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白線とぼくと

ちょっとしたものです。

白線とぼくと

                        小滝善亜

  1

 


新聞の中の、『未来』の言葉。

反射的に窓から空を見ると、空は思いのほか赤に染まっていた。昔の人々はこれを見て、翌日の晴れを確信したのだろう。しかし今の空は、昔とはちょっと違う。というよりも、一ヶ月前とは違う。

 ――まるで飛行機雲のように、空に引かれている一本の白い線。数学は苦手だが、数学的に言うと『線分』ではなく、始点も終点もない『直線』が、この街のだだっ広い空に横たわっている。詳しく言えば、線とは言い難いものだけれど。

 ちょうど沈む太陽の上にその線はあって、まるでひっくり返した目玉焼きの断面図みたいだ。一ヶ月前から『日常』になったその風景には、もうすっかり慣れてしまいそうだ。




 空の上には非日常的な日常が展開されているけれど、陸のぼくらの生活はなんら変わらない。むしろ空がぼくら陸の常識に近づいたと言えるかもしれない。陸の世界では全てが区切られ、割り振られ、線が引かれていて、例えば人間にしか見ることの出来ない『国境』が存在する。そんなわけでぼくは、無限だった空があの忌々しい白い線によって、あたかも分断されて有限の存在になってしまったかのように感じるのである。

 学校の昼休みの時間。例えランチ仲間の同級生・ヒガシの目の前であっても、母親のルーチンワークである弁当箱の前であっても、ぼくはその白線を眺める。

「……また見てんのか」

 ヒガシはつまらなさそうに口をすぼめる。

「なんだか慣れなくてね……って、そんなこと言いながら、ヒガシもいつも眺めてるじゃないか」

 ヒガシの後ろの席だから、それはよく分かるのだ。ヒガシも古典の時間には、決まってあの空を眺めるようになった。

「俺はアレに未来を期待してるんだぜ?最高の技術革新じゃないか」

「……なんだか禁忌な気もするけど」

 卵焼きが今日は甘い。ぼくは咀嚼しながら、ヒガシへと視線を戻した。

 ヒガシは経済に明るい。というより、専門家に近い。見た目はかなりルーズでチャラいけれど、その能力には感服せざるを得ない。その遊ばせている髪の毛はなんだ、と聞けば、これは経済のバロメーターさ、先行指数に合わせて動くんだぜ、と冗談を言う。

「まぁ、神の領域だよな。日本がどう対応するのかねぇ……クローンと同じように禁忌になるか、それとも――」

 ヒガシは水筒の残りをたいらげ、ぼくも弁当の隅に残る漬物をつつく。

 教室の隅で、いつもぼくとヒガシはこんな会話をしている。当然こんな会話に混ざろうなどという人なんていない。みんなは芸能とか、ツイッターとか、アニメとか、進路の話をしたいのだ。ぼくもそうであるのが普通だと思っている。高校二年生。華の十七歳ならばそれが当然。でも、分かっちゃいるけど――なのだ。

「まあお前の立場に立ってみようじゃないか。俺がお前の立場に立つのは難しいが、でもまあ、気持ちはよく分かる。あの白い線は自分たちのロマンを奪うんだ。そういうことだろう?あの白い線はまるで、遠く彼方にあった綺麗な富士山をたぐり寄せてきて、その粗い粗い表面を見せようとしている。そうだろう?」

「随分と詩的だね。またマルクスの読み過ぎ?」

 ヒガシは、ニヤリと笑う。詩的表現とキリスト教的観念をふんだんに込めて作成された『資本論』は、その分かりにくさで定評がある。でも大体言いたいことはよく分かった。ぼくはうなずく。

「ヒガシの言うとおりさ……確かに史学は事実を探求するものだけれど、あれが実現されれば、探求なんて必要なくなるからね……」

 思わずため息が漏れ、どことなく脱力感が漂う。

 ヒガシは経済に詳しく、そしてぼくは、歴史が大好きだ。この学校じゃ、誰よりも詳しいのかもしれない。幼い時から歴史というものに憧れがあって、人一倍探求して、高校一年の時には、同じく歴史好きのとある先輩と意気投合し、二人で歴史探求を行った。部活でも同好会でもなく、ただ二人でひっそりと。寂れた図書室の隅で。

