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1.猫の尾を踏むということ



 

 追伸、あなたのミルクトーストはもうなくなってしまったわ。







 人生とは、常に曲がり角を曲がり続ける道すがらのようなものだ。オリヴィアは近頃、よくそう思うようになった。


 曲がり角の死角は案外、小さいように見えて思いも寄らない事故を引き起こしやすい。たとえばつい先日、クライスト・チャーチ大学の学寮脇で、近所の肉屋の息子が飛び出してきた馬車に危うく()()()にされかけたように。見えないということは、どんなに些細な要因でも、あらゆる不測の種になりうるのである。


 人生とは、つまり、そういった些細なようでいて大きな――そして多くの場合においては迎合されざる――事件の連続なのだろう。


 人の心もまた、それに似た側面を持っているように思えて、彼女は密かに嘆息した。


「やあ、オックスフォードの魔女殿。ご機嫌いかがかな」


 カロン、と耳に馴染むドアベルの音が響く。矢庭に聞こえた声へ顔を上げると、よく見知った男が店のドアを押し開けて入ってくるところだった。


 柔らかそうなマホガニー色の髪を横に後ろに撫で付けて、瞳と同じエメラルドのクラヴァットを首に巻いた紳士だ。黙っていると気むずかし屋にも見えるが、そうではないことをオリヴィアは知っていた。


 否、オリヴィアに限らず、この近辺に住んでいるならば大抵の人は知っているだろう。何せ彼は、この貴族御用達(ごようたし)堅物養成所(かたぶつようせいじょ)のような大学都市で准教授を務めるかたわら、論文ほどにも評価されない娯楽小説で文筆活動をしている変わり者なのだから。


 教師であり、研究者であり、作家。故にオリヴィアは、彼を先生と呼んでいた。


「あら、コナー先生。いらっしゃいませ。たった今、あなたがミス・オリヴィアと呼んでくださっていれば、私の機嫌はとてもよろしかったかもしれないわ」


 カウンターの内側で、注文を受けた薬の確認をしていたオリヴィアが控えめに微笑む。


「それは失礼。正直なたちなんだ」


 コナーは案の定、気むずかしいとはほど遠い様子で肩を竦めた。


 ええ、そう、彼は何にでも正直な人だったわね。勿体ぶった話し方が得意なだけで。心の内でそう付け加えて、オリヴィアはいつも通り唇を尖らせるふりをした。


「ま。あなたも私を魔女だと思っているのね。そういう意地悪、よしてくださる? まったく、みんなして人を魔女だ魔女だと後ろ指さすのだから」


「君がそこまで呼称に固執していたとは知らなかったよ」


「いくらお店で薬草(ハーブ)を扱っていて、昔ながらの製法で薬を作っていて、そのうえ黒猫を飼っているからって、失礼だと思いません? 今年に入ってもう三回、お店を差し押さえられるところだったのよ」



 ささやかな愚痴にさらりと混じった暴露話は、さぞコナーを驚かせたことだろう。その証拠に、彼はよく見なければそうとわからない程度に目を瞠って、視線だけでぐるりと店内を見回した。


 ドアの正面のカウンターを突き当たりに、右手には乾燥ハーブと香辛料、左手にはオリヴィアが調合した薬の瓶がずらりと並んでいる。店の中央に置かれた木製の三段棚には、紅茶葉の瓶が規則正しく整列していた。


 ハーブ店『シュガー&スパイス』。それがオリヴィアの営む、この店の看板である。


 四平方ヤード(三平方メートル強)ほどのこぢんまりとした店内は、身の丈(約一八〇)フィート(センチメートル)ほどもあるコナーには少々窮屈そうだ。


「そっちがお怒りの元凶か。それは災難だな。お上もきっと、魔女術禁止法を正当化するのに必死なのさ」


「これだから頭の固くて中身の古い貴族院は。自然療法をすっかり忘れたお偉いさんたちは、アヘンチンキと瀉血(しゃけつ)のような馬鹿げた技術ばかりをご所望なのね。今どき魔法や魔女なんて、田舎の子どもたちさえ信じやしないわ」


