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3.ダイヤモンドは愛される夢を見る



 ――君は本当に私を愛しているのだろうか。


 嫉妬の魔物を飼い慣らせなかった男の瞳は、疑心と苦悩に揺れていた。


 ――あなたは私を……もしてくださらないのに、私の愛は疑うのね。


 常からに穏やかな女の瞳には、鮮やかな怒りの炎が揺れていた。


 男はそのとき初めて、女の中にそれほどの激しい感情があることを知ったのだ。




 ◇ ◇ ◇




 乾いた破裂音が、左耳から右耳へと抜けていった。あまりに大きな音だったので、オリヴィアは最初、近くで空砲でも撃ち鳴らされたのかと思ったほどだった。


 それが自分の左頬の上げた悲鳴だと気づいたのは、一拍遅れにやってきた焼けるような痛みのせいだ。目の前には、この辺りで指折りの器量よしと持て囃される女性の憤怒に満ちた顔がある。コナーよりも明るい緑の瞳が、怒りでギラギラと強い輝きを放っていた。


「この泥棒猫! いいえ、魔女とお呼びしたほうがよろしいかしら? あなたね、私の夫を誑かした恥知らずな女は!」


 オリヴィアを引っ叩いた手もそのままに、激しい剣幕でまくし立てる女性の隣には、控えめで穏和そうな男性が申し訳なさそうに佇んでいる。呆然と口を開いていたオリヴィアは、辺りの野次馬のざわめきで我に返った。


 ここは仮にも店の前の公道だ。開店準備をしようと表へ出てきた矢先に、道向こうからやってきた彼女たちに捕まったのである。


「仰っている意味がわかりかねますが、何かの間違いでは」


「よくも白々しく仰るわね。彼を知らないとは言わせないわ!」


「ええ、お名前は存じております。この町一番の仕立屋でいらっしゃる、ダイヤモンド氏とご夫人でいらっしゃいますわね。大学の式典にはご夫君の仕立てた一張羅が欠かせないと、教職の父もいつも言っていますわ」


 オリヴィアが赤くなった頬でつらつらと答えると、勢い店へ乗り込んできたダイヤモンド夫人は出鼻を挫かれたように押し黙った。どうやら彼女の中で、自分は夫を誘惑した悪女と位置づけられているらしい。おかしな話だ、とオリヴィアは首を捻った。彼女たちは町で一番の仕立屋であると同時に、町一番のおしどり夫婦としても有名なのだから。


 派手な外見で先進的な考え方が敬遠されがちだが、勢いもあり口が上手い妻と、そんな妻の一歩後ろに佇んで献身的に尽くすうだつの上がらない夫。正反対に見えて、なかなかどうしてピッタリと嵌まった夫婦は、良くも悪くも保守的な町で目立つものだ。


 泥棒猫呼ばわりされる心当たりの欠片もないが、さりとて何か認識の行き違いがあったのかもしれない。記憶をさらいながらまじまじと夫人の顔を観察していると、彼女の頬も自分同様に――否、自分以上に腫れていることに気が付いた。不自然な赤みはおしろいで上手に隠しているが、頬の丸みが僅かに左右非対称になっていることまでは隠せない。


 それで理由を詳しく問おうと口を開いた折、ふたりのやりとりを見ていたご婦人方の輪から、これまた妙な噂話が聞こえた。


「嫌ね。ダイヤモンド夫人って言えば……知ってらっしゃる? この間、休暇で町に出てきていた大学生を引っかけて(・・・・・)いたっていうじゃない」


「おしどり夫婦が聞いて呆れるわね。ほら、見てご覧なさいよ、あの頬。夫人のことを愛するあまり、逆上したダイヤモンド氏が暴力を振るったって噂よ」


「ま、本当なの? 奥さんが奥さんなら旦那さんも旦那さんね。怖いわぁ」


「夫人ったら、日頃から気の強そうな方だもの、きっと旦那さんも不貞をはたらかれて堪えていた鬱憤が爆発したのね。あれほど奥方に尽くしていらしたんだもの、無理もないわ」


