浅草の北にある遊廓、新吉原へ
ハルは、「では行きますよ!」と言うと、動揺している辰之進の手を引いてすぐにその場を離れた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
慌てる辰之進であったが、ハルは有無を言わさずドンドンと進んでいく。
「あまり時間がないのです!」
吉原の昼見世が始まる前に着かなければならない。
暗くなる前に終わらせるとしたら一刻の猶予も無いのだ。
暗くなってしまうとわたしが怖いのです!
困惑する辰之進を急き立てながら浅草橋の船宿までやって来た。
「おハルちゃん、鶴吉さんに吉原には関わらない様にと言われていたのでは?」
勝手なことをすると怒られてしまいますよ、と。
わたしのことを心配してくれるのはとてもありがたいのですけども、もうこれしか無いのです。
「大丈夫です!わたしは中に入りませんので!」
辰之進を猪牙舟に押し込むとハルも乗り込み、
「吉原まで!急ぎで!」
お代ははずみますよ!と船頭さんを急かして出航する。
未だ困惑している辰之進を他所に、ハルは矢立と紙を出し舟の上で浅雪宛てに手紙を認め始めた。
その様子を見ていた辰之進は、
「わたしが吉原に行って、この手紙を浅雪さんにお渡しするのですか?」
「いえ、これから行くと、まだ吉原は昼見世前ですのでお客としては入れませんから、この手紙は他の人に頼みます。辰之進さまにはその後にお願いしますね」
ニコリ笑って答える。
山谷堀で下船して日本堤に着いた。
あそこに見えるのは有名な見返り柳だ。その角を曲がって衣紋坂を下れば吉原の大門になる。
吉原への入り口である五十間道に着いたのはまだ四ツ半(午前11時)位。午の刻(午後0時)まではまだ半刻はあった。
よし!間に合った!
吉原の遊女はお客さんが帰った後二度寝して、四つ(午前10時)位に起き、食事や入浴をして午の刻からの昼見世に備える。
その間の一刻(役2時間)程は自由時間になるので、買い物をしたり、手紙を書いたりしている。
当然、遊女は外に出て買い物をすることが出来ないから、小間物屋等が直接吉原に行くのだけど、その行商人の一人に知り合いがいる。
鶴吉姐さんがお得意さんの、薩摩の国分とか越後の大鹿葉とかいった、ちょっと高級な煙草を扱う行商人さんだ。家にもよく来ていた。
その人が吉原に行くのは大体この位の時刻に行くと聞いていたので、その人を吉原に入る前に捕まえて、浅雪姐さんに手紙を渡して貰う算段だったんですけれども……
「……昼間なのに、結構人手が多いですね……」
「……ここで人を探すには難儀するね……」
誤算だった。
てっきり昼見世前なんて行商人くらいしかいないものだとばかり……
日本堤の上は茶屋や屋台などが建ち並び、昼間でも人の往来が結構あった。
「わたし、吉原のことはお話しではよく聞くのですけど、来たのは初めてなものでして……」
「そうでしたか。わたしもここへ来たのは初めてですよ」
勢いだけでちゃんと考えず、行き当たりばったりに来てしまえば何とかなるだろうと考えていた自分の浅はかさに頭を抱えていると、
「おハルちゃん、そろそろちゃんと教えてくれませんか?何故そんなに急ぐ必要があるんです?」
昼見世が始まると何故駄目なのでしょうか?と。
そう言えばちゃんとお伝えしていなかったことを思い出し、「焦りすぎました……ごめんなさい」と、謝りながらこれからやることを説明した。
別に女でも吉原の中に入ることは出来る。
番所で木戸札、手形を発行してもらえれば出入りは可能だ。
だけど……
「姐さんに吉原とは関わるなって言われているので……」
わたしが直接入る事は出来ない。そのために手紙を用意したのだ。
浅雪姐さんからお借りしたい物がある。それもなるべく早くに。
辰之進さまにお願いして昼見世の時に格子越しにお手紙を渡してもらったとしたら、それをお借りするには姐さんが一旦お部屋に戻らなければならないだろうから、その場でお借りするのは無理だろう。
そうすると、お借りするのが早くて昼見世の後、更に遅くなって暮れ六つ(午後6時)の夜見世の時になってしまったら……外はもう真っ暗になっちゃう。
それは避けたい。
暗くなってからはやりたくないのよね……
「そんな訳でして、浅雪姐さんには昼見世が始まる前にお手紙を読んで頂いて、出来れば昼見世の間か、遅くとも昼見世が終わった後には、辰之進さまに浅雪姐さんからお借りしてきて頂きたいのです」
そう伝えると、辰之進さまが分かったような分からないような困ったお顔になってしまった。
……本当は一番確実な手としては、直接辰之進さまに浅雪姐さんのお座敷に上がってもらうことなんですけど……それならその場で済むって話しなのですが、それだとお座敷代云々というよりも、わたしが嫉妬で冷静でいられなくなると思うのよね……
うん!それは絶対ダメ!
