求人票
この小説はアルファポリス様でも投稿させていただいております。
ーー温泉旅館に住み込みで働きませんか?(正社員採用あり)ーー
職種)接客系
短期採用4ヵ月~6ヵ月
給与/月)35万円
時間)週休二日制 朝9時より夜22時
仕事内容)お客様のお着きからお立ちまでの接客業務・その他
待遇/本館のバス送迎あり。
ご連絡次第、○○駅にてお待ちしております。
制服あり・賞与あり・諸手当あり・朝昼夕食事あり
23時以降本館の温泉大浴場使用可
期間中の宿泊について)本館の別館をお使い下さい
場所)静岡県○○市○○……
俺はバイトの帰り道、真冬の風がひゅうひゅうと痛く顔に張り付き、頭上にはオリオン座が良く見える深夜、ちかちかと覚束無い街灯が点灯する少し薄気味悪い路地をとぼとぼと一人虚しく歩いていると、少し先に一際明るく光る自動販売機のライトに照らされた隣の家の閑散としたシャッターの上に奇妙な求人票を見つけた。
弁当の入ったカーキ色のコンビニ袋をしゃかしゃかと振りながら、早歩きでそこに向かうと、その求人票は正に奇妙な内容が記載されていた。
なんだこれ?旅館に住み込みで35万?
しかも、待遇が良すぎないか!?
俺は驚きのあまり、食い入るように求人票に顔を近づけ、勢いのあまり、自分の手でシャッターをガシャンガシャンとうるさく叩いてしまった。
夜も遅いということもあり、辺りはすっかり静まり返っていた。
そんな中ではシャッターを叩く音はよく響いた。
流石に近所迷惑になりかねない。
そう思い、俺はやや焦りながら心の中で近隣の住民に謝り、すっと冷静に戻った。
そして、俺は冷静になった脳で少しだけ考える。
短期採用で賞与もあれば、手当も出るし、
おまけに3食食事付きだもんな……
しかも、旅館の出す食事となれば、それはもう大層なものに違いない。
そう俺は勝手に思い込んで、既に冷めてしまった唐揚げ弁当の事などは忘れて、旅館の豪華な食事を想像していた。
とはいえ、所詮従業員に出される賄いなので、客のそれとはかなりランクも下がるだろう。あまり期待し過ぎても後でガッカリするだけなので、俺はその想像は程々に、下の文面に目をやった。
そして、又しても俺は取り乱してしまった。
ガシャーン
シャッターを揺らす大きな音が深夜の静けさを一気に吹き飛ばした。
それは先程よりも遥かに騒々しく、音の余韻はいつまでも鳴り止むことは無く、途方もなく続く暗い夜道に何処までも伝わっていた。
あっ、やば!
そう気づいた時にはもう遅く、そのシャッターの家の如何にも厳ついおっさん然とした家主が2階の窓からひょこっと顔を出し、心底不機嫌な顔で「うるせぇぞ!今何時だと思ってんだ!!」と激越な口調を飛ばしてきた。
冬の冷気ではとてもじゃないが収まりそうも無い家主の興奮を見て、俺は深く含羞草のようにペコペコと頭を垂れて、一心に謝り続けた。
すると、そんな俺を睥睨していた彼は「次はねぇからな、さっさと帰りやがれ」と吐き捨てるように言って、顔を退きガラガラと窓を閉めた。
それを見て、俺は胸をなで下ろし、近隣に迷惑を掛けてしまったという罪悪感からくる緊張と凍りつくような夜風に体を震わせて、それがやがて解れてきた頃に、俺はまた求人票へと顔を向けた。
温泉……
その魅惑的な言葉が頭から離れなかった。
それは俺がボーナスや食事といった待遇よりも最も、舌を鳴らすほどの美味しい報酬であった。
大学を卒業し、無事に職につけた俺は僅か三年で、その職を自主退職した。
理由は自分の心が社会に耐えられるほど強くはなかったことであった。
週4日の残業、その日の帰宅は23時頃。
普段でも帰りは上司に飲み会やらなんやらに誘われて、そのまま断れず結局家に着くのは22時か23時頃。
帰りが遅いから、家では明日の支度をするだけで精一杯で、娯楽や趣味を楽しむ時間もない。
唯一与えられた休息の2日は、会社側の雇用時の建前に過ぎず、臨時の出勤日になることが多い。
元々、俺は社会に出るのが嫌で、(それでもいつかは放り出されるわけだから)少しでも猶予を稼ごうと、モラトリアムで一浪してまで大学に出て、5年間を惰性のように過ごしてきた。
社会に出るのを忌避してきた俺に特に目的や、大学に求める意義や価値もなかった。
だが、そんな俺でも唯一日頃の厭世的な気分を晴らす娯楽があった。
それが温泉であった。
温泉に入れば、日々の疲れと悪夢的な生活も何もかも忘れられる気がした。
浄化と言えば、少し鼻につく言い方であるが、正にそんな感じではあったと思う。
温泉に浸かると、冷めることのない熱がじわじわと心の奥底にまで染み込んでいき、染め物のように最後には頭の中に凝り固まった悪性の腫瘍と下界から取り込んできた垢をぎゅーと搾り取ってくれ、後はカラになった体でぼーっとしながら、いつまでも癒しを堪能することが出来た。
だが、それは恋慕と空白を埋める為の暇な大学期に出来た最高の至福であって、暇すらない正社員時代は全国温泉地巡業どころか、健康ランドすら巡ることも出来なかった。
とはいえ、今や自分の弱さを自覚し、諦めて会社から逃げる事を選んだ俺は明日がないぶん、暇は有り余るほど出来たので、フリーター人生を送りつつ、至福も堪能するという両立した生活を再生させようとしている。
だから、これは正に棚から牡丹餅であった。
金も貰えて、食うところ寝るところにも困らない上に、温泉にも入れる。
これは天国と言わずして、何と言おうか。
俺はバイト帰りで疲れていたにもかかわらず、それがいつまにか吹っ飛び、アドレナリンというのか、よくわからないが、言いえぬ期待と多幸感が全身にふつふつと湧いてきて、求人票の備考欄に乗っていた連絡先と場所をスマホで写真を撮り、飛び上がるようにすぐさま家路へといそいでいった。