2.無垢と宝石の空騒ぎ
“お気をつけください、我が君。嫉妬というものに。それは緑色の目をした怪物で、ひとの心を弄び、餌食にするのです”
シェイクスピアの戯曲、『オセロ』のそのような一節を思い出したのは、初夏の陽光を受けたオレガノの葉があまりにも瑞々しく、深い色でオリヴィアを誘惑していたせいだ。
水を撒き終えた裏庭のハーブたちは、今日もすくすくと元気に育っている。朝の早い彼女の、午前中の日課がこれであらかた終わった。
後はレジスターの中身を昨日つけた帳簿と合っているか確認して、客を待つのみという頃。ドアベルの傾きを直している最中に、その叫び声はオリヴィアの耳へ飛び込んできた。
「ほんとだもん! キャサリン、うそついてないもん!」
おや、と店の面した通りに顔を向けると、斜向かいのパン屋の前で小さな少女が地団駄を踏んでいるのが見えた。まだ舌がもたつくような喋り方の幼子に向かい合っているのは、少女の母親でもあるパン屋のおかみだ。
彼女は引っ詰めた頭に困った顔と微かな苛立ちを乗せて、腰に手を当てている。
「宝石が川の上を飛んでったなんて、そんなことあるわけないだろう。お母さん、朝の準備で忙しいんだから後で聞かせてくれるかい?」
「ほんとなんだったら! テムズ川をビューンって、バシャーンって川にはいって、またピューンってとんでったんだもん! キティもトリーナもいっしょにみてたんだから!」
「また“見えないお友達”の話かい? まったく、ひとりでポート・メドウまで行くなんて。この子ったら目を離すとすぐ危ないことするんだから」
ポート・メドウとは、オックスフォードの北西に広がる昔ながらの牧草地だ。第二次産業革命も只中のこの時代にあって、人の手の入らない豊かな自然とどこまでも広がる開けた草地の間を、東のロンドンへと流れるテムズ川が悠々と横たわっている。
大人の足でも四〇分以上かかるだろう場所に、まだ年端もいかない子どもがひとりで遊びに出かけたと思えば、母親の心配も当然のものであった。
「あぶないならママもきてよぅ! いっしょにみれば、ほんとだってわかるわ!」
「行けるわけないじゃないか。お仕事があるんだからね。ほら、キャシーも早くお店に入んな。お父さんが作ったパンを一緒に並べておくれよ」
「やーだー! ママがうそっていうなら、キャサリンがひとりでそらとぶキラキラつかまえてくるもん!」
地べたに座り込み、動くことを拒もうとする少女の手を引いて、やがて母親はため息をつく間もなくパン屋の中へと消えていった。
呆気にとられたのは、一部始終を見ていたオリヴィアを含む周りの人間たちだ。彼らは揃ってしばらく凍り付いたように立ち尽くしていたが、辺りがいつもと同じ朝のさざめきを取り戻すと、ひとり、またひとりと自分たちの日常へ戻っていった。
「妙なことは考えるものじゃないよ、オックスフォードの魔女殿」
少々受け入れがたい独特の呼称に後頭部を軽く小突かれて、オリヴィアは振り返る。見上げれば、馴染みのマホガニーの髪を後ろに撫で付けた紳士が鞄と新聞を片手に彼女を見下ろしていた。
「あら、先生。おはようございます。今日は随分とゆっくりなんですね」
「今日は自分の研究に没頭する日なのでね。講義の準備で慌ただしく大学に顔を出す必要もないのだよ」
「そんなことおっしゃって、またご趣味の文筆業に精を出されるおつもりじゃありません? どなたか良いモデルさんでも見付かりました?」
「さてね」
軽口じみたやりとりは、今や馴染んだものだった。彼はたびたびお眼鏡に適った人物を見つけては、自著の娯楽小説の登場人物として描きたがった。なまじそこそこよろしい造形の顔を持つコナーであったから、彼を知る大学近辺の住人たち――特に、年頃のお嬢さん方――はこぞって彼の作品のモデルになりたがるのだ。
「それは失礼いたしました。それで、妙なこととおっしゃいますと?」
空とぼけたオリヴィアを、コナーの胡乱な視線が物言わずに責めた。君の考えなぞほとんどお見通しだぞ。彼の瞳がそう訴えている。
圧を感じたわけではなかったが、小さな店の前で上背の高い男に居座られてはたまらない。オリヴィアは扉を開いて彼を店へ招いた。位置を直したばかりのベルが軽快に鳴る。
「……だって、あんな小さな子がひとりでポート・メドウまで行くだなんてやっぱり危ないわ。せめて彼女が満足するように、誰か大人がついて行ってあげるべきじゃありませんか。あるいは、一緒に見たという彼女のお友達にも話を聞いてみた方が」
