★第3話★
「そうか、すでに決まってしまったのなら、それはそれで仕方がない。私からはもう何も言うまい……。それでは、改めてこの大役をA君に任せることにしよう……」
室長はそこで一旦間を起き、彼女の方に何故か冷たい視線を向けた。この人はいつも物事を大袈裟に伝えることにより、自分の部下を必要以上に脅かす悪癖がある。彼はさらに声に凄みを増して、演説を続けた。
「だが、A君、今日のこのイベントは、この場にいる誰にとっても、本当に重大なことなんだと覚悟しておいてくれ。賓客の身に万が一のことが起こったのなら、例え、この私でも、もちろん、この病院の他のどのスタッフでも、君をフォローしたりは出来ない。もし、皇太子様のお身体に必要以上の傷をつけてしまうようなことになれば、言うまでもなく、君には凄惨な罰を受けてもらうことになるだろう。当然、最初は我が国の警察機関からの厳しい聴取を受けることになる。そこで、皇太子様のお怪我が、君の治療行為によるものであることが明確になれば、そのまま、アジャラ皇国に強制連行されることになる……」
「そうですか……、でも、私も一人の誇りある医療従事者です。それは覚悟の上です……」
Aさんはうつむいたまま、蚊の鳴くような声で、何とか平静を保ちつつ、そう返事をした。本当をいえば、こんな無慈悲な展開には全く納得がいかなかったが、ここまできてしまったからには、もはや、上司の命令は絶対であり、従う他なかった。ついに、一大イベント待ったなし。後戻りのない所へ来てしまったのだ。室長は足音も立てずに、ゆっくりと半歩近づいてきて、彼女の顔を下から覗き込み、まるで、梟のようなとがった目で睨みつけながら、その吐息が届くほどの距離を保ちつつ話を続けた。
「覚悟などという言葉を使ったようだが、本当にそれでいいのかね? 他国に連行されるようなことになれば、当然マスコミ各社も異常な事態があったのだと察知し、これは一大事だと、蜂の巣を突いたような、バカ騒ぎを引き起こすことになる。周知の通り、重大な外交問題においては、個人のプライバシーなど、カスのようなものさ。『テレビや新聞に個人データまで晒すのはさすがに可哀想』などという、人情も同情も、今回ばかりはまったく働かないだろう。我々は今回の大失態により、冷徹な文明社会のしきたりを再び思い知らされることになる。これからしばらくは、毎晩のように、君の顔写真がテレビに大写しにされることになる。友人知人はど派手に晒されている君を見て、どう思うのかな? 大手新聞の一面は、数週間にわたり、君の大失態の話題で持ちきりだ。親族たちはあまりのショックで泣き崩れるだろう。自分の近しい親戚が、我が国の歴史上、過去に例を見ないほどの大犯罪者となってしまうわけだからね」
「えっと、そうしますと……、私の採血業務に何か不手際があった場合、海の向こうで裁判を受けることになってしまうのですか? それで……、いったい、どのくらいの刑期で、自分の国に戻れるのでしょう?」
Aさんは微かな希望にすがりたくて、消え去りそうな声でそう尋ねてみた。悪鬼のような上司から、希望ある返事が戻ってくるなどとは露ほども思っていないのだが。
「どのくらいで戻れる? いつ戻れるか、という意味かな? なんて、不毛な質問だ! それは、あのような大国が自国の王族に恥をかかせた重罪犯を、しかと取り調べた後で、それでもなお、『お疲れ様でした。お帰りはこちら』と、ご丁寧に船に乗せて、本国まで送り返してくれると、そういうことかね? 残念ながら、そんな友好的な展開はありえないよ。もし、今日の勤務に失敗したなら、君はアジャラ皇国に強制連行された後、自分の家に五体満足で戻ってこられる確率はゼロに等しいと思っておいた方がいい……」
室長は腕組みをしたまま、大型の機具の並べられた、狭苦しい部屋の中を、白い床を踏みしめながら、ゆっくりと円を描くように動きまわり、悪魔のようなささやき声でそう呟いた。
