色々と間違った文化
安らぎを求めて俺はこの湖の温泉で寛いでいたはずだった。
だが、今は冷水風呂に浸かっている時のように凍えるほどに身体が硬直して、身体中に張り付くような緊張で変な汗が身体中から吹き出していた。
「あ、あの……。
どうして、サラさんがこちらに?
しかも、そのようなお姿で……」
異世界エリアス王国と日本の外交を繋ぐ重要なキーカードとしてここに派遣されたダークエルフの女性サラさんは、事もあろうに裸にタオル一枚だけを巻いて隠すというあられもない姿で、俺の右隣に腰掛けて温泉に浸かっていた。
手を横に伸ばせば、簡単に届きそうな近距離に彼女はいて、それほど間近な位置にいるからか、何だろうか、女性特有の仄かないい香りが山麓の微風と共に流されて、俺の鼻腔を優しくくすぐっていた。
桃源郷の白桃の木の馨しい花の香りがサラさんの身体中から漂っていて、俺は思わずその香りの出処と本質を調べたくなって、その芳香に誘われるように俺は無意識に目線をそっと彼女の身体に向けてしまった。
俺の目に映ったのは、ダークエルフの特徴的な小麦色の肌。
そして、男の鼻息を荒く立てる女性の塑像の彫刻の如き芸術的に彫られた艶めかしい鎖骨のライン。
鎖骨の綺麗なT字のラインを綴るように視線を下へとゆっくりと動かせば、既にそこは桃源郷であった。
それは隆々と聳える2つのチョコーレートケーキの峰のようで、覗くだけでもその優しい砂糖の魅惑的な甘さが伝わってきて、峰の谷間からはまろやかなチョコレートの香りがふわふわと漂ってきそうであった。
だが、それは決してスイーツのユートピアでも、女神の最高美を模した像でもない。
男のぎらついた眼差しに気づき、兎の長耳のようにぴくぴくと体を動かし、肩まで震わせて、顔を真っ赤に染めながら羞恥にじっと耐える貧弱で難儀な乙女であった。
そのか弱で憐れな姿に俺ははっと、理性を引き戻されて自分が今現在している事に気づいた。
誰もいないからと、油断してタオルも持ってこなかった故に、大事な前を隠す為の布がない状態で、俺はすぐさま慌てて、其の場凌ぎながら両手で前を覆い隠した。
そして、ザーと荒波と水飛沫を立てながら勢い良く水面から出て、「すみません!」とサラさんに頭を下げながら大きな声でそう言って、来た時と同じように俺はジャバジャバと駆け足で湖から後ろ近くの陸へと急いだ。
正常になっていたはずの頭の中はめちゃくちゃにこんがらがっていて、何も考えずただ陸に上がる事だけを考えていた。
そんな時……
「あの、待ってください!!」
ザーと水面から上がる音と共に、サラさんは徒ならぬ焦燥した声音で俺を呼んだ。
その声に俺は思わず体をびくっと震わせて、急いでいてぎこちなく駆けていた足をぴたっと止めた。
みっともない姿を見られたという羞恥心よりも、背中に重くのしかかる彼女の肉薄した声とどす黒い後悔の膜が俺の心を異様で、歪な形へと変化させていた。
それが俺にはよっぽど深刻な事に感じて、俺はそれらに対してまともな状態で接する為に、戦いから一時退却するように俺は陸へと今度は、悠長に歩き、やがて陸地に立つと手前にあった紙袋の中に入っていたタオルを取り出し、それを腰に巻いて、余った分の布は結んで取れないようにした。
(よし。)
色んな心の整理がついたことを確認すると、再び俺は悠然と陸を渡り、サラさんのいる水面の方へと堂々と闊歩した。
たかだか布1枚が、俺には鉄よりも硬い鉛玉さえ弾いてしまうような頑強な鎧のように感じて、それが自分のためにもサラさんのためにも必要なものであると考えた。
急に大きくなった態度(ただ、目線だけは遠くの白峰だけに向けていたが)で俺は戸惑い気味のサラさんにもう一度低い声で問うた。
「どうして、こちらに?」
すると、サラさんは少し早口でただ、依然バスタオルで前だけは見えないように隠しながら、慌てて答えた。
「そ、その四月一日さんと、お話がしたかったからです。」
「この格好でおはなしですか?」
「はい。
日本の温泉文化には古来より裸の付き合いというものがある、とお聞きました。
エリアス王国の臣民であり、外交官という立場の私としても日本の文化は前向きに受け入れ、全て取り入れていくつもりです。
ですから、四月一日さん。
どうか、これも文化交流の一環として捉えては頂けないでしょうか?」
お互い白布一枚だけの格好。
峰の山頂にかかる白妙を剥ぎ取った男とダークエルフの女は対峙する。
そして、その女の切実な心の叫びが静寂たる鉄紺色の水面に人知れず反響していた。
俺はその様子にぼけーと間抜けな顔を浮かべ、思考どころか感情すら停止して、いや寧ろサラさんの突飛で意外すぎる発言にどっと肩を崩して、先ほどまでの堂々たる態度はすっかり薄れてしまっていた。
ただただ、俺は彼女のその頼みに「はい!」と快く即答するほど柔軟で、適切な判断力は欠いていたのだった。




