I wanna dance with you.
歩いている。
わたしは今、歩いている。どこを?と訊かれると、口を噤んでしまう。どこかは、わからない。
視界は柔らかな藤色に満ちている。足元の感触は不確かで、聴こえる音は不明瞭な話し声だけだ。心地いい。ずっとこのまま歩いていたい。
そんなわたしの心情を無視して、突然、世界は一転し、一変する。鮮やかな橙が視界を支配する。
わたしは立っていた。わたしと彼以外は誰もいない場所に。差し込む橙が妙に眩しい。
わたしは彼と会話している。彼はわたしを見て微笑んでいる。その視線はたしかな熱量を帯びている。
ーーーいったい、何度夢見た光景か。
夢、これは夢だ、とわたしは気づく。
足元にぽっかり穴が空いた。真っ黒な世界が顔をだす。
夢を夢だと気づいた瞬間、わたしは落ちていく。
色の濁流に飲み込まれた曖昧な意識の最中。わたしは、どこかで聴いたことのある曲が聴こえたような気がした。
ーーーI wanna dance with you…
今だけは、そんな明るい音楽なんか、聴きたくなかった。
…
大阪は中崎町の高架下にひっそりと佇む喫茶店、そこがわたしたちの「いつもの場所」だ。
木製の洒落たドアを開けた途端、土曜の晩に相応しい陽気なロックミュージックに迎え入れられる。
特等席に座ると、甘党のわたしはココアを注文し、どの党にも属さない彼はカフェラテを注文する。
今日で付き合って1ヶ月。だからと言って特別な何かがある訳でもない。そんな風に着飾らないこの関係と他でもない彼に、わたしは安心している。
ふと、BGMが聴き覚えのある曲に変わった。
彼とわたし、目を合わせて、同時に口を開く。
「「ザ・サブウェイズの I Wanna Dance With You」」
大正解。
音楽オタクな彼とわたしの、密やかなゲーム。この店を「いつもの場所」に決めてからの、恒例だ。
しばし微笑みをかわしあったのち、元来無口な彼は、慎重に喋り始める。
「サブウェイズ、よく聴いてた。高校のとき」
かく言うわたしも、よく聴いていた。わたしと彼の趣味は、結構似ている。
イギリス出身の3ピースのバンドで、どの曲も華やかなコーラスが耳に残る。ギターボーカルの男とベースボーカルの女はカップルだったが、たしか破局し、今ではもうバンドも解散しているはずだ。
ふと、ある記憶が蘇る。
彼と結ばれる以前に見たあの夢。
薄れゆく意識のなかで聴こえた曲は、まさにこの曲だ。
手の届きようがない眩しい光景、皮肉のように流れる陽気なミュージックに、頬を伝ったものだけが、現実だった。
「あのね、君と付き合う前の話なんだけど、」
わたしのあの夢の話をひとしきり聞いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「じゃ、よかったね、」
正夢になって。
彼の大きな手がわたしの手を包み込む。
ぶつかる視線、彼の目は、たしかな熱量を帯びている。 正に、夢にまで見た光景だった。けれどきっと、もう、覚めることはない。
深い夜、手をゆるりと繋ぎながら歩く。足元の感触は確かで、聴こえるのはわたしたちの足音だけ。ずっとこのまま歩いていたい!
そんなわたしの心情を無視して、ふと、彼が立ち止まる。
「踊ってみる?」
真面目な彼がそんなことを言うのがおかしい。おかしくて、大好きだ。
「踊ろうよ」
言い返して、 彼の手の先、わたしはくるりと一回転する。この瞬間、全てが報われたような気がした。
I wanna Dance With You.
わたしたちは覚めることのない現実のなか、2人で踊る。
陽気で皮肉なミュージックに祝福されながら。