 コナーのこぼした控えめな苦笑で、愚痴にも熱が入っていく。いつもならば真っ先に客人へお求めの品を尋ねるところだが、彼の場合は()()()()()()()()()()()ということを知っているので、ついつい口の錠前が開きがちになるのだった。


「ところでお茶でもお飲みになります?」


「ああ、ぜひに」


「切れていたキャットニップがやっと入荷したんですよ」


 気持ちと話題を切り替えるようにオリヴィアが添えると、コナーは「へぇ」と感嘆して彼女お勧めのハーブティーを頼んだ。「ではそれを」


 返事を受けたオリヴィアは、小さな微笑みを残して背後の扉の向こうへ引っ込む。カウンターの内側から唯一繋がる店の奥には、狭いキッチンと二階へ続く急な階段が隠されていた。


 二階はオリヴィアのプライベートルームに、階段裏は小さな倉庫になっている。彼女は倉庫からいくつかの乾燥ハーブを失敬すると、キッチンに立った。


 慣れた手付きでやかんを火に掛けると、戸棚からティーセットを取り出す。時折コナーのように、世間話や、ハーブの話や、あるいは色々な病に関する話をしたがる客人が来るので、こうして手ずからブレンドしたハーブティーを振る舞うのだ。


 指先で軽く揉んだハーブをポットに詰め込んで、しゅんしゅんと音を立て始めたやかんから湯を注ぐ。ポットの口から溢れた湯気が天井めがけて逃げ出すと、爽やかなミントに似た香りが鼻の奥を擽った。


 エプロンのポケットに忍ばせていた婦人向けの懐中時計を取り出して、きっかり三分。ポットの蓋にも抑えきれない香気がキッチンを満たす頃、オリヴィアは二脚のカップを手にキッチンを出た。


 しばらく席を外している間に、コナーは我がもの顔でカウンター前のスツールに腰かけていた。使い古されて年季の入った木製スツールに、糊の利いたチョッキを着こなす彼の姿はどこかちぐはぐに見える。


「お待たせしましたわ、先生」


「いいや、待つ時間も楽しいものさ」


 予定調和のようなやりとりを交わして、コナーの前にカップを差し出した。彼がそれを受け取ったとき――もっと言うならば、その拍子にふたりの指先が触れたとき――ちょうど先ほど聞こえたばかりのドアベルが声高に来客を告げた。


 ふたりが揃って店の入り口へ視線を走らせると、新たな客人はへどもどしながら「やあ」と被っていたハンチングを持ち上げた。猫背気味の、やや小太りな中年の男だ。オリヴィアを見て遠慮がちに笑った彼は、次いでコナーへ目を向けると、おっかなびっくりといった調子ですぐに視線を逸らした。


「あら、いらっしゃいませ。今日は何をお探しですか?」


 彼が近所の顔馴染みだとわかるや否や、オリヴィアは自分のティーカップをカウンターの隅に押しやる。彼もコナーの気難しそうな顔に躊躇したのかもしれない。そう思って柔らかく微笑んで見せると、男は少しだけ安心したようだった。


「ああ、いや、ええと。キャットニップを探してるんだが、ここにゃありませんかね?」


「あら、奇遇ですね。ちょうど今、私たちもキャットニップのお茶を頂いていたんですよ。乾燥ハーブでよろしいかしら?」


「もちろんさ! ああ、良かった。さすがにうちにゃハーブは置いてないんでね。三ポンド(約一・四キログラム)ほどくれるかい?」


 すぐに持って参りますわ。そう言い置いて再び倉庫へ引っ込んだオリヴィアは、男ご所望のキャットニップの瓶を掴んでカウンターへとって返した。レジスターの脇にひっそりと置かれている秤で、三ポンドを量って紙袋の口を閉じる。


