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異世界の温泉

全ては調査済みであった。


俺が求人票にあった電話番号(それも偽のものであろうが)に電話を掛けて、採用されたその一週間の間で、西田さん達政府は俺の身辺調査や学歴、趣向趣味、過去の黒歴史に至るまでを調べ上げていたらしい。


そして、俺の全てを知り尽くした上で彼等は俺を文化交流大使として異世界に連れ込んだ。


求人票を語った欺きと誘拐、それは人道的にそして一般には決して許されず、刑罰の対象になることはまぬがれないのだが、そこは国家の最高権力。国民一人ぐらいの身に起きた事件など赤子の手を捻るように容易に歪曲させることが出来るのだろう。


俺は窮地に立たされていた。


政府という国家権力の前にわなわなと慌てふためく羊のように俺は彼等に背いて、地獄を見るか、黙って彼らの言うことだけを従順に聞き入れるのか。


俺が西田さんにすっと椅子の上に提示された一枚の紙を前に、俺は懊悩していた。


その紙は俺のこれからの将来を決定づける言わば、天国か地獄行きかを定める神の審判であった。


その紙に名前を書き、自分の指紋とハンコを押せば異世界在留は決まる。


何度もその用紙に書かれた事項を俺は読み返していた。


もう、大体の事項は暗記していたぐらいに



「どうする?四月一日君。」


西田さんが急かすようにそう言う。


そして、その時、俺はぽろっとある言葉を零した。


「温泉……」


「何?温泉がどうかしたのかい?」


拍子抜けた表情で聞き返す西田さんに俺はふっと不敵な笑みを浮かべた。


「西田さん、温泉は入れるんですよね?」


「あぁ、ここの湖の水は温泉の成分が入っていることが確認されているし、少しぬるいが35度ほどのお湯が湧き出ることも確認済みだよ。

だから、入ろうと思えばいつでも入浴できる。」


俺の予想外な発言に西田さんはかなり動揺していて、その口調も何処かぎこちなく聞こえた。


「そうですか。

それと、この状況でいうのも、何ですが、求人票に記載されていた食事と宿泊場所は提供して貰えるのですよね?」


「あぁ、勿論だとも。

君は重要な日本国の代表人だからね。

ただ、向こうに帰ることは応諾しかねるがね。」


そこは言うまでもなく、譲れないようでしつこいぐらいに強い語調で西田さんはそう言った。


「わかりました。

色々と聞いて下さりありがとうございます。

もう、私の方から質問はありませんので、是非よろしくお願いします。」


そして、俺は薄い紙1枚に俺の人生がのったその空白の欄に「四月一日裕翔」と名前を書き、ハンコと指紋をインクが滲むぐらい強く押して、それと同時に自分の人生が決まった。


「私は温泉に入浴出来れば、例え国家のいいように使われても構いません。

上から使い回されるのには慣れていますから」


そして、今まさに俺の温泉珍道中が幕を開けた。






「絶景かな、絶景かな!」

時の大泥棒石川五右衛門の言わずと知れた名ゼリフを言って、俺は眼前に広がる雄大な景色と自然の大浴場を満喫していた。


自衛隊のキャンプ地から山脈のある北へと暫く歩くと、前方に視界には捉えきれない程の夜空のように深い濃紺色をした広大な湖が現れる。


湖の周りにはそこを囲むようにして針葉樹林が青々と茂っており、山脈から降り立つ風がヒューヒューと音を立てるたびに木々がざわざわと揺れ始めて、静かな湖畔に静謐たる上品な音楽を奏でていた。


そして、俺はこの俺以外は誰も寄り付かないこの神秘的で、不可侵の大自然に何を隠そう入浴のためだけに訪れた。


西田さん曰く、温泉街をこの一帯に作るという大きな理由はゲートの帰結点であったこの場所がたまたま休火山の火山帯であり、その付近の湖がこれまた、たまたま地下のマグマ熱によって温められた巨大な温泉湖であったことがわかった為、政府はこれを機にエリアス王国にこの土地の開拓権限を貰ったという。