「旦那が酒の席で冗談半分に聞いたらしいけど、ダイヤモンド氏は苦笑してばかりで何も答えなかったんですって。きっと後ろ暗いことがあるから何も言えなかったのよ」


「夫人があんなによその女に噛み付くのも、自分の体面が悪いからに違いないわね」


 声をひそめるていだったが、当事者たちのすぐ近くで語られた噂話は陰口にすらなっていなかった。よくも本人の前でこれだけ堂々と言えるものだ、と思ったが、オリヴィアも頬を張られた手前、擁護しようとはしなかった。


 不貞を非難した相手に庇われることほど惨めなこともないものだから。


 さて、それにしてもこのまま店先でやりあっていては埒が明かないし、外聞も悪かろう。そう思って話をよくよく聞いてみると、夫人の言い分はこのようなものだった。


 ――夕方には戻ると言っていたのに、昨夜遅くに帰ってきた夫からは、ミントのようなつんと爽やかなハーブの匂いがした。どこに居たのかと聞いても、のらりくらりと質問を曖昧にかわして答えない。その上、彼の服の裾に黒猫の毛が付いていたのだ、と。


「この辺りで猫を飼っていて、匂いが付くほどの薬草が大量にある場所なんて、この店しかないじゃない」


 ダイヤモンド夫人が居丈高に告げる。証拠と言って突き付けられた猫の毛は、確かに黒く細い、ヘザーの体毛によく似ていた。


 そういえば、とオリヴィアの記憶の端に心当たりが引っかかる。確かに昨日、店を閉めようかという遅い時間に駆け込んできたのはダイヤモンド氏だった。人見知りの激しいヘザーが珍しく客に飛びついていたので驚いたが、彼はいくつかの薬草を買った後、匂いが染み付く間もなく店を出たのだ。


 オリヴィアは思い返したその事実の通りに夫人に説明し、隣のダイヤモンド氏にも同意を得たのだが、夫人は尚も食い下がって釈明を求めた。


「それなら夫も素直にそう答えれば良かったのに、答えなかったのは何故なの? 何か後ろ暗いことでもあるんじゃなくて?」そう言われてしまえば返しようもない。


 はて、どうしたものか。頭を抱えたオリヴィアに、朝日が強まり始める頃、ようやく助けの手が伸びた。


「これは一体何事かね?」


 薄い人垣を掻き分けてやって来たのは、今日も気取ったボーラーハットを被り、襟元に上品なクラヴァットを巻いたコナーだった。




 ◇ ◇ ◇




「それにしても痛々しいな」


 オリヴィアが水で濡らした布巾を頬に当てる様を見て、コナーは眉を寄せた。この騒ぎにまつわる一通りの経緯を聞き終えた後も、彼が彼女の淹れたハーブティーに手を付ける様子は無い。


「やり返してやればよかったんだ」


「暴力に暴力で返せば、話も聞かずに非難してきた彼女と同じになってしまうでしょう」


「つくづく、君は我慢強いね」


 自分でもそう思うわ、とオリヴィアは軽く笑って、けれど、自分にもどうしても我慢できないことはある、と胸の内で秘めやかに付け足した。


『事件ならば私にも仔細伺わせていただきたいものだな。次回作の題材にしよう。夫人は器量が良いからさぞモデルとして映えるだろう。そら、そこのご婦人方も学生たちも興味津々のご様子だ』


