ヤンデレ聖女から逃れ現実世界に帰還した勇者。だが奴はこっちの世界まで俺を追いかけてきやがった
「はぁはぁ」
夕闇迫る、公衆の男子トイレ。
その個室。
そこで一人の男子が冷や汗を滲ませ、息を切らしていた。
"「見つけましたわ、神谷様」"
夕日を背に佇み、逆光を受ける聖女の姿。
それはまさしく、悪魔そのもの。
「く、くそっ。ま、まさかこっちの世界まで追いかけてくるとは思わなかったぜ。ししし。死に物狂いで逃げてきたってのにこんなのってありかよ」
焦燥し、その場に座りこむ男子ーー神谷 秀。
「くそっ。くそ。あの聖女〈アクマ〉。勘弁してくれよ、ほんと」
涙目になり、神谷は恐怖のあまりその身を震わせる。
そんな神谷の耳。
そこに、愉しそうな女の声が入ってくる。
「勇者様。そんなに逃げなくてもいいじゃないですか。せっかく、聖女〈わたし〉がこっち世界まで貴方様を追いかけてきてあげたのですから」
「……っ」
「わたしはこんなにも貴方様を求めているのです。なのになぜ。勇者様はわたしの愛を受け入れてくださらないのですか?」
響く、聖女〈マリア〉の思い。
そして同時に空間が軋み、トイレ全体が重苦しい空気に包まれる。
「勇者様、わたしは悲しいです。とてもとても悲しいです。ですので、貴方様がそこから出てくるまでわたしはここから一歩も動きません。うふふふ」
神谷の隠れる個室。
その扉の前。
そこでマリアは、恍惚と佇む。
そんなマリアの声。
それに、神谷は応える。
「ももも。もう俺に構わないでくれ。そ、そっちの世界での役目はもう。は、果たしたはずだ」
勇者として、異世界に召喚された神谷 秀。
そして、異世界での使命。魔王の討伐を果たしたまではよかった。
だが、その後。
"「わたしは貴方様なしでは生きてはいけません。どうかお願いします、勇者様。こちらの世界に残り、わたしと余生をお過ごしなってくださいませ」"
そんなマリアの言葉。
加えて、狂愛に満ちた眼差し。
それを向けられ、神谷は心の底から恐怖した。
そのマリアの愛という名の本能。
それに、他の仲間たちは説得を試みた。
"「おい、マリア。あまり勇者を困らせるなよ。勇者はこっちの世界での使命を終えたのだからな」"
"「そうだよ。いくら勇者様に残って欲しいからって、わがまま言ったらダメだよ」"
"「マリア。たとえ勇者様が側に居なくても。貴女の心の中に勇者様はずっと存在しています。だから、その。笑顔で見送ってあげましょう」"
剣聖。魔聖。そして、拳聖。
その三人の強く、常識のある仲間たちの言葉。
だが最後まで。
マリアは首を縦には振らなかった。
"「わたしは神谷様を心の奥から。いいえ、生まれた時から愛しています。そんなわたしの愛。それを何故、あなたたちは邪魔立てしようとするのですか?」"
そんな言葉を吐き。
"「さてはあなたたちも神谷様を愛しているのですか? だとすれば、それは到底許されることではありませんね」"
懐からナイフを取り出した、マリア。
その姿。
それに、仲間たちは「あっ、これはやばい」という表情をたたえ、急ぎ神谷を元の世界に戻すことを決意。
ここは俺が食い止める。
そう言い、マリアの前に立ち塞がった剣聖。
それを合図に、魔聖と拳聖。
そして神谷は急ぎ、転移の間へと直行。
"「ゆ、勇者。こちらの世界のことは任せてください」"
"「ききき。きっとマリアも時間が経てば元に戻るはずだからさ」"
本来ならもっと感動的なものになるはずだった別れの時。
だがそれは、焦燥に支配され切羽詰まったものになってしまった。
眩い光に包まれ、現実世界への帰還を果たそうとした神谷。
しかしその瞬間。
神谷は見てしまった。
頬に返り血を浴び、「勇者様。マリアは必ず、貴方様の元へと参ります」そう声を発し、うっとりと笑うマリアの姿をはっきりと。
そして、現在。
「ど、どうやってこっちの世界に来たんだ?」
「うーん、と。少し、魔聖さんにお手伝いしてもらいまして」
ガリガリ。
個室の扉。
そこにナイフを這わせ、猫撫で声を発するマリア。
「あっ、でも安心してください。魔聖さんも剣聖さんも拳聖さんも。みんな、元気でやっていますので」
ガリガリ。
ガリガリ。
「ですので、神谷様。貴方様もはやくそこからお出になってください。なるべく、こちらの世界では力を使いたくありませんので」
「……っ」
息を呑む、神谷。
「神谷様。神谷様。神谷様」
ガリガリ。
ガチャガチャ。
ドンドンッ
「やッ、やめてくれ!! マリアッ、俺はお前の愛には応えられない!! 頼むッ、もう俺のことは諦めてくれ!!」
神谷の叫び。
それに、ぴたりと音が止む。
「マリアの気持ちッ、それは充分に伝わった!! だからッ、だから!! いつものッ、出会った頃のお前に戻ってくれ!!」
「出会った頃の。わたし」
「そッ、そうだ!! あの時のマリアが俺は大好きだった!! 優しくてッ、気遣いができて!! みんなのことを第一に考えていたマリアのことがッ、俺は大好きだったんだ!!」
「だい、すき」
神谷の言葉。
それに勢いを無くし、消えいりそうな声を溢すマリア。
そしてその手からするりとナイフを落としーー
「ごめんなさい、神谷様。ごめんなさい」
そう涙声を発し、マリアはその場に崩れ落ちる。
「わたしが。わたしが間違っていました。神谷様。どうか、わたしをお許しになってください」
「マリア」
「ご、ごめんなさい。わたしは、もうあちらの世界に帰ります。お許しください。大好きな、神谷様」
「……」
唇を噛み締める、神谷。
異世界。
そこで初めて出会ったマリア。
右も左のわからない自分を導き、支えてくれたことを神谷は決して忘れない。
「神谷様。最後に一度だけ。わたしを抱きしめて頂けませんか? わ、わたしが心の底から人を愛したのは、貴方様がほんとにはじめてだったのです」
震える、マリアの声。
それに、神谷は応える。
「ごめん。ごめんな、マリア。お前の気持ちに応えてあげられなくて。だけど俺は、こっちの世界もこっちに住む人々も大好きなんだ」
ガチャッ
扉を開け、神谷は表に出る。
刹那。
神谷は背筋が凍る。
確かにそこには、居た。
「ふふふ。ふ、ふふふ。やっと出てきてくれましたね、ゆうしゃサマ」
そう壊れたテープレコーダーのように声を漏らし、こちらを見上げる聖女〈マリア〉が。
「あの頃のマリアはもうワタシの中には居ないのデス。貴方様を思う気持ちがツヨすぎて愛おしくて。ふふ。ふふふふふふ」
「マ、マリア」
震え、固まる神谷。
そんな神谷に、マリアは微笑む。
そして返り血と、狂愛。
それに全身を染め、マリアは蔦のように神谷にすがりついた。
そして、神谷の耳。
それをぺろりと舐めーー
「カエりましょう、カミヤ様。貴方様が愛していいのは、世界でも人々でもなく。この聖女〈ワタシ〉。ただ1人だけなのですカラ」
聖女〈マリア〉という名の聖女〈アクマ〉は、そうはっきりと囁いたのであったーー。