つまり、この国の外交官であるダークエルフのサラさんも開発に前向きであることから、国交における相互間の手応えはかなり良好に思える。


とはいえ、俺は別に温泉に入浴出来ればそれで申し分は無いわけで、ただ国に関心がないと言われたら、それは確かに一理あると思う。


兎角、今は西田さんには自分の好きにしていいと言われているので、返って少し不安になるが、とりあえず今は失ったぶんの時間をこの温泉湖で取り戻そうと思った。


湖に着くと俺は辺りに誰もいないことを確認した。


普段は研究員がここで何か調査をしているらしいのだが、今は付近に人は俺以外誰もいない。


というのも、西田さんが今日は1人でゆっくりできるように開けておくから、とご好意で、俺以外にこの湖に来させないようにとり計らってくれていたからだ。


俺は予め持ってきていたバスタオルとタオルの入った大きな紙袋を湖畔にそっと置いて、その場で直ぐに上着とズボンを脱ぎ、そして下着だけの格好になった状態で一応、紙袋からバスタオルを取り出しそれをぐるりと腰に巻き、下着を脱いだ。


裸足でサッサっと草原を踏み、俺は湖の水がつくかつかないかの陸と湖のギリギリの位置に立って、暫し唖然とさせられた。


それは圧巻の一言に尽きた。


浅瀬に自分の姿がゆらゆらと水の波紋に揺れながら映って、その波紋の出処を目で追うと深淵のように深く、真っ暗な水面がどこまでも続いていて、やがて波紋が小さくなり今にも消えそうな幽かなそれを辿ると、深淵の出口が見えてきて、パーっと光が差すように針葉樹林の奥に聳える白布を纏った山脈が湖全てを喰らい尽くすように隆々と水面に映っていた。


俺の肌は感銘と感服で震撼した。


それは正に銭湯の浴場の壁に描かれた富士山画をそのまま現実に体現させたかのような壮麗な景色で、

自身の矮小さと愚かさを痛感させる自然の表意を悉く俺の目に焼き付けさせていた。


そして、俺はその景色に目を奪われ、惚けた顔でただ正面だけを見つめて、海に身を投じる自殺者のように魂の抜けた歩調でゆっくりそしてゆっくり、湖の水に足をつけた。


水が足に浸かるまで、ゆったりと湖に入水するとそれは人肌のように温かく、心地よいものであった。


それはやはり温泉であった。


俺は腰に巻いていたバスタオルを取り去り、それを陸に投げて、途端にジャバジャバと音を立てながら駆け足で、初めて海に訪れた子供のようにはしゃいで水面の奥へ奥へと向かった。


そして、水面が腰の高さまで上がってきたところで、俺はザバーンと豪快に後ろへと身を放り投げて、ゆったりと湖の緩やかな波に身を任せるように全身を預けた。


ゆらゆらと身体が揺れて、全身は女性の胸の中で抱き寄せられているような温かさと心地良さで、そのまま湖の水に溶けしまいそうな感覚に陥った。


更に山脈から時折流れる冷たい風が湯気でボッーとする脳に程よく入り込んできて、それがまた身体に上る熱と相まって、極楽浄土の心地良さを与えていた。


そうして暫く極上の快感に身をゆだねていると、背後からちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷと連続して水を蹴るような音が無かった。


気のせいか後ろに誰かの気配を感じる。


まさか俺以外に人がここに来ているのか?


しかし、西田さんがここへは日本人は来ないように気を利かせてくれたはずだ。


そう、日本人は来ないように……


まさか、ここに住む現地民だろうか?


異世界の人の中にも、俺達と同じように温泉に浸かって愉しむという習慣や文化をもつ人が極一分にいてもおかしくはない。


というか、十分にありえる。


だとしたら、後ろにいるのはきっとこの辺りに住むダークエルフ族の人だろう。


サラさんもここら辺には自身の故郷があるとそう言っていたし、間違いない。


まぁ、別に現地民が入浴に来たからといって、どうもしないだろう。


ここは自然の物だ。

誰が使おうとそれは人の所有物では無いので、例え異世界人の俺でも等しく利用してもいい筈だ。


そう結論づけて、俺は特に後のことは気にせず、変わらずそのままゆったりと湖に体を預けていた。


やがて、水を蹴る音はなりやみ、代わりに聞き覚えのある玲瓏な女性の声が聞こえた。


「四月一日さん。横にお邪魔してもいいですか?」


俺はその声に思わずドキッとさせられて、つい反射的に反応して、ぐいっと首を後ろに回した。


すると、そこには恥ずかしそうに赤駒のように顔を火照らせたバスタオル一枚で前だけを隠す裸のサラさんが立っていた。




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