結.カンブリックのシャツの行方
秋の気配の忍び寄る、ある夏の終わりのことだった。
カロン、と聞き慣れたドアベルの音が、閉店準備をしていたオリヴィアの耳に最後の来客を告げる。レジスターを閉めて売上金を上階の金庫に仕舞っていた彼女は、慌てて急な階段を降りてきた。
「まぁ。いらっしゃいませ、先生」
不運な行き違いから夏半ばに負った頬の腫れは、今やすっかり引いている。真っ白とは言い難いが、この夏の庭仕事で少しだけ日に焼けた健康的な頬にえくぼを浮かべた。
「しばらくぶりかしら。ここひと月ほどいらっしゃらなかったかと思えば、こんな珍しい時間にいらっしゃるんですもの。びっくりしたわ」
「そうだな。無沙汰で義理を欠いたか。すまなかった」
「いいえ。お客様がいついらっしゃるかはお客様の自由ですわ。さて、今日のご入り用はなんでしょうか」
憮然としたコナーの態度はいつも通りで、ただ、彼にしては妙に硬い雰囲気だな、とオリヴィアは首を傾げた。彼はいつものスツールに腰かけることもなく、ややもどう切り出そうかとためらっていたようだったが、やがて店内に沈黙が落ちると、取り繕うことを諦めた様子で帽子を脱いだ。
「この数ヶ月、ささやかで、だが、とんでもない、いくつかの事件が起きたろう」
「ええ、そうね」
「そのささやかな事件を積み重ねて、やっと新しい原稿を書き上げた」
書き上げたんだ、と、彼は自分に言い聞かせるようにもう一度告げる。それは確かに彼女に向けられた告白だったが、同時に、彼の自分へ向けた戒めでもあったのだろう。
オリヴィアはコナーの告白に、ぎゅっと自分の胸元を握りしめた。お気に入りの小花柄のプリントドレスが皺になることも、気にしていられないほどに動揺した。それから、その動揺を悟られぬように、深い青の瞳で真っ直ぐと彼を見上げた。
「主人公はきっと、マホガニー色の髪に嫉妬深い緑の目をした紳士なのでしょうね」
「それから、明け色の金の髪と、青い慈愛の瞳を持った婦人だ」
「あなたは私の髪をそのように呼んでいらしたの?」
「……時間を、進めることは許されるだろうか」
オリヴィアの問いに、コナーは答えなかった。代わりに謎掛けめいた脈絡のない問いを返し、それきり彼は口を噤む。
仕方ないわね、という顔で、オリヴィアは薬草棚へ向かった。不承不承というていを取ることが、今の彼女の精一杯の虚勢だったのだ。
彼女は束になった一掴みの薬草を棚から取ると、二階へ上がって青いリボンを取ってきた。カウンターの影で薬草の分量を秤にかけ、適当なところで切ったリボンでそれを束ねてブーケのようにする。オリヴィアは薬草のブーケを紙袋に入れることもせずに、そのままコナーへと差し出した。
「最初は何の儀式かと思いましたわ」
「君の始めた茶番に乗ったまでさ」
コナーは差し出されたタイムの束を受け取る。彼は気づいていた。彼女がリボンを取りに行った際に、手のひらほどの小箱を二階の自室から持って降りてきたことに。
だからコナーは、その場でリボンを解いた。中に結ばれていた小さなリングをこの手にするために。
オリヴィアの薬指にぴったりと嵌まる結婚指輪を、もう一度彼女の指に嵌めるために。
◇ ◇ ◇
オリヴィアの父は、コナーと同じように、オックスフォードの一大学で研究をしている教授だった。今から二年近く前にハーブ店を開いたオリヴィアは、植物学者であった父への届け物で、たびたび大学を訪れていたのだが、そこで出会ったのが准教授であるコナーだった。
国文学史を研究している彼は、古い叙事詩に記された架空の植物について、オリヴィアの父に意見を仰ぎに来ることがままあった。ファーストコンタクトは、ただの挨拶だけだったと、オリヴィアは記憶している。
初めは一言二言かわす程度だった間柄が、何度か顔を合わせる内に好みの文学や植物の話に至り、やがて趣味や出自や、昨日あった何気ない日常の話などを語るようになった。
とくべつ目を惹くような容姿ではないオリヴィアだったが、彼は彼女の持つ、穏やかでいながら芯の通った、しなやかなしたたかさを好ましく思っていた。同じように、紳士的でありながら時に大胆不敵なコナーの伸びやかさに、オリヴィアもまた好意を感じていた。
互いに、確かに惹かれあっていたけれど、互いにそれをひた隠しにしているようだった。それぞれの間にあったものを、ふたりは感じ取ることができないままに、ただ心地良い時間が流れて半年が経った頃だった。ふたりの関係に転機が訪れたのは。
「先生と話していると、とても、なんと言うか、ぴたりと嵌まる気がしますわ」
何の気なしにオリヴィアが告げた言葉に、コナーは日常会話の延長線上のような口振りで返したのだ。「それでは結婚するかい?」
「誰が?」「君が」「誰と?」「私と」「……なぜ?」