「ここに来て、そんな悠長なセリフが出てくるようでは、君はまだ、この任務の重要性を認識できていないようだな。今日のこのイベントは、我が国の大統領の進退さえもかかってくるほど重要なものだ。万が一、隣国の首脳の機嫌を損ねてしまったなら、多くの謝罪を重ねたとしても、容易には償えず、賠償する、しないの壮大なドタバタ劇を演じたあげく、結局のところ、内閣の総辞職は避けられない。もっと言えば、君のような一般のナースの命など、大風に吹き飛ばされる蟻のごとしだ……。責任を負わされる君には、幾分同情はするが、アジャラ公国での裁判にかけられた後は、それはもう筆舌に尽くし難い、厳しく残忍な拷問を受けることになるだろう……。かの国の王族連中は、一般の人間とは命の重さがまるで違う……。少なくとも、隣国の一般常識では、遠い昔からそうなっている。かの国では、庶民は目上の人間との会話は許されず、土下座という言葉しか知らない。例え、わざとでは無きにしろ、皇太子様のお身体に傷を負わせるということは、かの国の民衆にとっては、それほど重大なことなんだ。相手側にしても、怒りに任せて君を捕らえて、そのまま、燃えたぎる鉄鋼炉にでも放り込み、即日処刑にしてしまうことは簡単だよ。我が国の首脳も、その申し出を受ければ、わざわざ、苦しい反論を述べてまで、やめさせたりはしないだろう。かの国の為すことに下手に反発などして、ただでさえ微妙な両国の関係を、これ以上悪化させることはできないからね……。『ことの全ては、そのナース個人の責任です。この一件で貴国の主張に反駁するつもりは一切ありません。好きなように処分してください』と、むしろ残虐な拷問に好意的な声明を発表するくらいさね。君が天に召されることで、全てが解決されるのなら、国家としては、もちろんそれでいい。しかしね、皇国の側の国民としては、犯罪者を単純に殺したところで、決して満足はできないんだよ……。君の失態にはいっさいの悪気は無いわけだが、詳細を知らされない隣国の大衆は怒り狂うだろう。大勢の群衆が激昂と屈辱の前で我を忘れ、謝罪を求め、顔を真っ赤にして、大使館の周りを取り囲み、まるで紛争のような抗議のデモを執拗に繰り返すだろう。皇太子様を傷つけられた恨みを、たった一人の医療従事者の命と引き換えになぞ、到底できないわけだ……。君はどうあれ、最終的には死ぬことになるだろうが、そんな簡単には、あの世には行けない。これ以上ない、屈辱と痛みを味わうことになるだろう……」
室長はまるでそうなることを望んでいるかのように、口に手の甲を押しあてて、くっくっく……と、それこそ悪鬼のように低く笑ったのだった。
「蛇だよ……、まず手始めに、乱暴に服を脱がされた君は、ざらっとした蛇皮の鞭で、背後から、何十発も手ひどく叩かれるわけだ……。向こうの国では、相手が世間知らずの乙女だろうが、汚れを知らぬ巫女さんだろうが、拷問に際して、いっさいの甘えなどない。どんなに悲鳴をあげても、それによる躊躇などは、いささかも生まれない。君が堪えきるようなら、より殺傷力の高い、鋼鉄製の鞭を取り出すだろうからね。軽く二三発叩かれただけで、その白い肌からは、みるみる鮮血が噴き出すだろう……。果たして、どれほど耐え切れるものかな……?」
当事者の新人ナースは唇を噛み、息を殺して恐怖に耐えながら、その話を聞いていた。
「『おまえは最初から皇太子様を害するつもりで、この仕事を引き受けたんだろう!』
『おまえはきっと、よその国から紛れ込んだスパイだ!』
複数の執行官が、そう叫びながら、半ばムキになって、全力で君の背中や尻を叩きまくってくるぞ……。鞭を用いた残酷な刑が終わったら、次はラクダの尻尾にでも縛り付けられて、広大な砂漠を一晩中引きずりまわされるかもしれないな。何千匹もの猛毒のサソリが詰められている陶器の瓶の中に、頭から放り込まれるかもしれない……。アジャラ皇国の刑罰は軍事大国の中でも、特に残忍なことで有名だ。国連からはやり過ぎだと、非難さえ浴びている。拷問は無知な犯罪者に寝る暇さえも与えない形で、何夜にも渡って繰り返される……。君が精魂尽き果て、完全に息絶えるまで、この世の地獄のような処罰は延々と続けられるのだ……」
室長はAさんを精神的に追い詰めるべく、このイベントが最悪な方向に進んだ場合を想定した、偏りまくった推論を繰り広げた。しかし、年端も行かぬ娘を、ただ脅すという行為にも、いくらか飽きてくると、何かを思い出したように突如背を向けて、見えぬ霊魂にでも呼ばれたかのように、何の糸間も告げずに検査室から出て行こうとするのだった。Aさんは後ろから足早に迫り、すがりつくように最大限の声を投げかけた。
「室長! せめて、皇太子様の年齢や外見上の特徴だけでも、事前に教えてはいただけませんか? それほど重要なお役目であるならば、せめて、要人がいつなんどき、ここを訪れるのか、だけでも知っておきたいんです……。誤ちを犯さぬよう、こちらの準備も万端でなければ……」
しかし、室長は振り向くこともなく、冷酷にこう言い放った。
