自然と化した女
俺が手に持っていたものが、まさか女性のショーツでさえ無ければ、その絹のようにさらさらとした、いつまでも撫で続けていられるような触り心地に俺は酔いしれていただろう。
そう、ショーツでさえ無ければ……
緑色の大地にて、俺は乙女の純白たる下着を手に、これが正にハンカチであったならば、ばくばくと激しく動悸を感じることは無かっただろう、とそんな仮定をめぐらせては、オレは現実から少しでも逃げようとしていた。
とはいえ、客観的に見ても、俺が逃げる理由はどこにも無かった。
むしろ、事は穏便に済ませることが出来たはずで、手に取ってしまったショーツをさっさと指から離して、元あった籠の中にそっと置いて、何事も無かったかのようにやり過ごす事は出来たのだが、しかしながら俺の脳内にはそんな初歩的で、基本的な考えが浮かんでくることはなかった。
理性よりも先に、このショーツがサラさんの物であるという驚くべき事実が俺の思考をかき乱しつつ、あまつさえ、俺の体までのっとり始めて、弱めていた指の力を一気に強くして、何があっても離さんとばかりに其奴はショーツを親の形見のように大切に握らせようと俺の右手に煩く命令していた。
俺の自由さえも掌握しようとする正体不明の存在に、(その存在がまだ自身の願望であったとは気づいていないのだが)俺は必死に抗い、その為に理性の力をさらに働きかけようとするのだが、結局その呪縛を振り払う事は出来ず、無慈悲にもタイムリミットは刻刻と迫っていて、俺は憔悴を隠しきれないでいた。
ショーツの持主、サラさんはもう既に湖から上がって陸へと踏み出しつつあった。
サラさんは確実にこちらへと近づきていて、その歩調は少々速いと感じるほどなのだが、綺麗な逆三角形のむっちりと肉付きのいい太腿から伸びるすらっとした細足は雑音すら立てず、貴婦人のように優雅にクロスを描いて動いていた。
先までは座って話していたものだから、全く分からなかったが、こちらに歩み寄るサラさんを見れば、その抜群のプロポーションも然る事乍ら、タオル一枚という実に奇妙な格好をしているのに、その立ち振る舞いは妙に上品で、しなやかであり、俺はまた彼女のそんな美しい姿の一つを捉えて、自分が重大な状況に見舞われていることも忘れて、心はサラさんに釘付けであった。
とはいえ、その間も依然右手はしっかりと白絹を握っていて、それにふと気づいた俺は咄嗟にサラさんには何とかこの状態を見せますまい、とわなわなと慌てふためいて、その様子がとうとう陸にあがった位置にいたサラさんには何処か徒ならぬ様子に見えたようで、憂いた声で「四月一日さん、大丈夫ですか?今そちらに向かいますので……」と彼女はまだ世間を知らぬ少女の如く無知に今度は更に早足でこちらに接近してきた。
彼女との距離はもう歩いて、5秒とかからない距離にあって、元々歩調の速いサラさんの事だから、そこから更に早足で歩けば、一瞬で着いてしまうわけで、俺は差し迫る危機の中、いまだに言う事を聞かない右手にもうダメか、と最早内心諦めて、決して犯さざるべき、乙女に対するタブーを犯した罰を甘んじて受ける態勢に移行していた。
と、その時、腹を決めて先ずは今回の過ちに対する謝罪を、とサラさんを正面に土下座の格好に入ろうとした俺へとぽんぽんと、何者かが優しく肩を叩いてきたのだった。
「何してるのよ?
早く手に持っているそれ、戻しなさいよ。」
後ろから確かに聞こえてくる声。
だが、それは俺以外に聞こえないように小さく囁かれた女性の高い声であった。
サラさんを見れば、眉根一つ動かさない様子なので、彼女にはどうやらその女の声は聞こえていないようだった。
非常に不思議で不可解な事であるが、然し、そんな事は今は重要ではなく、俺は何よりもショーツを握ったまま離さない右手に注意は向いていたのだが……
あれ? 手から離れている?