 そうだ、とヒガシは弁当箱のフタを閉めながら言った。

「探求といえば……リエ先輩のほうは、どうなんだ?」

 いきなりの路線変更だが、一応予想はしていた。ぼくは素早く首を振る。

「さっぱり。もう頭がグチャグチャしちゃってて……直接聞きたいけれどね」

「忙しいもんな」

 大学受験シーズンの真っ只中、しかも二月ともなればもう山場だろう。青い顔をした先輩たちをよく見かける。そんななかでリエ先輩に相談――そう、ほんの胸の突っかかり程度だ――できるはずもない。そう、ほんの一ヶ月前にぼくの胸に突っ掛かった、小さな小さな塊なのだ。

 有限の空の下では、後輩達がグラウンド整備に明け暮れている。少し前の雪で、未だにグラウンドはベチョベチョの泥の海である。これは大変な作業だろう。

 ヒジをついて、ボンヤリとして、思わずため息が漏れ出る。

「……ぼくは、ロマンチストなのかな」

 ヒガシは笑う。

「社会主義者ほどじゃないさ」

 



 時空間論。

 とある天才の遺稿から発見された新たな理論は、瞬く間に世界を席巻した。人々はSF世界の海に浸ったに違いない。時空間内を自由自在に移動することが出来るという、途方も無く壮大でメチャクチャな理論が徹底的に論理的に言及されていて、さらに小規模実験・思考実験に成功したというオマケつきならば、誰もが信じてしまうというものだ。

 そんなわけで、世界中がその理論に基づいて開発競争を始めた。原動力はまさにロマンであったのだろう。フィクションの世界でしか有り得なかった時空間移動が、まさに手に入ろうとしている。そして沢山の犠牲と失敗を繰り返し、中には放棄するもの、訴訟を起こすものもある中で、ついにとある一国がその理論を具体化した。

 日本である。その成功は詳細が明かされないまま、世界中に発表された。

 

――そして一ヶ月前。突如、空にアレが出現した。

 

どうやらその線は、日本を中心に地球という球をグルリと一周しているらしい。それはいきなり、我が物顔で空に君臨し始めたのだ。

意味不明なその線のおかげで、世界中は今現在も大混乱の渦中にいる。映画『インデンペンス・デイ』でニューヨークに大型円盤が飛来した、あの時のように。実態の不明なデカブツというだけで、人々の恐怖心をあおるのには十分だった。まあヒガシ曰く、新興宗教という市場はかなり拡大したらしいけれど。

そして、未だに日本政府は黙ったままなのである。




校舎内の寂れた図書室で、今日もぼくは歴史の本を読んでいる。あの白い線の発生のおかげで、ぼくは中国史への探究のヤル気を失くした。

今は、専ら産業革命だ。それはもちろんあの、白い線のお陰様で。

 懐かしい。リエ先輩との出会いがこれだった。高校に入学したてのホクホクのころ、リエ先輩はこの図書室で、ぼくの興味を惹く本を読んでいたのだ。それが産業革命についての簡単な本で、ぼくは思わず話しかけてしまったのだ。

 そこからは何も覚えていないけれど、気づいたら一緒に歴史の探求をしていた。リエ先輩はぼくにない視点があり、ぼくはそこに惹き付けられたのだ。それは今でも理解が出来ない。例えるならそう、ぼくが『評価』として歴史を捉えるのに対し、リエ先輩はひどく人間性というか神秘的というか運命的なものをもって歴史を捉えている。

一年が経って進級すると、リエ先輩はここに来なくなった。もちろん受験があるのだから別段気にはしなかったのだが、そうなって初めて気付いたのは、リエ先輩とぼくは歴史のこと以外はなにも――本当になにも――話したことがなかったということだ。先輩がどこのクラスなのか、誕生日はいつなのか、どうして歴史が好きなのか。そしてメールアドレスでさえも交換していなかったのだ。大人な関係と言ってしまえばそれまでだけど、先輩にはぼくをそうさせる不思議なものを持っていた。