 あの後、コナーがそのように淀みなく告げて辺りの青年やご婦人方を指差すや、ダイヤモンド夫人はさっと顔を青くしてそそくさと去っていった。


 騒ぎが随分と大きくなっていたことに臆したのだろうか。人目も憚らずに騒ぎだしたと思えば、急に人の目を気にして逃げていくのだから、彼女は激情家なのだろう。


「濡れ衣もいいところなのに、まるでハートの女王からタルトを盗んだジャックの気分だわ」


 疲れた顔でオリヴィアが引き合いに出したのは、『不思議の国のアリスの冒険』ですっかり有名になったマザーグースの一節だった。


 ハートの女王がタルトを作り、それをジャックが盗んだが、ハートの王がタルトを所望したために事は露見し、ジャックは王に鞭打たれ、もうしませんと泣いて誓った、という詩だ。


「ハートの女王か。差詰め、ダイヤモンド夫人はスペードの女王といったところかな」


「スペードの女王? あの詩にも、『アリスの冒険』にも、スペードの女王なんて出ていなかったと思いましたけれど。もしかして、詩には続きがあるんですか?」


「あれは一世紀も前の雑誌に掲載された四連詩の一連目だよ。スペードの王と女王が出るのはその二連目だ」


 興味深げに尋ねるオリヴィアに、わずかばかり気を取り直したのか、コナーはいつもの調子で四連詩の続きについて語り出した。


 彼の話によると、ハートの女王のタルト騒動から続く二連目には、侍女たちに手を出す好色なスペードの王とその女たちを打ちのめして閉め出したスペードの女王の詩が、三連目にはすぐに女王に手を上げる乱暴なクラブの王の詩が続き、最後の四連目に仲むつまじいダイヤの王と女王の詩で締められるのだそうだ。


「続く二連目からの詩はこうだ」――。




 スペードの王は腰元たちにお戯れ

 后の女王は柳眉を怒らせ

 彼女ら()って閉め出した

 スペードのジャック

 あばずれ侍女を哀れんで

 お手柔らかにとおとりなし

 女王は和み

 もう打つまいぞと請け合った


 クラブの王は手が早い

 何かにつけて女王を殴る

 かわいい后の女王を殴る

 女王は負けじと立ち向かい

 派手な喧嘩の絶え間なし

 クラブのジャックは得心顔で

 ちらりと女王に目配せひとつ

 女王の代役買って出た

 貴人が手負うは

 ああ なんと恐れ多きこと


 ダイヤの王と麗しの后こそ

 とわに()ぎ謳わまし

 おお……だと言うのにあろうことか

 下郎のジャックが横恋慕

 身の程知らぬ馬の骨よ

 善良なダイヤの王は縄を持ち

 けしからぬジャックの首を縛れよかし

 されば麗しき女王の

 添い寝の夢は静けからまし




「面白いことにこのスペードの女王は、夫の火遊びの相手を叩き出しておきながら、自分の手元にはスペードのジャックという愛人を置いているように読み取れるわけでね。ダイヤモンド夫妻の状況に(あつら)えたような詩編じゃないかい?」


 コナーの(そら)んじた詩の一節に、オリヴィアはちらと野次馬たちが口々に囁いていた証言を思い出した。


 ――嫌ね。ダイヤモンド夫人って言えば……知ってらっしゃる? この間、休暇で町に出てきていた大学生を引っかけていたっていうじゃない。


 どこで仕入れてきた話題か、輪を作っていたご婦人方はみなその話を知っていたようだった。井戸端会議からはとんと遠ざかっていたオリヴィアは、そういったゴシップのたぐいには疎かったが。


「すわダイヤの夫婦かと思っていたら、夫君も大変なクラブの王だったというわけか。奥方に手を上げるようでは、おしどり夫婦の名が泣くね」


 総括すれば、確かに彼の言うとおりであるのだが、それにオリヴィアは同意しなかった。


 昨日ヘザーがダイヤモンド氏にじゃれていたことと同じくらい、些細だがぬぐいきれない違和感が、押し留められずに口を突いて出た。


「そうかしら。でも、先生。私は少なくとも、ダイヤモンド氏が奥方に暴力を振るったようには思えないわ」


「どんなに虫も殺せないような顔をしている人間だって、一皮剥けば衝動で人を殺せるものだよ。君は彼が気の良さそうな男だから氏の肩を持つのかい?」


「違うわ。感情的な話ではないの。彼らは仕立屋よ。帳簿の管理や接客をなさる奥方ならまだしも、旦那さんは己の手こそが商売道具だわ。それを、いくらカッとなったとして、殴って痛めるようなことをするかしら」


