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笑う女

作者: 犬吠驢鳴

 家に帰ると、柔らかい声がかけられた。

「おかえりなさい」

「……、ああ、ただいま」

 一瞬間を置いてから、B子の言葉に返答する。B子はその奇妙な間を追求することなく、「ご飯出来てるよ。あっためてくるね」といい、ラップの掛けられた料理を持って電子レンジの方へ向かう。Aは慌ててその背中に声をかけた。

「あ、いや、いいよ。夕飯食べてきたし」

「そう? じゃあ、明日の朝ご飯だね。――もう寝る?」

「あ、ああ。シャワー浴びたらとっとと寝るよ。お前も早く寝ろよ。先寝てていいから」

「……うん。わかった。じゃあ、おやすみなさい」

 B子はにこりと笑い、手にした料理を机に戻した。そんなB子に背を向けて、Aは荷物を放り出し、手早く着替えを掴むとバスルームに直行する。

 背中に視線が突き刺さる。その視線に棘が含まれているわけでもないのに、ひどく居心地が悪かった。原因はわかりきっている。Aの問題だ。A自身の問題だ。Aが持っている、B子に対する『後ろめたさ』が、勝手にB子の視線から『棘』を感じ取っているのだ。

 B子は何も言って来ない。何も聞いてこない。連絡もなしに帰りが遅くなった理由も、何も。

 ――早く言わなければ。

 Aは思う。早く言わなければ。これ以上事態がややこしくなる前に。

 言わなければ。

 自分の心が、既にB子の元にないことを。


 ****************


 B子は良く言えば素朴で素直な、悪く言えば芋臭く地味な女だった。

 初めて会ったとき、AはB子の地味さ加減に驚いたものだが――今時こんな地味な女がいるのかと――それがかえって新鮮だった。ファンデーションを塗りたくり、ファッション雑誌の化粧を真似る女たちには飽き飽きしていた。どいつもこいつも同じ顔、同じ服、口を開けばキーキーやかましいことこの上ない。

 それと比較して、B子はおとなしく、滅多なことでは口を荒げることもなかった。その静けさが、都会の女に慣れ切っていたAには新鮮で――だから彼はB子に告白し、『お付き合い』を始めた。

 芋臭く地味なB子はその価値観までも化石じみていて、ベッドに誘うのにも一苦労だったが、その手間すらも愛おしかった。がちがちに緊張していた彼女が少しずつ笑うようになり、恥じらいながらも夜の誘いを受けてくれたとき、Aの心は天にも昇る勢いだった。

 ――だが。

 ほどなく彼は気づいた。B子の『つまらなさ』に。

 Aが求めれば、B子は応じてくれる。最初はためらいがちに――今では笑顔一つで、何でも差し出してくれる。だが、“それだけ”だ。

 B子はAに何かを求めることはしなかった。Aの求めるまま、Aの望むがままにふるまい、彼女自身が何かアクションを起こすことはなかった。Aが何も言わない限り、B子は黙ったまま静かに、そこにいるだけだった。

 一昔前であれば、その姿は如何にも大和撫子で、清楚で貞淑な女性とみられたかもしれない。だが、現代社会において、彼女の貞淑さはAにとって実に『つまらない』ものだった。

 もっと一緒に楽しく騒ぎたい。くだらないことで笑い、火遊びのようなこともして、若い今でしかできないことをたくさんしたい。

 そんな風に思うAにとって、B子の『おとなしさ』はひどくつまらないものだった。

 そんな折、AはC子に出会った。

 B子とは正反対の、明るくて活発な女。流行りには敏感だが、同じ顔・同じ格好をする女たちよりは品があり、B子ほど世間ずれしているわけでもない女。Aの言動一つ一つに笑い、怒り、泣いてくれる女。