そんなこんなでわたしも一緒になって困ってしまっていたら、
「あら、春蔵じゃないの。こんなとこで何してるんだい?」
五十間道から衣紋坂を上って来た年配のご夫人に声を掛けられた。丁度吉原から出てきたようだ。
「あ、お粂師匠!」
わたしの手習いのお師匠さまだった。
「お師匠さまこそ、こんなところで何をなさっているんですか?」
普段は深川で手習所をやっているはずだ。
聞けばなんでもお師匠さまのお師匠さまが体調を崩されてしまい、そのお師匠さまのかわりに吉原で禿達の出張教授をしていらのだそうで、その帰りだという。
「丁度良かった!」
詳しいことは省いて、「これを直ぐにでも浅雪姐さんに渡して頂きたいんです!」と無理やり押し付け、「やれやれ、今戻って来たばかりなんだけどね……」仕方ないね、と元来た坂を下ってもう一度吉原に行ってもらった。
ありがとうございます!助かりました!
そのまま辰之進さまと二人、衣紋坂の上で待っていると、午の刻を知らせる九つの鐘が鳴る頃にお粂師匠が戻って来た。
上手く手紙を渡せてもらえたらしく、浅雪姐さんはその場で読み終わると、「なら張見世で」とだけ伝えてほしいと言ったらしい。
「春蔵、お前さん何か変な事に首を突っ込んでいるんじゃあるまいね?」
お粂師匠が心配そうにそう言ってくれたのは、どうも最近吉原の様子がおかしいらしい。
「あたしもお師匠さんの代わりにここで教え始めて、そう経ってはないんだがね……」
正確には浅雪さんのいる遊女屋なのだけど、最近どうも楼主が変わってからというもの、嫌な空気になっているんだって。
教えてる禿達の中で、浅雪姐さんの禿達が特に挙動不審なのだと。
わたしの手紙を読んでいた時も、周りがピリピリしていて、浅雪姐さんも何か他に言いたげだったらしいのだけど、あの場では言うのを控えていた様だったらしい。
それを聞いてギックっとしたのだけど、まさか浅雪姐さんに殺人の嫌疑がかかってますから。なんてことは言えないので、「さぁ……どうしたんでしょうね?」笑って誤魔化すしかなかった。
「まぁいいけどね。それより春蔵、お前さん、最近手習いに来てないだろ?」
はい。最近忙しくって……すみません。
「さっき、お前さんが書いた手紙をチラッと見たが、ありゃ酷い字だったよ」
あたしはもう恥ずかしくって恥ずかしくって……と。
いや、お師匠さま、あれは揺れてる船の上でしたので……と弁解するも聞いてはくれず、
「あたしは今こっちに来てて忙しいけど、代わりに娘がやってるからちゃんと手習いに来るように!そもそもお前さんは前から……」
そのままお小言が始まってしまった。
チラリと辰之進さまを見ると必死に笑いを堪えていらっしゃる。
お師匠さま!ここで出会えたのは大変助かりましたし、とてもありがたかったのですけど、辰之進さまの前で恥ずかしいです!勘弁して下さい!