ぼくはため息をつきながら、目を閉じる。ぼくが悩んでいるのは、あの白い線と産業革命なのか、それともリエ先輩のあの言葉なのだろうか。

図書室は、相変わらず静かだ。




「あ、先輩……お久しぶりです」

「おぉ、久しぶりね~。え~と……今度は何を調べてるのかな?」

 ぼくはカバンの中から本を出して、背表紙を見せた。

「宗教です。もうちょっと学ばないと、理解できない節がありまして」

 白い息を吐きながら、先輩は笑う。もう本当に何ヶ月ぶりだろう。今年の四月に見なくなったから――八ヶ月ぶりだ。

 リエ先輩は凍った路面を避けながらゆっくりと歩いている。ぼくもそれに並んで、ゆっくりと歩いた。

「学校帰り?」

「はい。先輩もですか?」

「私は塾帰りよ~。もうクリスマスも近いっていうのにね、全然ロマンチックじゃないのよ」

 冬も深まってきている。リエ先輩はマフラーに顔をうずめて、肩を縮こませながら言う。ぼくはそのお茶目さに思わず笑いがこぼれた。

「歴史の方はどうですか……?」

「最近は中々ねぇ……あ、でも本は読むかな。あなたにオススメされたインドの本を買ったのよ。中々面白いわ」

 そう言って、リエ先輩は空を仰ぎ見る。太陽は、もうその顔をうずめていて、あとは暗くなるばかりだ。空には星がいくつか輝きだしている。

「でもね……おかげさまで、歴史教科はもう勉強の必要がないくらいなのよ」

 ニッとぼくに笑ってそう言い、髪を手ですく。よく見れば、リエ先輩の髪型が少し変わっていた。若干短くなっていて、肩にかかる程度になっている。

 本の背表紙を一瞥してカバンに戻しながら、さすがです、とぼくは呟いた。なんだか、街の景色が違って見える。

 リエ先輩は、少し背筋を伸ばして言った。

「……インドほどポテンシャルの高い地域はないわよね。文化と宗教を生んで、植民化で民力を高めて……今は名だたるIT大国」

 リエ先輩は笑う。

「いい本だわ、あなたの薦めた本。インドというか、インドを取り巻く世界がよく分かる。私はインドの古代の方に興味があったけれど、こういう植民されていた時代もいいわね」

 リエ先輩に薦めた本は学術書や資料集ではなく、小説なのだが、先輩は快く読んでくれたようでぼくは少し安心した。

「でも日本人にはわかりにくい感覚ってのがあるわよね……全部の歴史にも言えるけど」

「ぼくもそれで、さっきの宗教の本で勉強しているんです」

 イスラム教の誕生によって、一時期アジア・ヨーロッパ世界はイスラームの大帝国によって支配された。キリスト教の精神のもとに、十八十九世紀の欧米列強は植民地支配を強めた。歴史と宗教の繋がりはとても大きいものがあり、宗教の歴史への影響力は強い。

 街頭が灯りをともした。路面の凍っている氷が、キラキラと反射している。

「歴史学って、果てしないですよね……なんだか、真実が見えなくて。色んな場所に色んな真実が転がっているような気がして。でも、全部虚像なような気もして」

「最初は私もそう思ってたけど、それがかえって楽しくなったな~」

 街中の灯りの中に、リエ先輩が入り込んでいった。ぼくはその背中を早足で追う。

 リエ先輩が、歩きながらスカートを翻して振り返る。

「冷戦の是非。十字軍の是非。スペインのインカ文明征服の是非。イスラーム侵略の是非。はたまた911テロの是非――なんだと思う?」

 リエ先輩を包んでいた灯りが、たちまち失せた。それは高架下に入ったためであり、リエ先輩はこっちを向きながらなおも歩き続けている。あんなにふらふらと歩いていては、滑らないかと心配だ。