手からはもう、あの滑らかな感触は消えていて、ショーツは深緑の絨毯の上に無造作に置かれていた。
「四月一日さん、何やら声を上げていたようですが、大丈夫ですか?」
そんな折に、サラさんは遂に俺の目の前にやや前屈みになって立っていて、彼女はそれで前に垂れてしまった白銀の髪の毛を右の手の指でさっと爽やかに耳に掛けていた。
俺はそんな何気ないサラさんの仕草と更に前屈みになったせいで、胸元の白いタオルの隙間が開いて、彼女の豊満な胸と深い谷間が両目1杯に映ってしまった事に心を奪われて、ポッカリと空虚な穴が空いてしまったような状態になった。
そんなふうに惚けていた俺を彼女は憂いた目で見て、「お機嫌が優れないのですか?」とそう気づかってくれたので、何はともあれ既に呪縛から解き放たれた俺は「大丈夫です。ちょっと転けただけですから」と晴れやかな顔をして誤魔かすぐらいには余裕が現れてきていた。
「そうですか、それでしたら私からは何も言うことはありませんが……」
そして、サラさんは俺の顔に向いていた目線をふと上の方にずらして、それは俺のまさに真後ろを見ているようであり、彼女は同時に瑞々しく輝いていた薄桃色のぷっくりと膨らんだ唇をそっと動かした。
「中原さん、やっぱり来ていたのですか?」
彼女が喋りかけた先を窺おうと、後ろを振り向けば、そこには誰もいなくて、サラさんは一体誰に喋りかけているんだ? と疑問に思いながら、よくよく周囲を見回した。
「ごめんね。心配で来ちゃったの」
すると、またもやあの女性の声が不意に聞こえてきて、俺はぐるぐると目を回して、その声の主を探そうとしたのだが、結局見つかることは無かった。
「ねぇ、とりあえず君はどこを見ているのさ?
ここだよここ、君の斜め下だよ。」
いつまでも見つけられない俺に女は少し挑発的な口調になって、とうとう居場所まで教えてくれたのだが、その場所があまりにも盲点であった為、俺は苦笑いを浮かべた。
彼女が言う場所は、驚いたことに俺の本当に真後ろの位置の地面であって、目を凝らせば、そこには深緑の苔を全身に生やした人の姿が平原の上に薄らと浮き出ていて、上部にとび出ていた頭の部分が無ければ、本当にそれは草かなにかと間違えそうであった。
そして、その苔に取り憑かれた人間は頭を空に向け向けるように突き上げ、草に埋もれていた顔面をこちらに見せてきた。
「えっと、初めましてかな?
私は自衛隊二等陸尉 中原京子よ。
宜しくね。」
そう極々ありふれた自己紹介をする女性は、決してその格好はありふれた物でなくて、
ーやめた会社の同僚が(何故その話をしていたのかわからないが)サバイバルゲームの話題にてケータイでその画像を持ち出しては、自慢げに話していたー
ギリースーツなるものを着て、草原の中に忍び、忍び過ぎて自然と一体化していた様子であった。
そんな理解しがたい光景を前に、いつのまにか俺の頭の中にはサラさんのショーツ事件に対する不安と焦りはすっかり消えていた。
「いや~ごめんね。
サラちゃんが不届き者に襲われないか、心配になっちゃって、分かってはいたんだけどね。
それでも、来ちゃった。」
深緑のペンキを頭から大量に被ってしまったような中原と名乗る女性は、機敏な動きでその場から立ち上がり、無言で俺に向けて礼儀正しくも兵隊さんの敬礼をしては、背後にいるサラさんへと剽軽な口調で、そうまくしたてた。
然し、俺はそんな中原さんの飄々とした態度も無駄一つない綺麗な敬礼も、特にどうとも思わなくて、ただ立つと同時に何やら右手に持っていた、双眼鏡らしきものを咄嗟に後ろへ回して、隠したのが気がかりであった。
覗きに来たわけじゃないんだよな?
アホらしくも俺の頭には半ば真面目にそんな考えが一瞬、過ぎった。




