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隣国の皇太子  作者: つっちーfrom千葉
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★第2話★


 そんなとき、廊下を速足で歩いてくる靴音が響いてきた。だらしのない長髪に眼鏡をかけた太っちょの中年の男性患者が、その巨体を大きく揺らしてここに現れた。あちこち穴の空いた薄汚れたジーパンに、アニメキャラクターのイラストの入った、しわしわの安っぽい白のTシャツを着ている。外見から判断できる装飾品の数々は、都会のシャレた衣料品店まで行かなくとも、すべて場末にある安物専門の量販店で簡単に揃ってしまいそうだった。とても大国の王家に属する人には見えないのだ。世界中から敬意を払われる王族ということで、ある程度は人目をはばかる必要はあろうが、いくら何でも、1500円程度で全てが買えてしまいそうな、こんな安っぽい格好では来られないだろう。見たところ、警護も付いていないし、例え、付いていたところで、その表情や振る舞いに、あまりに品が無さすぎる。下層社会に属する、無趣味な人間特有の性質がはっきりと見て取れた。つまり、これは安パイである。そう楽観的に考えてみることで、新人ナースは少し気を落ち着けることができた。


「すいません、こちらは急いでいるので早めにお願いします」


 男性は少しの間を取られたことへの不快感を端的に示すために、意地悪く、低い声でそう呟くと、カルテを雑に手渡してきた。こんなにでぶっちょで、だらしのない外見の男性が、王族の血を引いている可能性は果たしてどの程度あるものだろうか? さっさと検査を終わらせて、冷たい対応により、院外へと追い払いたいところだが、的に命中している可能性がゼロでない以上は、ある程度は慎重になるべきか。『患者を外見で差別してはいけない』Aさんは一瞬抱いた悪い印象を吹き飛ばすことにした。カルテの中に記載されている名前と住所を、なるべく自然な態度で確認することにした。誰もがよく知っている見所のない田舎町から、ローカル電車を何本も乗り継いで、わざわざ来なさったらしい。名前も我が国特有のありふれたものであり、仮名の可能性は残ってはいたが、総合的に判断して、誰が陪審員席に座っても、とても王族と結論づけるのは難しかった。ここは求刑通りの判決を下しても良さそうであった。『間違いなく、ただの迷惑なだけの患者です』そう心中で言い渡した。これしきの判断にある程度の時間をかけてしまったことは悔やまれるが。


 Aさんがそんな迷いの中で、いくらか手を止めていると、その男性は強い口調で、「ちょっと、こちらは急いでいるんですよ。あなた、看護師なんでしょ、これしきのことで何を悩むんですか。早くしてもらえませんかね」などと、わざわざ、もう一度同じセリフを、今度はかなり速い口調で、しかも、怒気を含んで言い放ってきた。たった今、こんなデリカシーのない人間は要人ではあり得ない、と確信してしまったところだが、見方を少し変えると、この少し乱暴な物言いには、何処かしら威厳があるようにも思える。学生時代に何かしらの文献で目にして記憶に残っているのだが、中世の御世から、王族や大貴族といった人種は、幼少の頃から、周囲の誰からも、常に甘やかされる傾向にあり、他人への配慮や礼儀を、まったく身に付けずに成長してしまう不幸なケースもあるという。成人して実社会に出るに至っても、一般の良識を備えた社会人から見ると、無礼千万な振る舞いしか為すことが出来ない、協調性に欠ける人物に見えることも多いらしい。それに加えて、日々の生活においては、衝動が第一であり、節制など心がけることはなく、ろくな運動もせずに、一日中寝転んで過ごし、贅沢で怠慢で放銃な暮らしを、成長するまでの長期間にわたり続けているから、自然と腹や太腿には脂肪が溜まり、このような、若い女性の目からは見ったくもない、だらしのない体型になりがちなのではないか、とも思えるのだ。不遜な態度を取る、目の前のおデブちゃんが、実をいうと本物の皇太子様なのでは、という急に湧いてきた推測にも、ここに来て、一定以上の信憑性がありそうだ。


 そこで、彼女は万が一のことも考えて、この不遜なる態度の患者に対しても、なるべく丁寧な対応を心がけるようにした。『石橋は叩いて渡れ』乱暴に注射を終えてしまってから、『ふふふ、油断したようだな。今になって言おう。実はこの俺こそが隣国の皇太子なのさ』などと、本性を表されてはたまらない。隣国の王子に因縁をつけられたら、反論は許されない。王族相手に内心の自由などは認められない。やはり、いつも以上の警戒心が必要なのだろうか。もう一度、患者に視線を移そう。その男性は今も不機嫌そうな態度を崩さぬまま、右腕をテーブルの上にだらしなく投げ出し、注射を待ち構えていた。