 現に、オリヴィアが見た限り、喧嘩慣れしていなさそうなダイヤモンド氏の両手は痛めた形跡もなかった。何より、昨夜やって来た彼が買っていった薬草の種類を鑑みれば、とても彼が妻に手を上げたとは思えなかったのだ。


「オトギリソウにカミツレ、ヨモギ。昨日、ダイヤモンド氏が買っていった薬草ですわ」


「それではそれらの薬草で、痛めた手を治したかったのだろう。どれも怪我によく効くものではないかね」


「いいえ、先生。そんなふうだから、あなたの左手の指輪が泣くのよ。少しは乙女心というものをお勉強なさって」


 柔らかな女の声に、一片、刃物のような鋭さがちらついた。コナーが顔をしかめる。装飾品のひとつもないオリヴィアの柔肌が、無言で彼を責め立てた。




 ◇ ◇ ◇




 幸いにも、オリヴィアの頬は夫人の頬ほどには腫れなかった。人を殴り慣れていないだろう女性の張り手だ。充血の直後は痛々しかったが、暫く冷やすと赤みはある程度まで引いた。


 この日は昼時に父の学舎へいくつかの薬草や香辛料を届ける用事があったので、オリヴィアは昼前から店を出た。


 呼売商人(コスターマンガー)の新鮮とは言い難い野菜や果物を売り歩く声を聞きながら、彼女はいくつもの尖塔がつらなる道を行く。中世より学術で栄えたこの都市は、古式ゆかしい学寮と移り変わっていく町並みの調和が美しい場所だ。詩人のマシュー・アーノルドは、建造物の調和を褒め称え、このオックスフォードを「夢見る尖塔の都市」と謳った。


 ぼんやりと歩いていたものだから、路傍の馬糞を片付ける四つ辻掃除人クロッシングスウィーパーにぶつかりそうになる。ごめんなさい、と頭を下げたオリヴィアは、ふと、ダイヤモンド夫人にまつわる噂の真相が気になった。それで、箒を手に向こうの通りへ去っていこうとする掃除人へ声を掛けた。


 町中の嘘とも本当ともつかない話をつまびらかにするには、彼らのような、道端のどこにでも居て、町中のどこへでも駆け付ける人々に聞くのがもっとも早い近道であったから。


「ああ、見たよ。奥さんは災難だったね」


 オリヴィアがペニー硬貨を二枚握らせると、彼女よりも十は若い少年が、大人びた口振りで言った。


「奥さんが?」聞き間違いかと思ったオリヴィアは尋ね返す。


「奥さんが」掃除人はもう一度、オウム返しに答えて頷いた。


 彼女は彼の話をよくよく聞いて、驚くと同時にほとんどすべてのことが腑に落ちた。それから、早く父への配達を済ませて、夫妻の仕立屋へ急がなければ、と慌てた。


 朝の様子では、憐れなオリヴィアを心配したコナーが、苦情を申し立てに行かないとも限らなかったので。




 ◇ ◇ ◇




 私は大丈夫だから心配なさらないで。そう言って笑ったオリヴィアだったが、彼女の可哀相な顔を見てしまっては、コナーもそのまま放っておくわけにいかなかった。


 午前中の遅い時間から昼の終わりまで大学で教鞭を執り、真夏の日の光が一等強くなる頃、彼はくだんのダイヤモンド夫妻の仕立屋へ向かった。彼女にこれ以上難癖を付けないよう、話を付けに行くのだ。