「まあ、この仕事を引き受けたからには、成功か死か……、その覚悟を決めることだ……。他国の皇太子様の外見なぞ、この私だって知るわけもないし、知っていたとしても、それを君に教えることはできない。君の素性を信用することなど、できないからだ……。そう、君はこの病院の他のスタッフにまったく信用されていない。もし、名だたるベテランの看護婦が、不運のもとに手元を狂わせ、ミスを犯したなら、その責任は必ずしも個人だけのものとはいえず、我々上層部の人間にまで及ぶのかもしれない。だが、今回の一件で注射を担当するのは、一番若く頼りない君だ……。皇太子様がどんなに痛い思いをなされ、その顔を苦痛に歪められたとて、君一人の未熟な腕前に全ての責任を被せれば、我々幹部はそもそも無傷でいられるわけだ。有事の際は、君を即座に縛り上げ、そのまま警察に引き渡してしまえば、後はどうにでもなる……」
この南極の氷の如き冷酷な言葉には、これまで幾人もの若い看護婦たちを幹部の名の下に使い捨ててきた、残酷な上司の態度が見え隠れしていた。
「それでは、私はこれから病院内の幹部会議に参加してくる……。後のことはよろしく頼むよ」
室長はそう言い残して、Aさんにいっさいの温情をかけることなく、この話を打ち切り、血液検査室から出ていってしまった。
「あんた、こうなったからには、ちゃんと仕事しなさいよ! 失敗して泣いても、フォローなんて誰もしないからね」
「勘違いしちゃダメ! 言っておくけど、これは虐めじゃないよ。あんたが失敗して、皇太子様が怪我をするところなんて、私たちだって見たくないんだからね!」
室長の後ろ姿がこの部屋から出て行くところを、居合わせた各々がその目で確認すると、先輩の看護婦たちの口からは堰を切ったように聞き苦しい罵詈雑言が飛んできた。Aさんはまったく味方のいない厳しい状況を前にして、再び失望して、すっかり脱力してしまい、椅子の上にへなへなと座り込んだ。
誰もが知るように、どれだけ未来に悲観しても、時間は止まってくれない。ただ、時計の針の進みが余計に早く感じることはある。室長のおよそ不要とも思える談話から、約5分が経ったころ、廊下をひたひたと歩んでくる足音が、確かに聞こえて、40代後半と思える中年の夫婦が姿を現した。気品のある振る舞いにより、中睦まじく腕を組んでいた。男性は立派な紺のスーツに蒼く光るネクタイを締め、女性は上品な灰色のブレザーを着こんでいた。Aさんはその品の良いたたずまいを見て、いよいよその時が来たかと身構えた。自分が想像していた年齢よりは、かなり上だが、まず間違いはないだろう……。そう判断を下したのは、これまで見てきた、どんな患者よりも、その夫婦の立ち居振る舞いには、上流階級特有の気品と威厳と落ち着きを感じたからだった。
「こんにちは、採血をお願いできますか? 実を言いますと、数年ぶりの健康診断なんです……」
まずは、女性が物腰の柔らかい口調でそう告げると、男性は同意を確認して、ゆっくりと採血室に踏み込んで来て、彼女の眼前の椅子にどっしりと腰をかけた。Aさんはその心中において、もうこの男性がアジャラ皇国の皇太子様であると、そう結論を下してしまっても、まったく問題はなかろうと考えるようになっていた。しかし、この場面での浅慮はいずれ致命傷となる。一応の確認をとるために、先方になるべく不快感を与えぬ形で、軽い質問をしてみることにした。自分は何の権限も持たない市井の人間ではあるが、素性を尋ねるという、そのくらいの行為は、こんな自分にも許されるのでは、と思った。
「あの……、すいません……、今日ははるばる海を越えて……、アジャラ皇国の方から、いらっしゃったと、そう考えてしまってもよろしいでしょうか……?」
「え、なぜ、そのことをご存じなんですか。実はその通りなんです……。まあ、本来なら自国で綿密な検査を受けるのが筋なんでしょうけど、周囲と相談した結果、簡易的な検査であれば、こちらの病院で受ける方が適切だと助言を受けましてね。移動に多少の時間はかかりますが、今日は家内を連れ添い、ほんの軽い旅行の気分で来たんですよ……」
男性はいくらか言葉を選びながら、丁寧な態度により、そう答えた。Aさんはその決定的なセリフを耳にしたことで、先ほど悪鬼のような室長と対面したときと同じ、激しい緊張感が再び蘇ってきた。間違いない……、間違いなく、このお二人は世界に名だたる要人なのだ……。我が国の首席などよりも、遥かに高貴な身分の方々だ……。右足が体勢を崩すほどに、ぶるぶると震えて、やがて、その震えは全身にまで及ぶようになった。おそらく、自分の後ろでは、先輩たちが陰険にほくそ笑みながら、この注目すべき事態の推移を眺めているであろうと、安易に想像できた。彼女の緊張と憤りはピークに達した。どうせ、自分の一連の検査の中で何が起きても、先輩方は助けてはくれないのだ。針が少しでもマイナスの方に振れれば、その瞬間から、見て見ぬふりをされてしまう。どんな悲惨な心理状態にあっても、この検査だけは何とか成功させる他はない。多少はお二人が不快になってしまっても、その後はどうとでもなれだ。さあ、集中しよう。いよいよ、自分の生死をかけた、一生で一度の大舞台がやってきたのだ。