「十ペンスになります。それにしても、三ポンドも買われるのは珍しいですね」


 ペニー硬貨を受け取りながらなにげなく尋ねたオリヴィアだったが、男は紙袋を大切な宝物のように懐に抱き込むと、笑い損ねた顔で苦笑を漏らした。


「飼い猫が暴れるもんでさぁ。今日みたいに切らしてから慌てるのは懲りごりなんでね」


 それじゃ、と傷だらけの片手を上げて、最後だけ愛想よく頭を下げた男は、丸まった猫背に反して足早に店を出て行った。それまで黙ってハーブティーを飲んでいたコナーは、ようやく一息ついたのか、おやおやと片眉を上げた。


「慌ただしい客人だな。今のは……」


「ベイルさんよ。一本裏の通りで酒場をやってる」


「ああ、『猫の酒場』でお馴染みの。随分と内向的な店主だそうじゃないか」


 彼女が名前を告げると、彼はやっと得心した顔で窓の外を見やった。あたかも、そこに先ほどの男の背中を見出そうとしているかのように。身も蓋もないベイルへの評価に、オリヴィアは子どもを窘める母親のような顔で視線の先を追う。


「気弱でとっても優しい人なのよ。うちのヘザーと一緒でね」


「優しい人、ね。ものは言いようだ」


 既に見えなくなったベイルの背中は、ずんぐりしていて『鏡の国のアリス』に出てくる卵の紳士を思い出させた。


 さて、やっと自分もお茶を頂こうか。そう思って冷め始めたカップを持ち上げたとき、オリヴィアはふと、ほんの今思いついたように小首を傾げた。


「ヘザーと言えば。ねぇ、先生。うちのヘザーを見かけなかった? 昨晩から姿が見当たらないのよ」


 エメラルドの瞳をじっと見つめながら、オリヴィアは愛猫であるヘザーの姿を脳裏に思い浮かべる。濡れ羽色のつやつやとした毛並みが愛らしい、すらりとした体躯の黒猫だ。やや臆病なきらいがあるので、裏庭以外には、あまり外を出歩く方ではないのだが。


 一度気になれば、どんどん心配になってしまうのは親心の常だ。猫が自由気ままな生き物であることは知っているが、彼は少々毛色の違う猫だから。


「いや、見てないな。けど……ふぅん」


 (から)になったカップを(いたずら)に弄びながら、コナーはしたり顔で鼻を鳴らした。これは何か、思うところがあるな。オリヴィアの、そこそこ働く勘がそう囁く。


「なぁに、先生。何か知っていらっしゃるの?」


「知っているわけじゃないがね。どこに居るかはだいたい見当がつくよ」


「勿体ぶらずに教えてくださいな」


 落ち着きを装ったオリヴィアだったが、急に覚えた焦りは隠しきれなかった。鼻のいいコナーは抜け目なくそれを嗅ぎ取って「わかったわかった」と仕方なさげに手を挙げる。


 きっと今はやりの探偵小説の主人公ぶりたいのだわ。再び唇を尖らせかけたオリヴィアに、彼はいかにもわざとらしく咳払いしてその名推理を披露した。


「キルケニーの猫、という言葉は知っているね?」


「ええ。激しい喧嘩をするほど相容れない間柄を指す言葉でしょう」


「では、その語源になった伝承歌(マザーグース)は知っているかな」


 マザーグース、とオリヴィアは口の中で転がした。この英国の歴史であり、伝説であり、心そのものでもあるそれの、正確な数を把握している人間が一体どれほど居るだろう。


 それにしても、と彼女は感嘆する。マザーグースを引き合いに出してくるとは、いかにも言葉遊びが好きな彼らしい。


「残念ながら、私は先生ほど博学ではありませんの」


 オリヴィアは言外に知らない、と答えて、気を落ち着けるためにハーブティーへ口を付けた。辛みの抑えられた鼻通りのいい香りが、頭をクリアにしてくれる。試みは成功したようだ。


