第51話 転移者と現世の記憶
突然、魔法少女の戦いが目の前から消えて、大和は混乱した。
疑問は山ほどあるのに、頭がうまく回らない。
ここは大和の勤めている会社のオフィス。一番戻りたくない場所に、なんの前触れもなく戻されて、理解が追いつくはずもなかった。
『なんで……!? どうして、俺はここにいるんだ……!?』
そして、そんなことを考え始めた矢先に、背後から呼び掛けられる。
『お前は、一体何をやっているんだ』
ぞっとする、大嫌いな声色だ。
おぞましいほどの怖気が、全身を支配する。腕中の鳥肌が立った。
かつての恐怖が背筋を這い上ってくる。
『う、ぁ……』
まさか、そんな、ありえない。
声が出てこない。
喉が詰まって、うまく息ができなくなる。
『こっちを見て話をせんか、鳥居ッ!』
感情のままに怒鳴った相手のことは、誰よりもよく知っていた。
すぐそばに一人の男が立っていた。
まるで顔を墨汁をぶちまけたように黒く染めていたが、誰かはすぐに分かる。勤めている会社の、心底嫌いな高齢の上司だ。
『どうして、ここに……』
『どうしてだと? どうして、そんなこともわからないんだ?』
よほど怒らせてしまったのか白髪の上司は、ひどい形相だ。
『お前が休んだせいで、どれだけの人間に迷惑がかかったと思っているんだ』
『い、いや……それは、その……』
恐ろしい気持ちを抱きながら、弁明しようとした。
だが言い訳を断じて許さない。
『鳥居。お前のようなやつが会社にいられるのは、誰のおかげだと思っているんだ。言ってみろ』
『…………』
言いかえせなかった。
何を言っても、無駄だと分かっていた。
勤めている他の人間の顔も、二人から視線を逸らしている。入社したときに仲良くなった人間は、もうみんな辞めてしまった。ここに仲間は一人もいない。
職場がしんと静まり返っている。
汗が額から流れ落ちる。
空気を取り入れる肺が、どんどん痛くなってくる。
『鳥居。仕事をやらずに、スマホゲームに没頭するのは楽しかったか?』
『え……っ』
視線を持ち上げた大和は、思わず顔を上げた。
自分が、ゲームをプレイしていることは、職場では誰も知らないはずなのに、上司は言い当ててみせた。
『自分が舞台に上がれて、さぞ気持ちよかっただろう。上等な人間になれたと本気で思っていたのか?』
大和のことを理解していた。
何もかも知って、そのうえで見下していることを知って、絶望が深まっていく。
それを否定されたら、心が折れる。
最も嫌いな相手は、一番大事なものを踏みにじろうとしていた。
『哀れなことだ。何の役にも立てない、お前らしい妄想だよ』
たったの一言で、心の支柱は崩れてしまう。
無限に落下していくような、ひどい崩落感を感じていた。
『お前のせいで、平和に終わるはずだった物語が、めちゃくちゃだ』
顔を近づけて迫ってくる上司を前に、大和は椅子から転げ落ちた。
『一体、この先どうするつもりなんだ?』
尻をつき、後ろ手で体を支える。
逆らえない――本能が抵抗を拒否している。
『あ……ああっ』
言われれば言われるほどに、その通りだと思ってしまった。
役に立ったのはゲームの知識で、大和ではない。所詮は、場を引っ掻き回して、自己満足に耽っていただけだ。
そして、収拾はいまだついていない。
このままでは、心の中の何かが壊れてしまう。
大切にしていたものが粉々に砕けて、二度ともとに戻らなくなる。
腕が動かない。肌が痛い。
『ちゃんと言わないとお前は分からないか』
『い、嫌だ……』
『誰も口に出していないだけで――』
大和の制止は、意味がなかった。
『お前がお荷物だって、みんな思っているんだよ』
頬にそっと、上司のしわがれた手が触れた。
全員の影が大和を見ていた。
大和は、その言葉を、認めてしまった。
現実でも、ゲームの世界でも、何の役にも立てていなかったと。
そう、思ってしまった。
『俺は、誰の役にも……』
頭がおかしくなりそうになる。
そんな大和の手元には、拾った黒の能面があった。
遠巻きに見る黒い同僚と、今も距離を詰めて迫ってくる上司がいる。
その嘲笑と哀れむ視線から、一刻も早く逃れたい。
そう思ってしまった。
『辛いでしょう、苦しいでしょう』
妖艶な声が、心に滑り込んでくる。
いったい誰のものかはわからない。
しかし、耳に残る音が心地よかった。
『さあ、身につけなさい。楽になれるわ』
俯いて、黒い能面を見つめた。
ずっと同じ想いは抱いていた。
この世界に来る前も、来てからも、自分は変われなかった。劣等感だらけの人生だ。
自分なんて、いないほうがいい――と。
そう思ってしまった。
「だめですっ!!」
聞き慣れた、大好きだったはずの声は、耳に入ってこなかった。
手にした仮面が妖しい魔力を放っていることも、魔法の才能がない大和は、見抜くことができない。
今の顔は、誰にも見られたくない。
だから無意識に、仮面を顔につけてしまった。
「すぐに外して、くださいっ……ひっ!?」
走り寄ろうとしていた純連は、間に合わなかった。
黒い感情が、魔法が発動した仮面の淵から、どろりと溢れ出してくる。
黒い粘性の液体が、大和の全身を包み込んでいった。
自分が、少しずつ怪物の姿に変えられていくが、そのことに気づかない。
すでに、大和は心を閉ざして、何もかもを拒絶していた。
――どこか遠くの部屋で、水晶越しに様子を伺っていた存在がいた。
「魔法少女。あなたたちが調子付くのもここまで。勝利の鍵は、この手に落ちてきた」
手をかざした、ガラス球の中に、慌て始めた魔法少女達がうつされている。
月明かりが差し込む窓の向こうに視線を向けると、ビル群の中で膨れ上がっていく、黒色の巨人が見えた。
「妾が忌々しい運命を壊してみせましょう」
膝に黒狐を侍らせた妖艶な女性は、ほくそ笑んだ。




