った魔法の残り火の爆煙と混ざり合い、五秒間ほどはなにがどうなったか誰にもわからなかった。
「はぁはぁ」
「はぁはぁ」
どれが誰の呼吸音かもわからないまま真と夏芽はとりあえずグータッチした。どうやら一連の攻防はこちらに軍配が上がったことはわかる。
「あいつは? どうなった?」
「あれ?」
二人の目に映ったのはグッタリと横たわるギルドンとその前にひざまずく孤兎市だった。
「大丈夫? あの子」
「わからないです。ただ、もう剣はしまっていいかも」
グスン、という音が聞こえた。
「大切な友達だったなら謝る。でも、こっちにも守りたいものがある」
「晃様の教えの一つ。なにがあっても泣くな。それは優しさではなく弱さだ」
「じゃあ、それは汗が目に入っただけ?」
孤兎市は立ち上がった。ユラリと振り返る。
「僕は一人ぼっちなんかじゃない。変われたんだよ。みんなのおかげで」
「みんなっていうのは六煉のこと?」
「友達が欲しかっただけなんだ。本当は人を殺したりするのはイヤだった」
真がゆっくりと孤兎市に近づく。そしてなにも持っていない右手を差し出した。
「知ってる? 握手だよ。自分は武器なんて持ってないってことを見せることで同盟和議の意志を伝えるんだ」
「同盟和議? 正気?」
たぶん、無意識だったと思う。孤兎市は同じように右手を差し出し、固く、とは言えない程度にだが、握った。
「僕も友達になるよ。大丈夫。僕もいがみ合うことなんて好きじゃない」
「……真君」
夏芽は剣をしまった。今は真の想いを尊重する。
この子が、この子たちが、平和への切り札になるかもしれない。
「真君、厳しい意見だけど、絶対に油断はしちゃダメ。この人たちは、ハッピーエンドなんて端から望んでない。破滅型の組織なんだからね」
「わかってますよ。だから、僕らも確かめに行こう。本当の真実ってもんを僕も知りたい」
孤兎市はもうなにも言わなかった。正直、夏芽の猛攻はかなり堪えている。
「ギルドンは一番の友達だったけど、唯一じゃない。まだまだ頼りになる仲間はたくさんいる」
孤兎市は指笛を吹いた。そして、向かうべきは龍獄怨だと思っていた。
「その前にさ、話してよ。禾南壊滅の真相。どう考えてもしっくりこないんだ。警察隊と君たちがこんなふうに本格的に対立するきっかけを作ったのはなに? あるいは誰?」
真は真っ直ぐに孤兎市を見つめる。
黄の桜は迷いながらでも真相を話した。全てを聞き終えた二人は無言で目を合わせた。
「そいつ、一発ぶん殴る」
「僕もぶん殴りたい」
孤兎市は失笑した。
「手強いやつだよ。僕も直接話したことは数えるくらいしかないけど、こんなふうに容易くわかり合えるやつだとは思わないほうがいい」
4
「一つ、強力な魔力が一気に弱まった。どうやら氷綱ってのはやられたようだね」
「馬鹿な。あんな小娘に」
灼瑛は既にボロボロだった。万月は灼瑛の過去を聞いても情けをかける気はなかった。それでもトドメを刺すことだけは躊躇してしまったし、必死で防戦する灼瑛はなんとか命の灯を保ち続けていた。
「もう敵の気を感じることもできなくなったようだね。葎花ちゃんじゃないよ。やったのは。察するにどうやら乱君だね」
乱と聞いても灼瑛には誰のことかわからない。だが、氷綱を倒せるーまだ殺されてはいないことは微かに感じられる気から察せたー人間がいることが信じられなかった。
「そんなに意外かい? 君たちは本当にお互いを信頼し合っているようだね」
「そうさ、氷綱がそう簡単にやられるはずがねぇ」
「気づいているかい? もう一つ大きく乱れている気があることに」
万月は刀を灼瑛の鼻先に突きつけた。子供の頃から優しい人間として生きてきたはずだった。いつからだろう。こんなにも怒りという感情が心を満たすようになったのは。今、万月は一体、誰に対して怒っているのか、わかっていなかった。
「なんのことを言ってる?」
「影援魔導師。君たちの中にいるんだろう? 紅一点だと聞いたよ。その人がどうやら、ご乱心のようだ」
「舞雪が? どうしてそんなことがわかる?」
万月は恐ろしくなった。影援魔導術というものの効果はこれほどだったか。