 当然のように――AはC子に惹かれた。

 それからAは事あるごとにC子に会った。頻繁にメールでのやり取りをし、デートに誘った。そして、ついにAはC子に告白した――B子と付き合っていることを隠して。

 そしてC子はAの告白を受け入れ、二人は男女の関係になった。

 C子と付き合うようになってから、自然とB子との接触は減った。だが、AはまだB子に別れ話を切り出しておらず、B子には家の合い鍵を渡したままなので、彼女はこれまでと同じように、Aの部屋でAの帰りを待っている。

 Aの帰りがどんなに遅くなっても、B子は必ず待っている。Aのための食事を作り、いつAが帰ってきてもいいように、食卓に突っ伏して眠る。そして、Aが帰宅すると、必ず「おかえり」と声をかけてくる。

 付き合いだした頃は、その姿を愛おしく思えていた。だが今は。

 C子とのデートの後。C子の手料理を食べた後。――C子を抱いた後。

 B子の「おかえり」という言葉は、重かった。

 AはもうB子のことを何とも思っていないのに、B子がAを見る目は昔と全く変わっていないのだ。好きだ、愛おしいと、口に出さなくてもその瞳が言っている。その無償の愛と信頼が、Aに重くのしかかる。

 自分が好きなのはC子なのに!

 ――言わなければ。

 一日でも早く。

 お前のことを愛していないと。

 お前とは、もうこれきりだと。


 ****************


 そして、その日がやって来た。

 ずっと先送りにしてきた告白。今日こそそれを告げようと、Aは意を決してB子に話しかけた。

「あのさ、話があんだけど」

「ん、なぁに?」

 食器を洗いながらB子が応じる。Aは内心ほっとしていた。B子の顔を見ずに話が出来るのはありがたい。――あの、瞳を見ずに済むのなら、その方が。

「あー……その、さ」

 口ごもる。切り出しづらいのだ。

 B子の瞳が見えなくとも、彼女から寄せられる無償の信頼が伝わる。――あまりにも重いそれが、Aの口を封じてきたのだ。今までも、ずっと。

 だが、それでも。

 言わなければ。

「あの、さ……鍵、」

 こぼれ落ちたのは、別れ話からはいささか遠い単語だった。

「鍵?」

 振り向かぬまま、B子が疑問符を浮かべる。ああ、とうなずいて、Aは言葉を続けた。

「合い鍵、返してくんね?」

「どうして?」

「あー……ほら、オレ、ここ最近帰ってくるの遅いじゃん。待っててもらうの悪いしさ……」

「そんなの、気にしなくていいのに」

「気にするって。それに、その……食卓で寝てるの見ると、ビビるし」

「Aくんの部屋の食卓で寝るのなんて、わたしくらいでしょ? 驚くことないんじゃない?」

「驚くんだって! とにかくさ、そういうわけだから鍵、返してくれよ。お前もちゃんと家帰って寝た方がいいって。オレのことは気にしなくていいからさ」

「Aくんこそ、わたしのことなんて気にしなくていいんだよ?」

 くるり。

 B子が振り向き、笑う。

「Aくんが“どこで何をしていても”、“誰と何をしていても”、わたしは気にしないから。Aくんは、Aくんの好きなようにしていいんだよ。わたしは、Aくんがここに帰ってきてさえくれれば、それでいいの」

 その瞬間。

 Aの背筋が凍った。

 いつもと変わらない、B子の微笑み。なのに何故だろう。その微笑みが恐ろしく見えるのは。

 いや――そもそも。

 今、B子はなんと言ったのだ?

「お、お前……、」

「大丈夫。わたしはわかっているから。Aくんは必ずわたしのところに帰ってくるって。だから、AくんはAくんの好きなようにしていいんだよ? 誰と、何をするのも、Aくんの自由だもの」

「――――っ!」

 知っている。

 B子は知っている。

 AがC子と付き合っているのを知っているのだ!

 にもかかわらず、B子はずっと、Aのことを“あの瞳で”見続けてきたのだ。――自分はAに愛されていると疑わぬ瞳で!