「……それは、もっと沢山の資料を研究しないと……」

「じゃあもし、過去を見ることが出来たとするなら、どうするの?」

「……それは真実が簡単に――」

 ううん、とリエ先輩は首を振る。そして、髪をフワフワと揺らしながら、ぼくに笑いかけた。

「それはね――」

――頭上を、電車が通過した。

 それは全ての音をかき消していった。当然高架下ともなればその音は爆音に近い。高圧的な波がぼくを襲って、色んなものを持っていく。

 気が付けばリエ先輩は、前方を向いていた。ぼくはどうしてか、もう一度聞き返す気持ちにはなれない。無言を返すしか無かった。

「……でも、それも難しいのよね」

 高架下を抜けると、リエ先輩は手を振りながら駅へと向かっていった。リエ先輩が電車通学なのだと知った瞬間でもあった。



 肩を強く叩かれて、ぼくは目を覚ました。窓の外はすっかり闇に落ちていて、時計は閉館時間をとっくに過ぎている。ハッとして資料の本に目を落とすけれど、ヨダレが垂れていなくて安心する。

「大丈夫かな?疲れてるみたいだねぇ?」

 おじさんの司書の先生が物腰柔らかに言う。ぼくは恥ずかしくなって曖昧な返事をしてから、本棚に本を押し込んで、そそくさと図書室をあとにした。

 外に出ると、やはり一段と寒かった。あの十二月に先輩と歩いた時よりも、さらに冷え込んでいる。それにしても――まさか夢に見るとは思わなかった。二ヶ月も前のことなのに。よほど印象的だったのだろう。

 ――そういえば、あれから一ヶ月が経ったころだ。空が有限になったのは。忌々しいあの白線が、世界を席巻するようになったのは。

 時空間論の成立と実現、つまりこの時代の超飛躍的な技術革新の善悪は、ちょうど十八世紀頃の産業革命の善悪と似たり寄ったりというわけだ。むしろ、同じであるかもしれない。あれから世界は常識を変えたのだが、今度もまた変わるのだろうか。

 ――一体あの白線は、何に繋がるのだろう。そして産業革命は、正義なのか。悪なのか。

 くだらないことだと自分でも思う。『評価』を行う自分自身が、とてもくだらないと思う。でもそんなくだらないことが、ずっとぼくの頭を支配している。そんな頭をしながら、ぼくは帰路についている。

 そしてあの高架下に差し掛かったところで、ぼくは十二月の出来事を思い出す。ちょうどあの時話していたのも、こんな内容だった。でも――聞き取れなかった。

 それがぼくの頭を悩ませる。あの時の言葉は、何だったのか。また先輩に会いたい。話をしたい。色んなことを聞きたい――まるで恋と錯覚せざるを得ない感情が湧き上がってくる。

 ――その時、頭上を電車が通り抜けていった。

 ぼくは、凄まじい轟音に包まれる。あの二ヶ月前のように。



  2



 轟音の質が変わった。というのも、ぼくは高架下の轟音以外に語彙がないので、こう表現するしかない。体中を震わせ、脳髄液をガタガタと震えさせるような轟音に切り替わったのだ。

 視界がいっきにひらけた。先程までの、高架下の暗く湿気たような環境とは違う。丘だ。ここは丘だ。眼下にはなだらかな草原が広がっていて、ぼくはその丘の頂上にいる。決してこれは比喩表現などではない。本当にぼくは――高架下を歩いていたぼくは――今、丘にいる。