「君の博愛精神は立派だが、よその家の騒ぎに首を突っ込むべきではないと思うがね」
「でも、先生だって空飛ぶ宝石は気になるのじゃありません? それにあの子、放っておいたらきっと本当にひとりで行ってしまうわ」
「でももだってもないよ。それこそ推測で充分正体は知れるというものさ。彼女も言っていたろう。『キティもトリーナも見ていた』と。ことは単純。答えはすべて、マザーグースの詩の中さ」
店の奥のキッチンでは、火に掛けていたやかんが蒸気を吹き上げて蓋を震わせていた。今日も手早くふたり分のハーブティーを淹れた店主は、当然のようにカウンター脇のスツールに腰かけるコナーへ、少し早い午前のお茶を振る舞う。
この探偵もどきは、やはり何もかもを見透かすようなことを言って茶を呷った。ゆったりとした出勤日には、彼はこうして朝一番に訪れて彼女のハーブティーを一杯だけ味わうと満足して去っていくのだ。
この場では何も買わない代わりに、彼は夕方、帰宅の途中で朝に飲んだハーブティーの茶葉を買っていく。一連の行動はコナーが馴染み客となって以来、ふたりの間で暗黙の了解となっていた。
◇ ◇ ◇
それはコナーが店を出て、客足が緩やかに数度、出入りを繰り返した頃のことだった。
表通りに面した窓のそとに、オリヴィアは今朝見たばかりの幼い少女の姿を認めて目を瞬かせた。パン屋の扉を慎重に押し開けて出てきたキャサリンは、小さな身体で周囲を警戒するように見回して、表通りを横切っていく。両手には木の棒の先にたわんだ網を張った虫取り網を握っていた。その後ろから、彼女の親がついて出てくる様子はない。
オリヴィアは自分の悪い予感が的中したことを悟った。パン屋のおかみに報せるべきか考えて、けれどパン屋に向かう間に彼女を見失ったら大変だと思いなおす。行き先は明確と言っても、目を離した隙に少女が人さらいに遭ってはたまったものじゃない。
妙なことを考えるな、と釘を刺した男の言葉が耳の奥で蘇るが、迷ったのは一瞬だった。
彼女はエプロンのポケットから鍵束を掴み出すと、レジスターに鍵を掛けてから、開店札をひっくり返して少女の後を追った。
少女は、物心がついて少しという子どもにしては足が速かった。野ウサギのように駆けていく小さな背中に、オリヴィアは一定の距離をとって続く。
街中を抜けて郊外に至り、草原とテムズ川の一端が見える頃には、少女の勇み足も緩い歩調へと変わっていた。
キャサリンは遠目に見えるテムズ川沿いに北上している。途中、何度か声を掛けようかとも考えたが、顔見知りと言うほどにも親しくない大人がとつぜん声を掛けることも憚られて、結局、半時近くをこうして黙々と尾行していた。
しばらくすれば気が済んで帰るのだろうが、後先考えずに飛び出してきたオリヴィアは臨時休業してしまった店や、いまごろ娘が居ないことに気づいて大事になっているかもしれないパン屋のことを考えて気を揉んだ。
やはり、パン屋のおかみにひとこと伝えてくればよかっただろうか。それとも、ひとりきりでこのようなところに居るキャサリンを心配したふうを装って声を掛けてみようか。
つらつらと目まぐるしく頭の中で渦巻く懸念は、けれど、しきりにきょろきょろと辺りを見回す少女の真剣さを見ると隅の方へ追いやられた。結局、ここまでの道のり同様にキャサリンの後ろ姿を見守るに留める。
彼女たちはそのような調子で、家族連れや、恋人たちがまばらにそぞろ歩く川べりを長いことうろついていた。
オリヴィアの予想に反して、キャサリンは一時間経っても、二時間経っても、諦めて帰る様子はなかった。三時間経つ頃にはオリヴィアもいよいよ不安になり、途中で外したエプロンのポケットに忍ばせた懐中時計を取り出す始末だ。もうあと一時間か二時間もすれば、日も傾き赤みを帯びてくるだろう。
ここまで来てしまった手前、放っては帰れない。まばらに生える木陰からひとりで息巻いた時だった。
「だから、妙なことは考えるなと言っただろうに」
前方にばかり注意を向けていたせいで、すっかり油断していた背後から耳馴染んだ声が掛かる。驚いて身を竦めたオリヴィアは、油を差し忘れた鍵穴のようにつっかえつっかえ首を回して振り返った。そこには果たして、想像通りの人が立っていた。