「では、血管を探しますので、親指を中に入れて、ぐっと強く握ってくださいね」


 その太っちょの男性患者は、仕方なしに言われた通りにすると、腕の中ほどに青い血管が浮き出てきた。こういう肉厚の患者は静脈を探すことが難しい場合が多い。つまり、これは運が良い。すぐに探せたことにAさんはほっとした。かなり焦らされたが、どうやら、これ以上の恥をかかずに済みそうだ。


「アルコールを塗っても大丈夫ですか? はい、そうですか。では、ちょっとチクっとしますね」


 そのまま腕に針を刺しても、その男性は微動だにしなかった。顔を歪めることもなく、嫌がる反応も示さず、痛そうな素振りもまったく見せなかった。ああいう損な体型に生まれたものだから、社内の健康診断ではしょっちゅう引っかかり、こうした成人病系の再検査を受け慣れているのかもしれない。


 血液は何の問題もなく抜き取られ、注射針は速やかに引き抜かれ、傷口の上から絆創膏を貼られて、出血防止用のバンドを巻かれると、男性患者は先ほどまでの荒んだ気持ちも、少しは和らいだようで、一言軽いお礼を言って、荷物をよっこらせと右肩へと持ち上げると、悠々と検血室から出て行った。後ろから、『本当に隣国から海を渡ってきた、要人様ではないですよね?』と、素性を尋ねようかとさえ思ったものだが、寸前のところで思いとどまった。あの太っちょの陰険な男性が、自分の問いかけに対して何と答えようとも、その真偽を確かめる術はまったくないのだから。可能性はゼロではないが、今の患者は隣国の皇太子様ではないだろう。大国の王族の方ならば、もう少し、気持ちの余裕というか、言い方は悪いが、少しは贅沢に慣れきった偉ぶる態度が、そこかしこに見られるはずだ。洋画でよく見る皇族やマハラジャの気品ある振る舞いとは、入り口から出口まで全てが違っていたではないか。彼女はそう結論付けた。それはまた、しばらくは、このきわめて嫌な緊張状態を持続せねばならない、ということを意味していた。


 これで本日ここを訪れた患者は7人。普段の日の半分ほどしか患者が訪れていない。日によってある程度の偏りはあるにせよ、今日は不自然なほど少ない。やはり、特別な日ということで、当局から目に見えない形での何らかの調整が働いているのかもしれない。院の入り口において、それほど重症とは思われない訪問者を県庁から派遣されてきた、特殊部隊が片っ端から追っ払っているのかもしれない。王族が訪れる日に、病院内が一般の患者で溢れているのは、防犯上の面からもあまり良くはないだろう。ただ、本日これまでの検査で診た患者は、皆どこにでも居そうな人々ばかりで、王族らしき威厳を備えた人は未だに見えていなかった。見かけや振る舞いにおいて、判断の難しい患者が現れたら、どうしよう。それはナースAさんの大きな懸念の一つであった。


 ついに時計の針は正午を指した。時間の流れというものは、往々にして、精神を病んだ人の心を忘却という概念により、いくらかは救うものだ。この若いAさんの心にも、ようやく、普段の余裕が戻ってきた。そんなタイミングで、この採血室を管理している男性の室長が、少し慌てて、そして緊張の面持ちで入ってきた。


「みんな、すまんが、ちょっと集まってくれ」


 Aさんはそれを聞いて、少しばかりの心臓の高鳴りを覚えた。事態がついに動き始めたのかもしれない。しかし、落ち着きを装って、飲んでいたコーヒーのカップをテーブルに置いて、室長の近くまで歩み寄った。そのとき、検血室には全部で5名のスタッフが働いていた。皆仕事の手を一時休めて、いくらか、こわばった表情をしつつ集まってきた。室長はみんなの顔を一通り眺めてから、眉間に皺を寄せ、重々しい口調で話し始めた。


「たった今、アジャラ皇国の皇太子様が、この病院の敷地内に入られたという連絡があった」


 その冷徹な通告は、最近聴かされた、どんな性悪な言葉よりも、この若いナースの胸を動揺させた。彼女はもともと精神的に強いほうではない。病院の看護婦という、精神的に疲れる日々の生活も、自分を励ましながら、やっとこさ、こなしているのだ。今はもう、右脚がまたぶるぶると震えてきて、立っているのが精一杯だった。室長の態度はいつも通り冷徹そのものだった。彼女の動揺のことなど、いっさい、お構いなしとばかりに話を続けた。


