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I wanna dance with you.

作者: にゃー
掲載日:2019/09/17


歩いている。


わたしは今、歩いている。どこを?と訊かれると、口を噤んでしまう。どこかは、わからない。


視界は柔らかな藤色に満ちている。足元の感触は不確かで、聴こえる音は不明瞭な話し声だけだ。心地いい。ずっとこのまま歩いていたい。


そんなわたしの心情を無視して、突然、世界は一転し、一変する。鮮やかな橙が視界を支配する。


わたしは立っていた。わたしと彼以外は誰もいない場所に。差し込む橙が妙に眩しい。

わたしは彼と会話している。彼はわたしを見て微笑んでいる。その視線はたしかな熱量を帯びている。


ーーーいったい、何度夢見た光景か。


夢、これは夢だ、とわたしは気づく。

足元にぽっかり穴が空いた。真っ黒な世界が顔をだす。

夢を夢だと気づいた瞬間、わたしは落ちていく。

色の濁流に飲み込まれた曖昧な意識の最中。わたしは、どこかで聴いたことのある曲が聴こえたような気がした。


ーーーI wanna dance with you…


今だけは、そんな明るい音楽なんか、聴きたくなかった。


…


大阪は中崎町の高架下にひっそりと佇む喫茶店、そこがわたしたちの「いつもの場所」だ。

木製の洒落たドアを開けた途端、土曜の晩に相応しい陽気なロックミュージックに迎え入れられる。

特等席に座ると、甘党のわたしはココアを注文し、どの党にも属さない彼はカフェラテを注文する。

今日で付き合って1ヶ月。だからと言って特別な何かがある訳でもない。そんな風に着飾らないこの関係と他でもない彼に、わたしは安心している。

ふと、BGMが聴き覚えのある曲に変わった。

彼とわたし、目を合わせて、同時に口を開く。

「「ザ・サブウェイズの I Wanna Dance With You」」


大正解。


音楽オタクな彼とわたしの、密やかなゲーム。この店を「いつもの場所」に決めてからの、恒例だ。

しばし微笑みをかわしあったのち、元来無口な彼は、慎重に喋り始める。

「サブウェイズ、よく聴いてた。高校のとき」

かく言うわたしも、よく聴いていた。わたしと彼の趣味は、結構似ている。

イギリス出身の3ピースのバンドで、どの曲も華やかなコーラスが耳に残る。ギターボーカルの男とベースボーカルの女はカップルだったが、たしか破局し、今ではもうバンドも解散しているはずだ。


ふと、ある記憶が蘇る。

彼と結ばれる以前に見たあの夢。

薄れゆく意識のなかで聴こえた曲は、まさにこの曲だ。

手の届きようがない眩しい光景、皮肉のように流れる陽気なミュージックに、頬を伝ったものだけが、現実だった。


「あのね、君と付き合う前の話なんだけど、」


わたしのあの夢の話をひとしきり聞いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。


「じゃ、よかったね、」


正夢になって。


彼の大きな手がわたしの手を包み込む。

ぶつかる視線、彼の目は、たしかな熱量を帯びている。 正に、夢にまで見た光景だった。けれどきっと、もう、覚めることはない。


深い夜、手をゆるりと繋ぎながら歩く。足元の感触は確かで、聴こえるのはわたしたちの足音だけ。ずっとこのまま歩いていたい!


そんなわたしの心情を無視して、ふと、彼が立ち止まる。

「踊ってみる?」

真面目な彼がそんなことを言うのがおかしい。おかしくて、大好きだ。

「踊ろうよ」

言い返して、 彼の手の先、わたしはくるりと一回転する。この瞬間、全てが報われたような気がした。

I wanna Dance With You.

わたしたちは覚めることのない現実のなか、2人で踊る。


陽気で皮肉なミュージックに祝福されながら。


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