 店員として接客を受け持っていたダイヤモンド夫人は、店にやって来たコナーを見るなりあからさまに煙たい顔をした。


「とても新しい服を仕立てにいらっしゃった顔には見えないわね。お客様でないのなら、どうぞ今すぐ後ろを向いてお帰りになってくださいまし」


 今朝、話の最中に割って入られたことを根に持っているのか、夫人の声も表情もひどく刺々しい。


「無闇に人を攻撃するということは、自分の非を自覚しているからではないのかね」


「何が非だとおっしゃるの」


「事実確認をせずにいきなり暴力を振りかざすのは立派な非だと思いますよ、ミセス」


「もう、早く帰ってちょうだい!」


 彼女の当てこすりを歯牙にも掛けない男の様子に、業を煮やしたダイヤモンド夫人は彼の身体を力任せに押して店の外へ追い出そうとする。さすがにこれでは話も何もあったものではない。コナーは夫人の腕を掴んだ。途端、彼女の身体が恐怖したように竦み上がる。


「何をしているんだ!」


 間髪入れずに店の奥から、ダイヤモンド氏が飛び出してきた。


「妻の怒鳴り声が聞こえたと思ったら、あなた、朝の人ですね。こんなところまで来て妻に乱暴をはたらくとはどういう了見です」


 妻の危機を感じ取った様子で、氏は夫人を背中で隠すようにコナーの前に立ち塞がった。自分よりも背の高いコナーを睨み上げる眼差しに、今朝見た穏和そうな姿は見られない。


「乱暴をはたらかれたのはこちらですよ、旦那さん。気性の激しい奥方の手綱はしっかりと握っていただきたいものだ」


「妻がご婦人に手を上げたことは早計でしたが、だからと言ってあなたが手を上げていいという話ではないでしょう」


 別に私は手を上げたわけではないのだが、と反論の言葉が口を突いて出ようかという、まさにすんでのところで、店先のドアが軋んだ音を立てた。キィイと間の抜けた場違いな音に、三人が三人、驚いて出入り口を振り返る。


「あの、ねぇ、皆様。少し落ちついて、お待ちになってくださいな」


 肩で息をしながら店に駆け込んできたのは、話題の渦中のオリヴィアその人だった。彼女は走ったことで少し崩れたシニヨンの形を整えて、コナーとダイヤモンド氏の間にすばやく身を滑り込ませた。


「オックスフォードの魔女殿。君が何故ここに」


「先生は私の腫れた頬に大層ご不満そうでしたから、こちらへ説明を求めに伺うのじゃないかと思いまして。一方的な先入観で夫妻を責められませんよう、僭越ながら私の見解を添えに参りましたの」


 オリヴィアはすました顔で答えた。コナーはと言えば、まったく彼女の指摘した通りだったので、ばつが悪そうに咳払いをする。彼女は夫人を一瞥して得心したように頷くと、ダイヤモンド氏へと向き直った。


「どうぞ矛を収めてはくださいませんか? ご安心なさって、ダイヤモンドさん。先生は私を心配してくださっただけですわ。氏が奥方をそうするのと同じように」


 ぱちくりと目を瞬かせたダイヤモンド氏は、毒気を抜かれたように困惑顔でオリヴィアとコナーを代わる代わる見返す。コナーはそれに不承不承頷いて、それで夫妻の熱は下がったようだった。


「ひとつだけお伺いさせてくださいな、ダイヤモンドさん。あなたは数日のあいだ町を離れていらっしゃいましたか? それで、昨日帰っていらしたばかりだった?」


「え、ええ。私は昨日の夕方まで、ほんの数日、布地の買い付けのために遠くの町へ行っていたのです」


 狼狽えながらダイヤモンド氏が首肯する。たったそれだけで、オリヴィアは満足したようだった。


「ダイヤモンド夫人、心配はありませんわ。今朝申し上げたように、旦那さんはほんの五分ほど、うちの商品を買いにいらしただけなのよ。あなたの不名誉な噂を流したのは私でもなければ、旦那さんはきっと、今もあなたに根付く不安に心を痛めておいででしょうから」