「心技体全てを彼女が高めてくれていたんだね。それらの効力が一気に弱まっているんだよ」
「馬鹿な……」
万月という男はここまで強いのか。そう感じていたことも間違いではないが、自分のほうが弱くなっていた。
「降参してくれ。灼瑛クン。今はここでじっとしていてくれると約束してくれるなら僕も君を殺したりはしない」
「それで、どうするつもりだ?」
「上へ行くさ。あと二人だろう。黒の桜と晃。殲滅か和解か、わからないけどどちらにしても戦いは避けられないだろう」
「父さんは……」
「?」
最期の、力を振り絞って灼瑛は語る。自分を虐待した父親を自分の手で殺した時のこと。
「悪い人間なんかじゃなかった。悪いのは父さんを苛め抜いた人間たちだ。この世界だ。父さんは被害者だった。だから誰かを犠牲にしないと生きられなかった。その犠牲が俺だ。俺も被害者だ。生まれてから今この瞬間まで俺たちはずっと被害者だ」
灼瑛の頬を涙が伝った。信じられなかった。組織の中で一番の暴れん坊。負けん気の強さでは誰にも負けないと思っていた。
万月は長いまつ毛の目を細めた。憐憫と叱責の情を込めてささやく。
「傷が痛くて泣いているの? それとも自分が情けなくて泣いているの?」
灼瑛の脳裏にいつかの記憶がフラッシュバックする。優しかった父と、泣きながら自分を殴る父が。
「どっちでもねぇ。ちくしょう」
灼瑛はそれ以上なにも話さなかった。どうやら精根尽き果てて気を失ったようだ。
「わかり合うことは、できないのかな。同じ人間なのに」
万月もそれ以上はなにも言わず、先を急ぐことにした。
5
「痛ぇ、痛ぇよぉ」
「足が、俺の足が」
「殺して、もう、殺してくれぇ」
ほとんどの男たちはもう瀕死の重傷、虫の息だった。
「強すぎる……」
波町は既に勝ちを諦めていた。完全に正気を失った舞雪。いったいどれほど男という存在を憎んでいればここまで残虐になれる。生きながらじわじわと苦しめる術をいったいどれほど身につけてきたんだ。
「舞雪、どうしてそんなふうになっちまったんだ。確かに俺だって警察として、性的暴行を受けた女性は何人も関わってきた。でも、お前は、異常だ」
立っているのは既に相楽だけだった。影援魔導師の任を完全に放棄した舞雪はおそらく、六煉桜二番目の手練れ血風刃と同格。もう止められない。
「私は、負けず嫌いなの。でも、それ以上に嫌いなのは戦えないこと」
ぼそぼそと語り出した。
「三人がかりで押さえつけられたら抵抗の仕様がないじゃない。レイプのこと、魂の殺人っていう理由わかる気がするわ。私はなにもできなかった。ただ、されるがままの人形よ。どんなにやめてって叫んだってやめてくれない。なんで私が許してって言わなきゃいけないのよ。しかもそれがいつ終わるのかもわからない。ひょっとしたらそのまま首でも締められて殺されるかもしれない。だから、私はひたすら終わるのを待つことしかできなかった。抗うことすら許されなかった。その絶望感が魂を殺すのよ。もうこんな世界はイヤだって思わせるのよ。死にたいって思わせるのよ」
一気にまくし立てたあとで、それでも一切緩まない鋭い眼光で「でも!」と言い放つ。
「私は死ななかった。晃様が私を拾って下さった。お前が魂を奪われた代わりに得た憎しみ、怒り、呪い、負の感情の全て俺に預けてみろ。復讐という生きがいと、そのための力、俺が呉れてやる。そう言ってくれたわ」
舞雪は既に男たちの血とそれ以外の多様な体液でドロドロの両手をべろりとなめた。相楽は鳥肌を立てた。
「お前を襲った男たちは……」
「とっくに三人とも捕まえたわ。今でも龍獄怨の地下牢の中。驚いた? 今でも生きてるわ。毎晩毎晩、痛めつけて死にかけのところで回復させて、その繰り返し。誰がトドメなんて差してやるもんですか。いつまでもいつまでも生き地獄を味合わせてやるわ」
心の奥底までドス黒い憎しみに染めてしまった女。相楽は涙がこぼれるのを止められなかった。
「舞雪、どうして……」
もう届きはしないとわかっていた。それでも伝えたいことがあった。その時だった。
ドス!