「みんなも知っている通り、今日は隣国の皇太子様が御身ずからこの病院を訪れるという大きなイベントがあるわけだが、これはこの病院の歴史を大きく塗り変えるに留まらず、我が国の歴史書にもしかと記録され、七代後まで残されるほどの、とても光栄なイベントになるだろう。隣国ではあるが、アジャラ皇国と我が国には正式な国交もないし、これまで隣国の王族が我が国を訪れたことは、歴史的に見ても数えるほどしかない。それに加えて、客観的に見れば、相手方は遥かに大国である。我が国の領土を数秒で焦土に変えてしまうような、強力な核ミサイルも多数所有している。どうしたって、我が国の閣僚はその交渉にあたって、下手に出なければならない。先方の友好的な申し出を、むげに断るわけにはいかない。そもそもの国力で劣っているのだから、兎にも角にも敬意を示さなければならない。石油の備蓄量だけを見ても、我が国のざっと10倍はある。軍事力もまた然りだ。つまり、今回の王族の訪問は遊説などではない。両国の今後を占う上で、実にデリケートな問題を含んでいる。世界中の経済が不安定なこの時期にあって、むざむざ大国の機嫌を損ねるわけにはいかない。アジャラ皇国で皇太子様のお帰りをお待ちになっている、公王夫妻も、こちら側に何らかの手抜かりはないだろうかと、かなり気を揉んでおられるということだ。我が国の大統領も官邸にこもって、これからこの病院で行われる検査の詳細な報告を逐一受けている。うちの病院の不手際により、皇太子さまが不機嫌になられるような事態は、断じてあってはならない。検査の途中で怪我をさせるなど、もってのほかだ。病院の関係者は皆全力を投じて、今日この日を乗り切らねばならない。特にこの部署は皇太子様の腕に直接注射針を刺すということになるため、関係者は皆、非常に神経を尖らせている。当局も何か事故があるとすれば、おそらくは、この採血室だと思っているだろう。アジャラ皇国内部でも王族の身体に直接触れることが出来るのは、医療従事者の中にあっても、本当に限られた人間だけだ。例えば、大学病院から招かれるような、皇族専門の特別な医師だけだろう。我が国でこれから行われる検査において、皇太子様のお相手をするスタッフは、いったい、どんな人間なのか。本当に皇太子様の腕に触れられるほど品位があり、優れたスタッフなのか、ど素人や前科者や酔っ払いやテロリストである可能性はないのかと、関係省庁からもしつこく何度となく問い合わせの連絡が入っている」


 室長はそこで一度話を切って、皆の顔をもう一度見回した。普段から冷酷極まりないその表情は、ここに来て、さらに厳しさを増しているように思えた。この若いAさんはもう恐ろしくて、心臓が凍えて、自分がすでに失態を犯したかのような気がして、室長と目を合わせることすら出来なかった。


「ところで……、一つ尋ねるが、今日、皇太子様のお相手をするのは、この中の誰なのかね?」


 当事者のAさんはプレッシャーに耐えかね、『体調が悪くて、激しいめまいがするので、これから皇太子様のお相手をするのはとても無理です。今すぐ家に帰らせてください。今日の分の賃金は要りませんので』と訴えたくなったが、彼女にそんな逃げのセリフを言わせる間も与えず、正面に立っていた先輩の看護婦がわざわざ一歩前に進み出て、偉ぶった態度で話し始めた。


「室長、ご心配には及びません。担当者はすでに決まっています。先ほどみんなで話し合いまして、(ここで若いナースを指さして)このAさんが皇太子様のお相手をすることが満場一致で決まったのです」


 室長はそれを聞くと表情は険しくなり、顎に手を当てて、少しの間考え込んだ。


「うむむ……、よりにもよって、若手のA君か……、本当に大丈夫かな? これは極めて重大な使命なんだぞ」


 若いナースは先輩の意地悪に耐えかね、弁解をしようとしたが、それを制するかのように、先輩の看護婦はさらに話を続けた。


「ええ、もちろん、私たちもそのことは承知しています。当初は、私たちのような経験豊富なベテラン看護婦の中から、その重責を担うスタッフを決めようとしていたのです。しかしですね、そこで、このAさんが横入りしてきまして、何故か、でしゃばったような態度で、ぜひ、自分にやらせて欲しいと、先輩や室長に恥をかかせるような失態は絶対に起こさないから、ぜひ、自分にやらせて欲しいと訴えてきたんです。私たちとしても、最初はもちろん躊躇しましたけれど、あれだけ臆面もなく強く出るからには、それはもう、失敗した時の責任の取り方も、当然のごとく知っているんでしょうし、彼女に任せてみることにしたんです」


 むしろ、気に食わない人間への個人攻撃が趣味なのではないかとさえ思われるような嘘が次々に並べられた。怒りと屈辱で、Aさんは顔が真っ赤になった。ただ、この部屋には残念ながら、自分の味方になるスタッフは一人もおらず、反論しても、これだけ多くの先輩が敵方として揃っているので、何を申し立てても言い負けるに決まっている。ここは無言で下を向き、全てを我慢する他はなかった。室長は先輩看護婦たちの、ほぼ全てが嘘で塗り固められた報告を聞いて、腕組みをして、何を思っているのか、しばらくの間、唸っていたが、やがて、何事かを諦めたかのように話し始めた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。今日中に完結します。よろしくお願いします。

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