「では、すいません……、まず腕の静脈を拝見しますね……」
Aさんはとにかく出発点を成功させることで、普段どおりのリズムに乗ろうと、男性の右腕をくまなく凝視したが、腕の表面を何度こすってみても血管はなかなか浮き出てこなかった。ただ、眼前に控えているのは、紛れもない皇族である。間違っても、焦りや苛立ちを表現してはならない。とにかく、平静にことを進ませねば……。しかし、このまま強引に突き進むには、余りに不安要素が大きい。自分が想像していた最悪のパターンに陥りつつあるのを、少しずつ感じながら、Aさんは震える声で言った。
「申し訳ありません……、左腕を見せてもらってもよろしいでしょうか?」
「ああ、いいですよ」
男性の声色には、まだこちらの焦りは伝わっていなかった。この程度のことはどこの病院でも起こりうるのだから。彼は半身になって左腕の袖を素早くまくって、テーブルの上に置いた。Aさんはやさしくその腕をさすりながら、血管を探したが、今度も赤い筋はなかなか見えてこなかった。ただ、先ほどよりは、うっすらと紫色の血管が肘の辺りに浮き出ているようには見えるのだった。
『どうしよう……、これまでの経験上、血管の位置が、これほどおぼろげでは、上手くいかないかもしれない……。かといって、相手は高貴なお方であるし、もう一度右腕を見せてくれとは、とても言えない……。自分の技量の悪さを端的に示すことになってしまう。この状況のままで針を刺してみるしかないか……』
Aさんはそう悲壮なる決意を固めた。周囲にいる他のスタッフが、まるで頼みにならない以上、少なからずリスクはあるが、思い切って、このまま進めてみるしかないと考えた。これから血を抜かれるのは自分ではないのに、その顔はみるみる青ざめ、貧血でも起こしたように目眩と偏頭痛に襲われ、急に気分が悪くなってきた。はっきり言って、嫌な予感がする……。どこからか、対戦車用の機関銃を携えた王族のSPが、こちらの行動の始終をうかがっているような気がする……。皇太子様が悲鳴をあげた瞬間に、私の身体は無残にも蜂の巣にされるかもしれない。
「では、アルコールを塗っていきますね……」
「ちょっと、すいません……、チクっとしますよ」
Aさんは採血管をセットして、細心の注意を払って、男性の腕に針を刺し込んでみた。しかし、予感の通り、血管の位置が微妙にずれていたのか、あるいは肉厚のために血管まで針がうまく届かないのか、注射針はまったく血を吸ってくれなかった。彼女は想像の中で、すでにギロチン台へと昇っていくエスカレーターに乗ってしまっっていた。『もう、止めるも引くも、何の対処もできない。どうしよう……』最大限の不安と恐怖と緊張を伴いながら、そういう思いが胸を突いたが、いくらかの逡巡の末、彼女はここでも強引に前に進むことを選んだ。しかし、運命の女神という存在は、俗人がこのような重大な二択の前に立たされたとき、往々にして残酷な決断を下すことが多いのだ。彼女がさらに針をぐっと奥に押しこむと、要人と思しき男性は「いたあい!」と甲高く叫んだ。
「ああ、ごめんなさい!」
彼女は明らかな大失態を悟り、涙目になりながら、そう謝罪し、それでも、なんとか採血を済ませて針を抜きとった。
「私ったら、なんていうことを! 本当にすいませんでした!」
そう謝罪するつもりだったらしいのだが、極度の緊張からくる、あまりの指の震えで採血管をテーブルの下に落としてしまった。こんなものでは済まない。運勢の悪い時には、なぜだろう、数珠つなぎに悪いことが続くもので、今度は勢い余って右足で採血管を豪快に踏みつぶし、割ってしまった。床には採取したての血液があふれだした。ご丁寧にも、この見苦しい有り様が起こるまで、ずっとこの様子を背後から見守っていてくれた先輩方は、我が意を得たりとばかりに駆け寄ってきて、『ついにやったわね!』とばかりに、彼女の右の頬を思いっきり引っ叩いた。Aさんはその反動で床に倒れ伏して、ついに泣き出してしまった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。今夜中に完結します。よろしくお願いします。