「あっ……」
舞雪の身体の中央を一つの刃が貫いた。そして、引き抜かれた。
「晃、さま……」
吹き出す血とともに舞雪は倒れた。後ろに立っていたのは金の桜、晃だった。
「晃様、どうして……ここに?」
自分が、愛する人に刺されたことなど気にしていないかのようだった。なぜ、戦陣を離れたの、と。
「舞雪、お前は俺に嫌われたいか?」
その場にいた誰にも晃の言葉の意味も意図も掴めなかった。
晃の目がひどく寂しげだったことにも、誰も気づいていなかった。
「驚いたな。最上階にいるのは当然、晃サンだとおもっていましたよ、プウさん」
「晃は大事な用ができたから下に降りたよ。それからその呼び方はやめろと二十年前から言ってるだろ、万月」
龍獄怨最上階、因縁の戦いのラストラウンドは、どうやら万月対……黒の桜・血風刃に決まったようだ。
6
「死んでるの?」
「いや、生きとる。意識もあるかもしれん。おい、こら! 狸寝入りしとんのやら起きろ!」
だが、氷綱はぴくりとも動かない。
「ちょうどええわ。嬢ちゃん、こいつにトドメ刺せ」
「は?」
「聞こえんかったか? こいつを殺せ」
「なに言ってんのよ。イヤよ、そんなこと」
「なんでや?」
「なんでって……」
しばし沈黙が広がった。その間も氷綱は動きを見せない。
「心を鬼にするんや。そのための練習や」
「練習って、やだ」
「殺れ」
「やだってば」
乱の目から一切の甘さが消えている。これが悪人と偽善者の決定的な違い。
「この戦い、一切の綺麗事は許されない。殺らなければ殺られる。それも嬢ちゃん自身だけやない。嬢ちゃんが守りたい人たちも、下手したら一人残らず……」
全ての情け容赦を捨てた目で乱は「最後や」とだけ言って自慢の槍を葎花の眉間に突きつけた。
選択肢は、ない。葎花にも、乱にも。
「(スキあり)」
ババババババババッ!
吐息さえも凍てつくほどに冷え切っていた空間の温度がさらに下がった。その青と白の似合う空間に飛び散る真っ赤な鮮血。
「ガッ!」
乱は全身からの出血と最後に大きな吐血とともに倒れた。代わりに起き上がったのは氷綱。
「心を鬼にできていなかったのはあなたのほうでしたね」と言いたかったが、もう無駄な会話をしている余裕もなかった。
「この、クソ狸!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
氷綱は震える両膝を叩いた。形勢は逆転したとは言えない。既に自分も死を覚悟していた。
葎花も必死で頭を働かせた。今こそ、自分が戦わなければ、今こそ……
心を鬼に、鬼にするんだ。
甘っちょろい戯言では慰みにもならない。
薄っぺらい綺麗事では何一つ守れやしない。
今この瞬間だけでいい。全てを捨てて、自分が大切に想ってきた愛情も優しさも正義も、凛刀術の理も捨てて!
「わー!」
葎花は刀を振り上げ、下ろした。
ドガッ!