 コナーはと言えば、持ち上げられて多少気分が良くなったらしい。その機嫌を声に乗せて、一編の歌を披露した。


「キルケニーの猫二匹。

 互いが腹で思うには、二匹じゃ一匹おおすぎる。

 そこで猫たち喧嘩した。

 引っ掻き、噛み付き、戦った。

 あまりに激しくやりあったので、

 後に残るは爪と尻尾のひとかけら。


 キルケニーの猫二匹。

 結局どちらも消え失せた」


「まぁ、物騒ね」


 韻を踏んで軽快に歌うコナーとは対照的に、オリヴィアは思わず眉を寄せる。彼の歌った童謡を、そのままヘザーに当てはめてしまったせいだった。


「まさか先生、あの子が喧嘩をして、どこかでひどい手傷を負っているとでもおっしゃるの? ネズミの一匹にだって怯えるような子なのに」


「まさか。君の言うそれが典型的な親馬鹿ではなく、猫の爪ほどの誇張もないことは知っているよ。この歌には更に元になった逸話があってね」


 逸話なんてどうでもいいわ。喉元まで出かかった言葉を、彼女はすんでのところで飲み込んだ。早くヘザーの無事を確認しなければ。そう思えばこそ、コナーの話は聞いておくべきなのだ。


 少なくとも、彼が心当たりを抱えている限りは。


「十八世紀末にアイルランドで反乱が起こったろう。その時、キルケニーに駐屯していた兵が、娯楽に飢えて二匹の猫の尻尾を結んで争わせたそうだ――まったく子どもじみたことをするものだね――。ところが、それが上官に見付かってね。兵は慌てて猫の尻尾を切って追い立てたのだよ。

 咎められることを恐れた兵は残った尻尾の言い訳に、凶暴な二匹の猫が尻尾になるまで食い合ったのだと(うそぶ)いた。これが粗末な話の顛末だ」


「恐ろしい話だこと。良かったわね、私がしがないハーブ店の一店主で。ひ弱な貴族のご令嬢だったなら、今ごろ顔を真っ青にして卒倒していたわ」


「結局のところ、いつだって一番恐ろしいのは人間ということだね」


 涼しい顔をして、なんとも生々しいことを言う。けれどこの点に関しては、オリヴィアも例外なく同意するところだった。


「それで、先生。その逸話とうちのヘザーが、一体どんな関係があるというの? そろそろ心配がすぎて胃の中がぐるぐるしそうだわ」


 お茶が利いて健胃の自浄作用が働いているのだろう? そう軽口を叩くコナーをじとりと見つめると、彼は「失敬」と白旗代わりに白手袋で覆われた手のひらを上げた。


「結論から言おう。君の愛しのヘザーは誘拐されたのだろうさ。先ほどの、ええと」


「まさか、ベイルさん?」


「そう、そのベイル氏によって」


 目の前に提示された、思ってもみなかった答えに、オリヴィアはカップを取り落としかけた。慌てて握り直した持ち手が驚きで震える。次の瞬間には彼が冗談だと肩を竦めるのではないかと期待したのだが、ぱちぱちと何度瞬いてみても、彼は憮然とした表情を崩さなかった。


「まずひとつに。いつもは買わないような大量のキャットニップを、一体誰が消費するというのかね」


「それはベイルさんのところの飼い猫ではないかしら? うちのお得意様になってくれたのも、それが縁ですもの」


「だが君もさっき言っていたように、あの量を一度に買うことは珍しいのだろう?」


「ええ。いつもはあの半分か三分の一ほどよ」


 キャットニップは、猫が好んで噛む草という意味合いから名付けられた薬草だ。猫を惹き付ける成分を持っており、これを与えられた猫はたちまちご機嫌になってしまうような薬草だった。