「爆音さ、これは」

 背後から聞き覚えのある声がしたので振り返ると、そこにはヒガシがいた。半そでの夏制服を着て、ポケットに手を突っ込んで立っている。でも、どこか違う気がする。

 自分のおかれている状況がよく分からず、ぼくは困惑した。

「え、え、……ヒガシ?何でお前こんなとこにそしてここは……」

 ヒガシは軽く笑う。

「……ぼくはヒガシじゃないよ。そうかい、ヒガシ君はこんな感じなんだね」

ヒガシはぼくに笑いかける。ぼくは反射的に頭を抱える。

「……夢か……まだ夢の中か」

 そう呟いてぼくは自己解決に励むことにしたのだが、

「……夢?うん。夢であるけれどそれは少し違うな。正確に言えば、『夢のような世界』さ」

 夢のような世界。ぼくはその言葉に眉を潜めた。相変わらず男は笑みを浮かべたままで、それ以上何も言わない。

 その時、再びぼくらを爆音が包み込んだ。大地を震わせ大気を揺らし、それはその咆哮を響かせる。あまりの爆音の大きさにしゃがみ込みながら、ぼくは金切り声を上げた。

 ヒガシはしゃがまず、ぼくを上から見下ろしているようだ。

「――戦場だよ。1905年の日露戦争。奉天会戦」

 乾いた口調がぼくの頭にのしかかる。

「……なんなんだよ、いったいここはどこなんだ。ヒガシ、いい加減にしてくれ」

「だから、ヒガシじゃないんだって。言ったろう?ここは奉天だよ。日本の命運をかけた決戦の地。海の日本海海戦に対する、陸の大決戦場」

 そんなことは知っている。日露戦争がどういうものであるかも、奉天会戦が一体どのようなものであるかも。今ぼくが聞いているのは、どうしてここにぼくが居るのかということだ。

 頃合いを見て顔を上げると、眼下に広がる草原の両端から、大軍勢が現れた。体格の対比ですぐに分かる。視界の右側から現れたのは、日本軍だ。代わって左側から飛び出る軍勢は、間違いなくその顔立ちからロシア軍だと分かる。

 ほどなく銃撃戦になった。突撃攻撃を主に戦う日本軍と、機関銃を扱い徹底的に抗戦するロシア軍。お互いに草原の凹凸を利用しながら、その鉄と血を大地へ撒き散らしている。

 ぼくはいよいよ混乱した。意味の分からない世界で、ぼくは戦争というものを眺めている。目の前ではどんなフィクションよりもリアルなものが展開されていて、目を覆いたくなる。

「……これは」

「この戦争にいずれ日本軍は勝つさ。でも、それによって陸軍の暴走というものは激しくなっていって、ついに日本は亡国の危機に陥る」

 男はポケットから両手を出して、ぼくの手を引いた。

「立って、よく見るんだ」

 どこが違うのか分かった。いつもと違って、髪の毛を立たせずペチャンコなのもそうだが、まとっている雰囲気がまるで違う。ヒガシよりももっと、崇高な感じがする――ならこいつは誰なんだろう。

 日本軍は散り散りになりながらも、決死の突撃を行っている。両軍の砲弾は地上で、上空で、時には地中でことごとく炸裂する。その炸裂数の多さに、ぼくの感覚はすっかり麻痺してしまった。爆音と圧力にも屈さず、ぼくは手を引かれ立ち上がる。

 こんなに間近で戦争を見ているのに危機感を感じないのは、この男のおかげなのだろうか。臨場感が百パーセントの映画館の中にいるようだ。

「……この戦いは、日本を暴走へ導いた戦いだと言われてる。列強国たるロシアを破った大日本帝国陸軍は、そこから奢り高ぶり始めた――」

 その通りである。この戦争での勝利を境に日本は太平洋戦争に突っ込んでいき、ヒロシマナガサキの地獄へと直行していく。ヒガシそっくりのその男はぼくの隣で、でも、と吐き出すように言った。

「これがそんな悪戦に見えるかい」

 みんながみんな、必死に戦っている。白人も黄色人種も関係ない。生きるか死ぬかの究極の中で、必死に殺し合いを行っている。正義のもとに悪が展開されている。悪が起こした戦争を正義が戦っている。

 ――分からない。ぼくには、分からない。

 空と陸で砲弾が炸裂して、機関銃は火を噴いて、地面には血が咲き乱れている。辺りを満たす爆音の合い間には、悲痛な叫び声が絶え間なく響く。

 これじゃあ、どっちが勝ってるかなんて分からないじゃないか。

「……どうしてぼくは、ここに?」

 男にたずねると、男は髪をかきあげた。このヒガシにそっくりの男は、どこまでも崇高な目をしている。どこまでも見通すような、澄んだ目。

「求められたから」

 その刹那、目の前で砲弾が炸裂した。瞬く間に炎がぼくらに襲い掛かってくるのだが、それを認識する時には既に、ぼくは闇の中に引きずり込まれていた。

 