まるでふわふわと夢の中を漂うように取り留めのない会話の中で、冗談のような求婚と、それに続く問答が繰り広げられた。
コナーは言った。
「君の瞳が青かったからかな」
オリヴィアは当時、まだその言葉の本意を理解できないままで、けれど、彼の冗談のような求婚を受け入れた。既に彼女はオールド・ミスと呼ばれる年齢に足を突っ込んでいたし――十七か十八で花嫁市場に出品されて四年も過ぎる頃には、みなオールド・ミスと呼ばれる年齢になっているのだ――、少なくともオリヴィアは、彼を慕っていたから。
この時代、結婚とは個々の繋がりではなく、家と家との契約のようなものだ。それが貴族であれ中流階級であれ、労働者階級であっても本質は変わらない。それならば、好いた男と結婚できることは、奇跡のようなものである。元より、オリヴィアは自分が愛されて求婚されたとは思っていなかった。
オリヴィアの父は諸手を挙げて喜んだ。中流階級ながらに自ら商売をする嫁き遅れの娘を、妻に望むような物好きは彼の他に居なかったので。日曜ごとの婚姻予告は、四週とも恙なく終わった。そして彼女は、ミセス・コナーとなった。
結婚してから初めの頃は順風満帆だった。徐々に雲行きが怪しくなりはじめたのは、コナーの文筆活動が盛んになって少しの頃からだった。彼の創作意欲の源流は妻を得たことに起因したが、当の妻はそれを知らず、自分以外の女性ばかりを登場人物のモデルに選ぶ夫へ、少しずつ疑念を募らせていった。
「私をあなたの作品のモデルにしてはくれないの?」
オリヴィアは一度だけ聞いたことがある。コナーはそれに、こう答えた。
「それだけは。ああ、誓って、君をモデルにすることはできない」
このとき、オリヴィアは彼がまさしく緑の瞳の持ち主だということを失念していた。愛する妻を、たとえ小説という形であっても広く知らしめたくはないという余執じみた独占欲は、憐れなことに、それを知る由もない彼女へ誤魔化しがたい猜疑心を植え付けた。
着実にすれ違っていく夫婦仲を試す出来事が起きたのは、結婚から半年が経つ頃のことだ。町で指折りの見目だけはよい娘が、コナーに自著のモデルを頼まれたと頬を染めて言いふらしているのを、オリヴィアは聞いた。彼女は結婚適齢期の娘盛りで、彼へ大っぴらに粉を掛けていることでも有名だった。
いよいよ、彼は何がよくて自分と結婚したのだろうと、オリヴィアは自問の渦に飲まれた。そこには単純な嫉妬以上に、自尊心の喪失というオリヴィアの、オリヴィアたる所以の崩壊があったのだ。
自分では、「自分」というものを持っているつもりだったが、彼にとっては物語を仕立て上げられるほどの面白みもない女なのだと、いつしかそのように思い込んでいた。
彼女の上辺はそのままに、心はますます頑なになった。最後の釦の掛け違いを決定的なものにしたのは、結婚前から変わらない妻の態度に不安を抱いた、コナーの不用意な一言であった。
「君は本当に私を愛しているのだろうか」
嫉妬の魔物を飼い慣らせなかったコナーの瞳は、疑心と苦悩に揺れていた。
「あなたは私を自著のモデルにもしてくださらないのに、私の愛は疑うのですね」
常からに穏やかなオリヴィアの瞳には、鮮やかな怒りの青い炎が揺れていた。
彼の一言で、とうとう彼女は決意した。学寮にほど近い、彼との家を出て行こうと。今ひととき、彼の元を離れなければ、永遠に彼を見る目が塞いでしまうように思われたのだ。
幸いなことに、ハーブ店の二階には人ひとりが寝起きできるだけの小部屋があった。オリヴィアは、心を決めたその日の内に出て行った。最小限の荷物だけを鞄に詰めて、真夜中、夫が寝静まったあとに。
コナーが彼女の書き置きに気づいたのは、いつも目覚めると漂ってくる朝食の匂いや、朝の支度をする物音や、優しく揺り起こす声が一切感じられないことに訝しんだときだった。いつもは暖かなダイニングの無機質な机の上に、短い文章で綴られた家出の知らせを見たとき、彼の心臓は本当に一瞬、鼓動を止めたと言う。
追伸、あなたのミルクトーストはもうなくなってしまったわ――こぼれたミルクは元に戻らないとはよく言ったもので、それでようやく彼は己の失言を悟ったのだ。
コナーは走った。まずは妻の実家へ。それから、そこに居ないと知るや、彼女が営んでいたハーブ店へ。開店直後に飛び込んだ店には、確かに、いつもと変わらないように見える妻の姿があった。夫は乞うた。
「君の献身を疑った私が悪かった。どうか帰って来てくれないか」
たった一晩で弱りきった夫の様子に、しかし妻は、静かに微笑んでこう言った。
「私を連れ戻したかったら、海水と波打ち際の間に一エーカーの土地を見つけて、そこに胡椒の実を蒔いてくださいな」
何も知らぬ者は、彼女が頓狂なことを言っているように思っただろう。だが、コナーには、その言葉の意図が手に取るようにわかった。彼女が申し渡したのは、数多あるマザーグースの詩の一節だということが。