鈍い音と感触と両手から脳まで届く痛み。
まるで自分が死んだかのようだった。優しい両親のもとに生まれ落ちてから、つい数ヶ月前まではたしかに手の中にあった幸せな日々の記憶の走馬灯。
先にムクッと起き上がり冷静なツッコミを入れたのは乱だった。
「なに、結局、峰打ちしとんねん」
葎花はポンと頭を叩かれた。涙が溢れた。
「乱、傷は? 大丈夫?」
「まだ戦えるっちゅうたら嘘になるわ。身体中が死ぬほど痛ぇ。まぁ、こいつもまた気絶しとるだけかもしれんけど、ほっときゃえぇわ。どうせこの寒さと出血や。そのうち失血死する」
息も絶え絶えで説明するが、葎花の頭には入っていなかった。
自分は、悪いことはしていないと、言えるのだろうか。
「万月様はどうなってるのか、私たちも急がないと。でも、乱は?」
「悪いが、まずは一人で行ってくれ。ここでできる限り回復に努めて、可能なら、きっと助太刀に行く」
あまりにも酷な頼みだった。それでも、葎花は頷いた。
「絶対に死なないで。私も頑張るから」
「当たり前や。さっきの峰打ちは練習やからギリギリ合格にしといたる。でも、次にナメたマネをしたら、今度こそ死ぬで」
葎花はもうなにも言わなかった。階段はどっちだとキョロキョロキョロキョロしてからすぐに駆け出した。
7
「なるべく急いでよ、スカリー」
バッサバッサと羽ばたいて飛ぶギルドンに対して、滑空型の翼竜、スカリー。目指すのは最も倒すべき敵、影狼のアジト・屍村。
「孤兎市君、その影狼って男について、もう少し詳しく教えて」
真はもう君付けにしていた。「信じてほしければまず信じろ」ークソお人好しの姉からのバカ正直な教えだ。
「これから行く屍村ってところは、生半可な覚悟で足を踏み入れていい場所じゃない」
「なんとなくわかるよ。覚悟はできてるなんて簡単には言っちゃだめだよね」
「奴隷、やつはやっと自分の足で歩けるようになったような頃から奴隷として生きてきた。やつだけじゃない。支配する者とされる者、それだけが屍村の全てだ」
朝から晩までただ働き続ける。力尽きて倒れてから自然に目を覚ますまでだけが休憩時間。家畜のエサのような食料だけが与えられ、栄養失調で死ぬまでなんの喜びも楽しみもない人生。
真は息を飲んだ。同時に両の二の腕を擦る。
寒いわけじゃない。むしろ気温は凛府の地方より高いくらいだ。
金欲と支配欲、そして絶望と憎悪だけに満ちた世界。あまりの醜悪さに歴史の教科書にも地理の教科書にすら載っていない、地球上で最も地獄に近いと言われた村。
「結局、支配する側も互いに猜疑心でいっぱいになって、最後には全滅するまで殺し合ったっていう……」
「怖すぎるよ。私たちそんなところにこれから何しに行くんだっけ?」
「夏芽さん、だっけ? 屍村はもう永久に消えない腐敗臭で完全に呪われた村扱い、影狼だけが自由にアジトとして使ってる。村の唯一人の生き残りとしてね」
「どういう神経してんの?」
夏芽も背筋が凍るような気がした。
「人間爆弾ーそれが晃さんが付けた称号だよ。全身が発火装置、火薬は……怒りだ」
孤兎市の声変わりもしていない声が一オクターブ下がった。
「あいつの中にもう人間らしい感情はない。怒り、憎しみ、憎悪、いくら言い方を変えたところでそれしかない。この世界、全部爆破してやるくらいの怨念を晃さんと僕たちでなんとかコントロールしてきた。でももう、歯止めが効かない」
「ちょっと待って! 今さらだけど、私たちそんなやつと戦いに行くの?」
「戦うんじゃないよ、夏芽さん。話し合いに行くんだよ」
「真君、馬鹿言わないでよ! そんなやつ、もう人間の形した兵器じゃない! 話し合うもなにも、そもそも言葉通じんの?」
「夏芽さん、影狼は確かに心は失ってるかもしれないけど脳は死んでない。むしろ僕よりも頭はいいくらいだよ。悪い意味で恐ろしく狡猾だしね」
孤兎市の口調がどんどん自信なさげになっていく。
第五章 夢
終章
「私は、一度でいいからあの子の心から安らいだ笑顔を見たかった。そんなに申し訳ない顔をしないで。誰もあなたを責めてなんていないから。大丈夫だから。時にはもっと我がままになって。なにも知らない子どものように屈託なく笑ってほしかった」
バカな人、贖罪の二文字に魂を縛られた可哀想になるくらい優しいバカな人。
「バカ、どうしてこんなにたくさんの人があなたを愛していたのに、どうしてあなた自身が自分を愛してあげられなかったの」
涙が止まらなかった。葎花はただ両手いっぱいに抱えた花を見つめて立ち尽くしていた。奥華はそんな葎花に優しく微笑むとこちらも両手を広げてその花束を受け取った。
「綺麗な花ね。あの子もきっと喜ぶわ」
葎花は空を見上げた。これ以上、涙が溢れないように。
見上げた空は雲一つない青色だった。お月様は昼間には見えなくても、きっと遥か彼方で美しく輝いている。
この広い空に眠る満月への供花。
私は、この命が果てるまでずっとあなたを想いながら祈り続けたい。
夢を見ていたい。
全ての生命がお互いに憎しみ合うこともなく、ただ穏やかに、愛し合えるように。
完