 気が付けばそこは、いつもの高架下だった。現代の狭い狭い風景がぼくの眼前にある。すっかり夜も深まっていて、冷え込みも増していた。

「一体なんなんだよ……」

 思わずこぼれた不満も、白い息が持っていってしまう。

 本当にぼくは混乱していた。わけが分からない。ヒガシに似たあの男も、今は居ない。眼下には戦場もない。爆音も無い。

 いよいよ病院にお世話になるのだろうか、とぼくは頭を抱えながら家路を急いだ。まるでその高架下から逃げるようだった。




「……おいおい、どうしたんだ?」

 ヒガシがぼくの顔を覗き込む。目の前のヒガシは間違うことなくヒガシなのだが、昨日のあの丘の男と重なってしまって、なんだか落ち着かない。

「……いや、最近疲れてるみたいでさ……」

 ありのまま、何があったのかなんて言えるはずもなく、ぼくは仕方なくそう答える。まさか日露戦争の戦地へ行ってきたなんて言えない。特にヒガシのような男ならなおさらだ。

 ふぅん、とヒガシは唇を尖らせて、弁当箱を開く。

 冬の空は澄んでいて綺麗だ。特にお昼時は、より一層きれいに見える。いつものようにぼくはヒジを付いて、その空を凝視する。

 ――あの白い線に、何か関係あるのだろうか。

 1905年の奉天会戦戦場。まさしくぼくは時空を超えた。あそこでぼくは確かに、戦場というものを見た。とても今では信じられないことだが。

 ヒガシはさ、とぼくは空を見ながら言う。

「あの白い線……なんだと思う?」

 さあね、とヒガシ。

「……俺はそこらへんの専門家ではないからなぁ……まあしかし」

 そう言いかけて、ヒガシはぼくに顔を寄せる。

「あれは時空間の歪みだと言われているんだぜ。どこまで本当かは知らないが、日本政府が発表しないのもそれが理由だとか」

「……それは、大問題だろ」

「全世界はあれの動向を何よりも気にしているのさ。あの白い線が良い方に向かうか、悪い方向に転ぶのか分からないしな。もしかしたら、あの線が世界を吸い込んじまうかもしれない」

 ヒガシはニヤリと笑う。そういえば、こういうオカルト的な話にも詳しかったんだ。

 いつもの昼食の時間を、ぼくは違和感を感じながら過ごす。昨日のあの夢や産業革命やら奉天会戦やらを思い出し、自分で自分の尻尾を追いかけて回っているのだ。ヒガシが目の前にいるのもある。

 ぼくの変化を感じ取ってだろうか、ヒガシはハシをくわえたまま首を傾げた。

「……リエ先輩か?」

「いや……まあ、それもあるけど」

 察しの良いやつだ。しかしヒガシ自身のその容姿も悩みの要素だということに、気づいてほしいものだ。その姿は、戦場を思い出させる。

「恋してるみたいだな、お前」

 卵焼きに伸びる手が止まり、思わずその手に力が入る。

「……違う。探求が停滞してしまうからさ」

「何の探求だ?デカルトの恋でも扱ってるのか」

 軽い口調でヒガシは言うのだが、ぼくはうつむいたまま卵焼きを咀嚼する――本当は、ぼくも迷っているのだ。恋であることも否定できないのである。この頭と胸のグルグルとモヤモヤは、何なのだろう。

 ぼくはポツリと聞いてみる。

「……ヒガシはさ、産業革命をどう思ってるんだ?」

 どうって、とヒガシは困り顔を浮かべ、しばらく右頬をポリポリとかく。

「……出来事さ。世界が変わっていった、一つの分岐点」

「ならあの線も、分岐点なのかな?」

 ぼくは空を指差す。

「ああ。いずれ歴史はそう捉えるだろうよ」

 それは、と言いかけたぼくは、わざと演技っぽく長い沈黙を作った。

「……それは、良い事?」

 ヒガシは押し黙った。顔をしかめ、自分の弁当箱のおかずをジッと眺めている。難しい質問をしているのは分かるが、わざと質問の解釈を広げて、ぼくは何らかの答えを得ようとしていた。

「……そんなことは知らないさ。そこらへんはまさにお前らの領域だよ。俺らは、その産業革命自体に目なんて向けていない。産業革命で手に入れた技術が、欧米を列強に仕立て上げ、そこでの小競り合いが今の世界の基盤になる。今の世界の秩序になる。俺はその程度の事実があればいい」