 それを、猫を飼っている人間が普段より少し多めに買っていったからと言って、特別気に留めることもなかったのだが、どうやら彼の見解は違うらしい。


「次に、ふたつめ。私を見たときと、彼が店を出て行ったときの態度だ。彼は仮にも接客業をしているのだろう? それなら、人間不信という線は考えにくい。いくらなんでもあそこまで人に対して挙動不審なのは、つまり、あまり人の目に付きたくない後ろめたい何かを抱えていると言っているようなものだろう」


「そう、なのかしら。……ううん、言われてみれば、そう見えなくもないけれど」


「きっと彼は 、今この店には君だけだと思ったのだろうが、私という想定外の他人の目に触れたことで怯えが全面に出てしまった。そう考えるのが妥当だろう」


 不安と困惑が増していくオリヴィアに対し、コナーは唇の端をゆるく吊り上げた。文学史について教鞭を執り、また自らの研究もそれを主軸とする彼にとって、物事を読み解くというのは職業病にも似た習性なのだろう。


「最後に、彼の手が傷だらけだったことに気付いたかい?」


「ええ、それは。商品を渡すときに。痛そうだったから、軟膏も一緒に勧めるべきか少し迷ってしまったわ」


「そう、痛々しかった。まさに昨日今日できた生傷のようにね」


「けれどそれは、ベイルさんの飼い猫が引っ掻いたのではなくて? ほら、キャットニップを切らして飼い猫に暴れられたと言ってらしたもの」


「それ自体は、恐らく嘘ではないだろうさ。見知らぬ者が……たとえば見知らぬ猫が、突然自分のテリトリーを侵したとなれば、誰だって威嚇するだろうし、爪の二本や三本()()しまっても不思議じゃない。猫は特に、警戒心と縄張り意識の強い生き物だからね」


 つまりいつもより多い量のキャットニップは、誘拐したヘザーを大人しくさせると共に、縄張りを荒らされたと勘違いした飼い猫を落ち着けるための沈静薬だったということだ。


「でしたら、先生。そもそもどうして、ベイルさんはうちのヘザーを誘拐しなければならなかったのかしら?」


 彼女が首を傾げると、彼は待っていましたとばかりに冷めたハーブティーを呷った。まるで巧みな弁舌をふるうために、唇を湿すように。


「そこはほら、二匹じゃ一匹多すぎる、ということさ」


「キルケニーの猫のお話?」


「そう。君、店を開いてどれほどになるかな」


「半年……一年……いいえ、一年半よ」


「そう、一年半だ。けれど彼の店は、それよりもう何年も前からここの裏通りにあって、猫の酒場という愛称も定着しきっていた。それが突然、猫の居るハーブ店だなどと二番煎じの看板を掲げる店が出てきたんだ。猫の居る店という専売特許がなくなって、小心者の店主はさぞ焦ったことだろうね」


「あぁ……」


 ここまで懇切丁寧に推理を披露されては、根が素直なオリヴィアのこと。反論の余地はなかった。彼女にベイルへの疑念が芽生えるのも当然の成り行きだろう。


 どちらからともなくカウンターにカップを置くと、彼が席を立つよりも先にオリヴィアはカウンターを飛び出した。


「先生。少しだけ、店番をお願いされてくださる?」


「帰ってきたら、もう一杯お茶を頂きたいね。それで手を打とう」


「ええ、いくらでも」


 頷くが早いか、オリヴィアは小花柄のプリントドレスを翻して店の外へと駆け出した。行き先は推理をするまでもなく明らかだ。


 冷たくなってつんと鼻につくハーブティーを飲み干しながら、コナーは再びドアベルが鳴る瞬間を待った。




 ◇ ◇ ◇




 後に黒猫を大事に抱えて戻ってきたオリヴィアは、開口一番、コナーにこう言った。


『あなた、教授や作家先生じゃなくて探偵になるべきだったのではないかしら』


 曰く。くだんの「ヘザー誘拐事件」にまつわることの全容は、一事が万事、彼の挙げ連ねた通りに起こされた騒動だった。


 酒場へ駆け込んだオリヴィアはコナーの推理を披露した上で、「ヘザーを無事に返してくだされば警察に訴えることはしませんわ」とベイルに告げた。気弱な店主は可哀相に、その一言で顔を真っ青に染め、慌てて店の奥から金属の籠を抱えてきたのだった。