 オリヴィアはそれだけ告げると、話は済んだとばかりに仕事の邪魔を詫びてきびすを返した。踏みとどまれば彼女の手を振り切れたものを、コナーは背中を押されるままに、足並みを揃えて店を出る。


 ショーウィンドウの向こうで、互いに顔を見合わせて首を捻る夫妻の姿を最後に、彼は眩しい日射しへ目を細めた。




 ◇ ◇ ◇




「事は難解であり、とても単純なことですわ。前後が逆だったんです。何もかも」


「何もかも?」


「ええ。周りが言うような、ダイヤモンド氏が奥方を愛するあまり引き起こされた騒ぎではないの。奥方が、ダイヤモンド氏を愛するあまりに起こってしまった事件なのですわ」


 仕立屋からの帰り道、コナーはオリヴィアに事の全容を尋ねた。胡乱な目を向ける男へ、彼女はいつも彼がそうするように、したり顔で語って聞かせた。


 噂の真相、夫人の頬にある腫れた痣のこと、ダイヤモンド氏の昨夜の所在。それから、オリヴィアが夫人にダイヤモンド氏との不貞を疑われた理由を。


「そもそも、噂こそ逆だったんです。ダイヤモンド夫人が大学生を誘惑したのではなく、休暇で羽目を外した大学生がダイヤモンド夫人にちょっかいを掛けたのよ」


 ところが、夫にご執心の夫人はにべもなく大学生を袖にした。大学に通えるような人間は、大抵が金持ちか、上等教育を受けることを義務付けられた気位の高い人間である。人気の仕立て屋とは言え、彼らにしてみれば下層の人間にけんもほろろに扱われては、さぞ腹がたっただろう。それで衝動的にカッとなった大学生が、彼女に暴力を振るったのだ。


 オリヴィアが四つ辻掃除人に聞いた真相こそがそれだった。


 ダイヤモンド氏の昨夜の所在については、ご婦人方の噂に答えが紛れていた。


「旦那が酒の席で冗談半分に聞いたけど、ダイヤモンド氏は苦笑してばかりで何も答えなかったんですって」――ダイヤモンド氏が酒の席に誘われたのが、つい昨日のことだったのだろう。


 妻の待つ家へ帰る途中、近所の顔馴染みに仕事終わりの一杯はどうかと誘われた。物腰柔らかで控えめなダイヤモンド氏のことだ。断れずに、少しだけのつもりで付き合ったに違いない。アルコールの入った旦那さん方は、徐々に(たが)が外れていく。それで一緒に飲んでいた誰かが、夫人の頬の痣について言及したのだろう。


 夫の居ない間に起きた出来事を、当然、昨日帰ってきたばかりのダイヤモンド氏は関知しているわけがない。かと言って、下手なことを言って妻の名誉を傷付けるのも氏の望むところではなかった。だから口を噤んだのだ。


 妻の惨状を知った氏は、慌てて酒の席を切り上げて、オリヴィアのハーブ店へ駆け込んだ。近所の薬局は閉まっていたのか、あるいは欲しい薬が売り切れていたのかは知らないが、とかく妻の頬の腫れを少しでも早く治してやるために。


 氏がオリヴィアに求めたのは、浮気の相手ではなく「打撲の腫れによく効く薬草」だった。――その時あの臆病なヘザーがダイヤモンド氏にじゃれついたのは、恐らく、彼が飲んでいた場所が「猫の酒場」で、飲んでいたものがキャットニップを漬け込んだ薬草酒だったからだろう。今朝、夫人の言っていた「ミントのような匂い」はキャットニップの特徴に当て嵌まるので、想像ではあるが間違いあるまい。