 ヒガシはそう言うと、イスの背もたれに体をあずけて、うめき声を上げた。

「まったく、歴史を知りすぎると大変だな!」




 ヒガシから聞いたことであるのだが、時空間移動の成功は、光の速度を超えることだという。なかなか理系の扱うような領域でよく分からないのだが、とにかくその技術の応用によっては、特大エネルギー源の確保が出来るとか。

 つまり、そのまま産業革命と重なるのである。

 ――ぼくは今、そんな革新の中にいるのか。

 なんだか信じられなかった。どんな時代も、変化の瞬間に立ち会った人々は同じような気持ちでいたのだろうか。

 いつもの帰り道。いつもの帰路で、ぼくはずっと考えにふける。

今起きていることは、そのまま人々が想像もしていなかった未来になっていくのだろう。

 産業革命をどこよりも早く成し遂げたイギリスは、その後パクス=ブリタニカと呼ばれる時代を作り上げ、世界の宗主国たる地位を確立していく。

 ――偶然にも同じ島国が、今まさにそれを受け継ごうとしている。

 歩きながら、ぼくは空を見上げた。

 あの白い線は、そんな未来を内包しているのだ。途方もない超技術の結晶が故に。どうしてか、リエ先輩の顔が浮かんだ。

 そして――すぐに消えた。同時に視界から空も消えていく。

 ぼくは、自分がまた高架下に入ったことに気が付いた。



「……またか」

 ぼくはうんざりしながら呟いた。

 またもぼくはどこか知らないところにいた。前回は草原を見下ろす荒涼とした丘の上だったのだが、今度はいやに煙っぽいところにいる。人工の金属質の何かの上に立っている。遠くの方が煙の白でかすんで、よく見えない。あまりの煙に、口元を制服の袖で覆うのだが、あまり意味がない気もしてくる。

「……十八世紀。イギリス」

 振り返ると、またあの男がいた。ヒガシ似の、崇高な瞳をもつ夏制服の少年。その目は、真っ直ぐにぼくを捉えている。

「……ここが?」

 男はうなずき、こちらに歩きながら、

「リヴァプールの港湾工場さ。ここで作られたものがアフリカやらオーストリアやらインドやらで大規模経済圏を生んで、イギリスの地位をそのままにしている。気高く清く偉大な大帝国を」

 世界がガラリと変わるこの現象に、ぼくは今ここでワープと名づけた。ワープというのはどうやら、高い場所にぼくを降ろすのがお好きなようで、ぼくは驚いたことに工場の屋根の上に立っているようだ。目がチカチカとするほどの煙が、辺りに渦を巻いているのもそのためだ。

「……あの白い線と、何か関係があるのか?」

 男を見据えて言うが、男は顔に張り付いたような笑みを浮かべるだけだ。

「ここはどうだい?」

 ぼくの肩に手を乗せて言う。なんだかはぐらかされた気がして、ぼくは顔をしかめながら、

「……どうって、気持ち悪いだけだよ。煙とかすごいし」

「そうだね。この頃、イギリス工業都市の空はいつもこうだった。海も川も工業排水で黒く染まっていて、その様子はまるで地獄みたいだったんだ」

 男は両手を大きく広げた。

「でもこの地獄が、イギリスを大帝国に仕立て上げた。地獄のような環境下で働かされる人々が、その地獄の中で、イギリスの栄華を生んだ」

「……酷いな」

 歴史は人間の残虐の記録である、というような見方がある。アメリカの発展は黒人奴隷無しには無かったのだが、その黒人はやがて大迫害にあった。ローマを地中海の覇者へと押し上げたのは、その対外進出の中で生まれた大量の捕虜奴隷だった。平安時代の貴族たちの栄華を支えたのは、膨大な税を死に物狂いで払い続けた農民たちだった。同じようにこのイギリスは、この地獄の上で成り立っている。