「B子、オレ――」

「いいよ、何も言わなくても、わたし、わかってるから」

 B子はにこりと微笑む。

「最近、C子さんと一緒にいるって、人から聞いたもの。C子さんはAくんと付き合ってるんだって、噂になってるし」

「う……」

「でも、そんなこと気にしなくていいの。C子さんって美人だし、C子さんと話してるAくんは楽しそうに見えるもの。Aくんが楽しいなら、わたしはそれでいいし」

「あ――」

 Aは――言葉を失った。

 B子はAの浮気を知っていた。知っていて――しかし、それを許している。その事実だけ見れば、Aが不満に感じることなどあるはずもない。浮気していたにもかかわらず責められることはなく、それを容認してくれる彼女。悪いことなど何一つない――

 だが。

「な、なんでだよ……!」

 B子のその態度が。言葉が。

 Aにはまるで理解出来ない。

「何でお前、そんなっ……!」

「? だってAくん、前に言ったじゃない。『オレは束縛してくる女が嫌いだ』って」

「――――」

 その言葉を言った記憶は確かにあった。B子と付き合うようになってすぐのことだ。これまで付き合ってきた女性と比較し、B子のことを褒めたときだ。

「どいつもこいつも自分が一番じゃないと我慢ならないって女ばかりだったって、Aくんが愚痴ってたの、覚えてるよ。だからわたしは、Aくんのことを束縛したりしないよ。Aくんはいつだって、自分の好きなようにすればいい。したいことをすればいい。何をしてたって構わないの――わたしのところに帰ってきてさえくれれば」

 そう言って笑うB子の顔を、直視できなかった。

「――っ、お前も知ってる通り、オレは今C子と付き合ってるんだ。これ以上お前とは付き合えない! 出てってくれ!」

「そう。わかった」

 B子はなんのためらいもなくうなずき、席を立った。そして静かに玄関の方に向かい――一度、振り返る。

「Aくん。わたし、アドレス変えたりしないから。いつでも連絡してね」

 そう言い残して、B子は部屋を出ていった。

 Aは即座にスマホを取り出すと、B子の番号を着信拒否に設定し、アドレス帳から削除した。

「なんなんだよ、アイツ――!!」

 最後まで罵声を浴びせることなく、笑顔で立ち去ったB子のことが、気色悪くて仕方なかった。


 ****************


 数ヵ月後。

 AはC子と破局した。

 些細な意見のすれ違いがこじれにこじれ、盛大な喧嘩に発展し――修復することなど出来ぬまま、二人の関係は終わった。

 当分彼女等作るものか――そう思ったAだったが、その決意は数日で立ち消えた。若さが彼を駆り立てた。パートナーのいない時期などほとんどなかった彼にとって、セックスレスの生活など考えられなかったのだ。

 とはいえ、風俗に行く金もないし、それほど容姿に恵まれていないAには新しい女などそうそう作れない。さてどうするか――と考えた時に思い出したのは、B子だった。

 ――そういえばあいつ、「いつでも連絡して」とか言ってたな。

 Aはスマホを取り出し、アドレス帳を確認した。しかし、数ヶ月前に自らの手で削除したB子のアドレスなど残っているはずもない。着信拒否に設定したB子の番号にしても、着信拒否リストに登録されている番号が多すぎたために、探し出すことが出来なかった。

 Aは事前に連絡を取ることを諦め、ぶらりとB子の部屋へ向かう。――数ヶ月前、彼女から感じた『気色悪さ』などは綺麗さっぱり忘れていた。彼の頭には性欲しかなく、B子は「何でも言うことを聞く便利な女」でしかなかった。

 そして――


「よ、B子。久しぶり」


 呼び鈴を鳴らし、出てきたB子に手を上げる。B子はぱちりと目をしばたたかせた後、こう言った。


「“おかえりなさい”、Aくん。C子さんとのこと、“残念だったね”」


 B子はそれはそれは嬉しそうに、愉しそうに、笑った。

文字書きの友人間で出たお題に従って作成したもの。せっかくなので晒し上げ。

お題はC←A×B(異性恋愛:BはAの浮気に気づいている)

というものでした。何故ホラーテイストになったのか。


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