詩はとある男が、スカーバラに住むかつての恋人へ伝言を頼む形で始まる。言付けた男とかつての恋人の女は互いに無理難題を出し合って、それを成し遂げられれば再び恋人になれるだろうと歌う詩だった。男は「縫い目も針仕事も無しで薄手の亜麻織物のシャツを作り、それを涸れ井戸で洗ってくれ」と伝えるが、それに対する女の返事が、先にオリヴィアが告げたそれである。
『できないと言うのなら
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム
ああ、せめてやってみせると知らせておくれ
そうでなければ、あなたは決して恋人にはなれない』
詩はそのような形で締め括られて終わるのだ。
オリヴィアが求めたのは、彼にとっての無理難題だった。あるいは、難題に挑む彼の誠意だった。――それが成し遂げられたとき、私はあなたの元へ帰るでしょう。言葉にされない彼女の決意を、コナーは感じ取った。
彼がもしも、強情で高慢な男であったなら、彼女の願いは退けられたことだろう。けれど彼は、正しく紳士であった。恋い慕う女の心からの願いを、無下にすることはできなかったのだ。
そうしてふたりの、この真剣な茶番劇が幕を開けた。
◇ ◇ ◇
「君の居なくなった日から、私たちの家は人の温もりを失って久しい廃墟のようだったよ」
「私の心と同じだわ。もっと早く、こうしてあなたの本心を聞いておけば良かったのに……私こそごめんなさい。一方的に逃げてしまって」
君に何を謝る理由があるのだ、とコナーは言う。オリヴィアは後ろめたさにざわつく胸を撫で付けて、首を振った。
「本当は、あなたが迎えに来てくださったとき、そう言おうと思っていたのに、臆病な私は意固地になってあなたの愛を試したの。あのとき――あなたが帰ってきてほしいと最初に乞うてくれたとき――あなたに愛想を尽かされても仕方なかったのにね」
コナーが差し出した手に、オリヴィアは自ずから左手を預ける。指輪を外して久しい彼女の薬指からは、すっかり指輪の痕が消えていた。
結婚式のときにそうしたように、コナーは再び彼女の薬指に指輪を通した。収まるべき場所に収まった白金の輝きを撫でると、溢れんばかりの愛おしさを隠しきれずにそこへ口づける。
「お帰り、コナー夫人」
「ええ、ただいま、あなた」
固く抱擁を交わしたふたりは、ようやく互いの胸の内を余すことなくさらけ出した。そうしてようやく、本当の夫婦になった。
人生とは、常に曲がり角を曲がり続ける道すがらのようなものだ――オリヴィアは最近とみにそう思う。明日のことなどわからないし、ともすれば一秒先のことだって暗中模索の毎日だ。
おしどり夫婦がパンチとジュディじみた喧嘩をしたと噂されることもあれば、貞淑な妻がある日突然家出することもある。
それでも、心の中に何かひとつ、あるいはふたつ、みっつ。信じられるものを杖にして、人は歩いていくのだろう。
明日出会うかもしれない、未だ見ぬ歓びを知るために。
The END
ここまでお付き合いありがとうございました。
読了お疲れ様です。
こちらは小説のあらすじに表記しております通り、創元社様の「第18回ミステリーズ!新人賞」公募作品となっております。
構想の元は「見立て系のマザーグース(ナーサリーライムス)を軸にした日常系似非ミステリ書きたいな」という所と、コナー氏の最初の台詞「やあ、オックスフォードの魔女殿。ご機嫌いかがかな」の言葉が頭に浮かんだところからでした。
そこからふたりの流れるようなやり取りが頭を駆け巡り、話の終わりに何かひとつ薬草を渡すという流れから、「四話構成……四つの薬草……ハッ! スカボローフェア!」というプロセスでお話の構造が出来上がりました。
構造から先に出来たので、オリヴィアの動機付けに頭を悩ませ執筆が進まないこと進まないこと。
「結婚する前には両目を大きく開いて見よ、結婚してからは片目を閉じよ」と有名な格言がございますが、オリヴィアは大きく開いて見ているつもりでしっかり見えていなかったのでしょう。
しかしながら、このお話では本音を詳らかにできなかったふたりのすれ違いでしたが、当時の結婚に「両目を大きく開いて見る」ことがどれほど影響を与えられたかしらとも思うのです。ほとんど初めて会ったような人と結婚せねばならないこともままあった時代ですから。
現実世界であれば、些細なことでいちいち悩んで塞ぎ込んで自己肯定感を擦り減らしていたら結婚生活なぞやってられないでしょうが、そこはまぁ、創作の世界ということで片目を閉じてお楽しみ頂けましたら。
次回はヒラエスの続き……でお会いするのは難しそうですので、来月辺りにまた昔の公募応募作品でも手直しして掲載できれば、と思っております。