 中で丸まった黒猫は、飼い主の心配も知らぬ風で、幸せそうにキャットニップを抱えて尻尾を振っていたと彼女は語った。ベイルはお詫びに、オリヴィアの店からキャットニップを優先的に買い取って、それで薬草酒を自家生産しようと約束した。


 そのときの興奮気味な様子を思い出して、彼はくっ、と笑いをこらえるように喉を鳴らす。オリヴィアは怪訝な視線を寄越してカウンター越しに尋ねた。


「それで、先生。今日は何をお求めかしら?」


 柔らかく響く声に促されて、彼はしくりと疼く胃の辺りを押さえる。


「どうにも胃の調子が悪くてね。まだ春だと言うのに暑くなってきたから、消化不良で食欲が落ちているようなんだ。食欲促進にいいと聞いたから、パセリをひと瓶頂けるかな」


「あら、パセリでしたら市場の方が、新鮮なものが手に入るのじゃありません?」


「ここのパセリでなければ、意味がないからね」


「この店を高く買ってくださっているようで光栄ですわ」


 恭しくこうべを垂れてから少し待つように伝えたオリヴィアは、カウンターを出て乾燥ハーブの並ぶ棚へ向かった。


 緩く頭の後ろで作ったシニヨンがよく見える。その首元から短く垂れた後れ毛が、窓から差す光にきらめいた。少しだけ赤みの強い金髪を、彼は密かに明け色の髪と呼んでいる。穏やかな笑顔で周りの人を照らし、胸がすく彼女の人柄にはぴったりの呼び名だろう。


 もちろん、それを本人に言ったことはないけれど。


 このような賛美でご機嫌取りをするような男だとは、間違っても思われたくはない。


「はい、半ファージングです」


 パセリの小瓶を紙袋にくるんで手渡される。コナーは財布から一ペニーの半分のファージング硬貨を取り出すと、引き替えに紙袋を受け取った。


 カウンターの奥から、なぁおと鳴く猫の声が聞こえる。つい先日、顔見知りから誘拐されたヘザーだが、その後も変わらず元気に日々を過ごしているようだ。それがわかっただけでも、今日の収穫は上々と言えるだろう。


 たかが猫さらい事件だと言う人間も居るだろうが、彼女たちのごく身近で起きた事件なのだ。変に心の傷になっていやしないかと気を揉んだコナーの懸念は、どうやらただの杞憂に終わったらしい。


 安堵の息をついて礼と別れを告げると、彼はドアベルを鳴らして、夕映えの帰路に踏み出した。





英国ではなんと20世紀半ばまで「魔女術禁止法」という嘘みたいな本当の法律が残ってたそうですよ。

文字通り、「魔法や呪術なんてものを使ったら違反やで」という法律。


具体的には人ではないもの(神、霊、悪魔など)に力を求める、未来を告げる、呪文を唱える、盗まれたモノを見つける、などなど。


嘘みたいな本当のオカルト法律や事件記事がいっぱいある近代英国の歴史は楽しいぞ!



……前置きが長くなりました、失礼しました。

『夢見る尖塔の都市のままならない人々』、1話目をご読了ありがとうございました。

本日からの4連休中に毎日1話ずつ投稿して、最終日に完結する形で更新していきます。

約32000字ほどになります。多分。

暫しオリヴィアたちのナンセンスな言葉遊びにお付き合い頂けましたら幸いです。

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