「あら……まぁ、先生。こんなところでお会いするだなんて奇遇ですね」
「君が本気で奇遇だなどと思っていないことを期待するよ」
「どうしてこちらに?」
咎めることも諦めたような、呆れた調子で言われても、オリヴィアは怯まなかった。彼女が何食わぬ顔で如何を問うと、コナーは顎でキャサリンを指し示す。
「君が嫌に心配していたようだからな。よもやと思って早めに研究を切り上げ、店に戻ってみれば店内はもぬけの殻。扉には閉店札と鍵が掛かって、パン屋に少女の姿は無いときたものだ。まったく、やたら飛ばす辻馬車のお陰で尻が痛いよ」
少々恨みがましい声だった。これは後で腰痛に効くハーブを持たせてあげなければ、とオリヴィアは黙して考える。
ふたりは強まる暑気の中、ときおり川辺をうかがい見ながら連れ立って歩いた。道連れが増えてわずかに心強くなったオリヴィアは、午前中に覚えた引っかかりを、幼子から目を離さずに投げかけた。
「そう言えば。今朝おっしゃっていたあれはどういうことなんです?」
「あれ、と言うと」
「宝石の正体は推測で充分、とか、答えはマザーグースの中だとかいう、あれです」
「あぁ、それは……彼女が『エリザベス』だということさ」と、コナーがさほど重くもない口を開いた時だ。何かを見つけたように「あっ!」と上がった少女の声が、ふたりの視線を惹きつけた。木々の間から、少女が川べりに身を乗り出している。
危ない、と思ったのと、オリヴィアたちの視線が少女を飛び越えて川向こうに奪われるのと、どちらが速かっただろうか。
ヒュン、と鮮やかに風を切って、ビリジアンブルーに輝く何かが川面を跳ねていった。それは水切り石のようにほんの一瞬だけ水面でしぶきを上げると、向こう岸から張り出した木陰へとまたたく間に吸い込まれていく。
「やはりそうか」
懐から出したオペラグラスに目を当てたコナーは、訳知り顔で呟いて、手にしていたそれをオリヴィアへ渡した。
「どうしてそんなものを持ち歩いていらっしゃるんです?」
「紳士の嗜みだよ。それよりも、ほら」
促されて、オリヴィアは釈然としないながらもオペラグラスを目元へ当てる。ビリジアンブルーに輝く何か、が飛び込んだ木の葉のあわいに、碧色のつやりとした羽が見えた。
「あれは……」
彼女がその正体を口にする前に、またしてもそれを遮る音が響いた。
水の激しく跳ねる音と、次いで上がった甲高いこどもの悲鳴に、オリヴィアはオペラグラスから目を離す。ボートを何艘も浮かべられそうな川幅の中頃で、小さな少女が溺れかけていた。
無謀にも浅瀬から向こう側の木立へ渡ろうとしていたのか、足の付かないところへ踏み込んでしまったようだ。彼女は虫取り網を放り出した手で、ばしゃばしゃと川面を叩いていた。ほんの少し目を離した間のことだ。
いけない、助けなくては!
咄嗟にドレスの裾をからげ、駆け出そうとしたオリヴィアを制したのはコナーだった。
彼は自分のボーラーハットでオリヴィアの視界を塞ぐと、彼女が立ちすくんだ隙に川辺へと駆け出す。上等なジャケットを草地へ放り投げ、ざぶざぶと水を掻き分けてキャサリンへ手を伸ばした。少女が差し伸べられた手に縋り付く。小さな身体をしっかりと抱き留めて、コナーは岸へと引き返した。
「先生!キャサリンちゃん!」
拾い上げたジャケットと帽子を胸に抱いたオリヴィアが、濡れ鼠となったふたりへ駆け寄る。激しく咳き込むキャサリンの背中を撫でながら、コナーはジャケットを受け取って少女をくるんでやった。
「今日ばかりは、君を追ってきた自分の判断力を賞賛するしかないな」
「まぁ。そこは彼女を追ってきた私の判断力じゃないんですか?」
「君ひとりだったら、間違いなく彼女と一緒に溺れていたろう。川の中じゃ、その重たそうなドレスはたちまち重石に早変わりだ」
ふたりの会話を聞いてか聞かずか、飲み込んだ水を吐ききった少女が、今度は大声を上げて泣きだした。ぎゃんぎゃんと恥も外聞もなく泣きじゃくる少女の声に、オリヴィアの中の、少し遠いところにあった現実味が急激に押し寄せる。
一歩間違えば、少女も自分も川の底に沈んでいたかもしれない。そう思うと、背筋がぞっと粟立った。
「そう……、そうですわね。ありがとう、先生。今ここに居てくださって」
すっかり冷えたふたりの身体を温めるように、オリヴィアはコナーとキャサリンを抱きしめた。冷たい布の内側に、まだ微かな熱が残っていることに、彼女は深く神へ感謝した。