 ところが、ダイヤモンド氏は予定より帰りが遅くなった理由を夫人に問い詰められる。ここで包み隠さず答えてしまえばよかったものを、氏が隠し立てしたことで事が拗れた。どこに居たかを話せば、町に流れている不名誉な風評まで妻の耳に入りかねない。常日頃から夫人に熱を上げている氏のことだ。彼女にそのような噂を聞かせたくなかったダイヤモンド氏は口を閉ざしたが、それによって夫人は余計に夫を訝った。


 口からはアルコールに混じるミントの匂い、服の裾にはヘザーのじゃれついたときに付いた黒猫の毛。オリヴィアの営む店で、彼が浮気をしているのではないかと、とんでもない勘違いに至ってしまったのだ。


 恐らく、夫人はここ数日で急に流れだした自分の噂についても知っていたのだろう。何者かからの悪意ある流言に悩み、また自慢の美貌に傷を付けられ、不安になっていたところで、夫の噤んだ口の裏に女の影を見つけた。故に彼女は冷静さを欠いた行動に出てしまったのだ。


 コナーの取りなしの言葉で急に逃げるように帰って行ったのは、衆人環視に耐えられなくなったのではなく、大学生が見ている、と指摘されたからだろう。夫人に言い寄り、暴行を働いた学生に見られているかもしれないと考え、恐れたのだ。


 これはオリヴィアが後から気づいたことだが、野次馬に見られることを恥ずかしいと思うのなら、そもそも公衆の面前で騒ぎなど起こすはずがない。仮に我を忘れていたとして、ご婦人方が噂をはじめた時点で我に返って引いていたであろうから。


「結局、ダイヤモンド夫妻はやっぱり、とわに()ぎ謳わましダイヤの王と女王だったのよ」


 自分なりに得た情報と推察を組み上げて、オリヴィアは釈然としない様子のコナーにそう語った。


「噂の出所も、恐らくは例の大学生でしょう。自分ではなく、夫人から言い寄ってきたことにすれば、自分の名誉は守られて、自分を袖にした夫人にささやかな復讐ができますものね」


「君はそのとばっちりを食ったというわけだ」


 足を止めて、彼女の頬の腫れに指を這わせたコナーが言う。オリヴィアはそれには答えなかった。ただ、まだ赤く熱を持った頬に、壊れ物を扱うように触れる男の指の冷たさが伝わる。


「痣が残らないといいが」


「平気よ。赤くなっているだけだもの。夫人のように鬱血しているわけではないから、すぐに治るわ」


 そうか、とコナーはそれ以上追究しなかった。頭の別のところで、別のことを考えていたからだ。


 ダイヤモンド夫妻が真実、ダイヤの王と女王であったならば、やはり女王に横恋慕したジャックを、キングは縛り首にするだろうからな、と。コナーに見せたあの悋気と敵意を思えば、彼が夫人の与り知らぬところでくだんの大学生にどのような報復をしてもおかしくはない。


 そのような、そら恐ろしくも、コナーにとっては詮無いことを。


「生徒たちに講義をするより疲れた。君のハーブティーが飲みたいな。何かいいお茶はないかね? 魔女殿」


「そうね、そんなことを仰るなら、ローズマリーにヤローをブレンドした苦ぁいお茶を淹れて差し上げますわ」


「わかった、悪かった。魔女と呼ばれることを嫌がる君の神経を逆撫でしたようだな」


 女の頬から手が離れる。じりじりと焼け付く真夏の日が、熱の残った頬を焼いていく。汗ばむ手のひらに彼女が気づいていなければ良い。己の左手に嵌った指輪に後ろめたさを感じながら、コナーは本日二度目のハーブ店への道を辿った。



この話は文字数の都合上、四連詩の部分を概要のみに短縮して書いていたので、文字数の制限が無くなった今回、全部載っけました。

一連目は本文の通り『不思議の国のアリス』で有名ですが、二〜四連目は知らない方も多いのでは、と思います。

私は『完訳マザーグース』を読むまで四連詩だということも知りませんでした。

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