◇ ◇ ◇
「川の上を飛んでいったキラキラって、カワセミのことだったんですね」
町外れで辻馬車を拾ってキャサリンを送り届けると、店へ戻ってきたオリヴィアは、コナーにタオルを手渡しながら言った。本当は彼にも真っ直ぐ帰るよう勧めたのだが、薬草を買って行きたいからと、コナーがここで馬車を降りてしまったのだ。
「あぁ。あれは青い宝石とも呼ばれる鳥だからね。ほんの一瞬、視界の端に掠めたものを、動体視力の未熟なこどもが宝石に間違えるのも無理はない」
カワセミは草木の生い茂る水辺でよく見られる、美しい色をした鳥だった。艶やかな青い羽根は光の加減で緑にも見え、水中の魚や虫を捕るために木の枝や岩場から滑空する姿がたびたび見られる。キャサリンが見たのは、まさにその瞬間だったのだろう。
人の少ない清流に生息することの多いその鳥は、普段はもう少し北の方で見かけるのだが、たまに川辺を下ってポートの方まで飛んでくることがあった。
「先生はわかっていらしたのよね。彼女の言うキラキラがカワセミだって」
「ああ。まさか本物の宝石がひとりでに川に飛び込むわけもなし、あの少女の言うように素早く滑空して川からまた飛んでいったと言うのなら、それは羽の生えた生き物だろうと。だが、この広大なポートで遠目に虫の姿を捉えるのは至難の業だ」
「それで鳥だと?」
「それで、というよりも、それも理由のひとつ、と言うべきだろうかな。鳥と仮定すれば、後はすぐに答えに行き着いたよ。宝石のような美しさの鳥は幾らか居れど、人目の少なくない木々の繁った水辺を滑空するような鳥は限られるからな。
それから、彼女の言う“キティ”や“トリーナ”がパン屋のおかみの言ったように、見えないお友達だということも。言ったろう。彼女は“エリザベス”なのだと」
「そう言えば、そんなことを言ってらしたわね。エリザベスって何のことなんです? あの口ぶりだと、マザーグースの一編なのでしょうけど」
ハーブティーにちょうど良さそうな薬草の小瓶を、幾らか紙袋に詰めながら尋ねる。「風邪をひいたらたまらないから、セージとエルダーフラワーも頼むよ」と注文を差し挟むコナーのために、少しだけおまけを付けておいた。
「――エリザベス、エルスペス、ベッツィ、ベス。
みなで鳥の巣さがしに行った。
見つけた巣には卵が五つ。
それぞれ一つずつ取ったのに、巣の中の卵、四つ残った。
――これが私の言った“エリザベス”の正体だ」
「あぁ、謎かけ唄ね。それで言うと、他の三人は全部最初のひとりの愛称で、鳥の巣を見に行ったのは初めからひとりだった、という」
「その通り。キャサリンの愛称は“キャシー”だけではないのさ」
これですっかり、空飛ぶ宝石の謎も、キティとトリーナの正体も解明されてしまった。蓋を開けてみれば、幼いこどもの勘違いと、オリヴィアの単純な早とちりだったのだ。
「なんだか、私ひとりでとんだ空騒ぎをしていたみたいだわ」
「だから私は初めに言ったんだ。ことは単純だと。まぁ、しかし、君が首を突っ込まなければ、あの子は川で溺れて帰らぬ人になっていたかもしれないからな。これはこれで良かったということなのだろう」
湿ってくしゃくしゃになった髪を撫で付けながら、コナーは小さく笑う。とくべつ褒められたわけでもないのに、オリヴィアは自分が誇らしくなった。
「どうぞ、今朝のお茶のブレンドハーブと、ご要望のセージとエルダーフラワーです」
ひとしきり水分を吸ったタオルを受け取って、代わりにハーブを包んだ紙袋を渡す。彼はずっしりと中身の詰まったそれに、眉を跳ね上げた。
「幾らになる?」
「四ペンスと三ファージングですわ」
「これは四ペンスの物量じゃあないだろう」
「腰痛に効くカモミールをおまけに付けているの。あと、身体が温まるように、生姜と胡椒を少々。今日、ご迷惑をお掛けしたお詫びとお礼よ」
たちまち突き返そうとするコナーの左手を押し留めて、今度はオリヴィアが笑った。そのように無言で訴えれば彼が引き下がることを、彼女は熟知していたのだ。
「採算がとれずに破産するぞ、と言いたいところだが。なるほど、これが君の矜持というならば、受け取らないわけにもいかないな」
「そうしてくださると嬉しいわ」
重なっていた男の手が引かれる。遠ざかる指先に、金属の慇懃無礼な冷たさが尾を引いた。