「でも、これが無ければ人権なんて考えられなかった」

 男は淡々と言う。男の目は、どこを見ているのだろうか。

 近くの煙を噴き上げる煙突をジッと見つめながら、ぼくは吐き出すように言う。

「……産業革命は、よかったことなのか」

「悪いことさ。でも、その上に良いことが成り立っている」

 意外な即答だった。

男は歩き出した。ぼくもそれを追って、隣を歩く。

 前回は爆音と悲鳴に包まれていた。でも今回は、煙と機械音だ。今回もその凄惨さを感じながら、ぼくは空を見上げて目をこらす。

 ――空は有限だった。

「そもそも資本主義なんてものが生まれなければ、第一次第二次の戦争は起きなかった。でも、資本主義がなければ、日本人はいつまでも畑を耕しているだけの幸せしかなかった。もちろん世界も。ならばそう、ぼくは主張を変えてみようじゃないか」

 産業革命は良い事だった、と男はうつむきながら続けた。

「産業革命で技術は進み、社会体制は整えられた。大衆社会は個人一人一人に力を与え、君主に多大な力を与える体制を排除した」

 良いことの上に、悪いことが成り立っている。

 悪いことの上に、良いことが成り立っている。

 どちらも同じに思える。なんだか、ヒントを与えられた気分だ。

「この煙は、たくさんの意味をもっているということさ。詩的に言ってみればね」

 そう言って、男は笑う。

「ごめんね、ぼくにはその答えは出せないかもしれない」

 海の方から、ベルが聞こえてきた。恐らく出航の合図だろう。

 そんな音を聞きながら、ぼくらは屋上の端まで歩いて、やがて立ち止まった。

「……良い場所かな?」

「いいえまったく」

 ぼくはキッパリと首を振り、男はため息をつく。

「そうだねえ」

 ――ぼくは、背中を一息に押された。空中へと放り出されたぼくは、そのままリヴァプールの港を一挙に見渡す。そのディティールの一つ一つが歴史を感じさせて、西洋の物々しさも同時に感じさせる。

 そして――重力を感じるころには既に、ぼくは高架下に居た。




 リエ先輩との会話を思い出す。

 ――過去を見ることが出来たとするなら、どうするの?

 ぼくは解明できると答えたけれど、リエ先輩は首を振った。まさにその通りで、ぼくは過去に行っても、真実を理解することが出来なかった。リエ先輩は、きっと何か知っている。あの時高架下で何か、ぼくに言ってくれていたはずなのだ。でもそれが分からない。考えて整理してみれば、ぼくはあの白線が現れた一ヶ月間、そればかり考えている。ヒガシは早く聞けと言うが、そうはいかない。

 リエ先輩に、会いたかった。




 太陽信仰というものはどこの国でもされていた。現代で暮らすぼくらとしては、その心情を理解出来ていないのだが――今は分かる気がする。

 空に現れたアレがそうだ。人間たちは技術で『灯り』という小太陽を作り出したけれど、あの白い線のコピーは出来そうにない。そもそも本質を知らないからだ。

 だから人類はアレに畏敬と恐怖の念を抱き、計り知れない力を感じ取った。ヒガシが言っていたとおり、新興宗教に人が殺到している。でも人間というものは順応が早いようで、一ヶ月を過ぎる頃にはその熱もやや落ち着いたように思える。

 二階の廊下の窓から見る白い線は、その建物との調和も相まって、とかく芸術的だ。ぼくとヒガシは廊下を通る度に、その調和を楽しんでいる。

 そして、今日も。

「……ヒガシ、ワープってできるかな?」

 ふと気になって、ぼくはヒガシに聞いてみた。

「……出来ないんじゃないか?知らんけど」

 ヒガシは芸術を眺めながらぶっきらぼうに言う。まあ、普通はそう考えるものだ。

「夢のようだよ、そんなん。ワープなんて」

 ワープ。脳内を巡るその言葉に、ぼくは唇を尖らせた。リヴァプールに行ってから、もう二週間が経っている。あれからはもうどこにもワープすることはなく、さすがに幻想だったのだろうと思うことにした。ぼくのリエ先輩や産業革命への異常な執着が見せた、いやにリアルな幻想――そう、幻想だったのだ。

「だよなあ」

 ぼくはそう自己完結して唇を尖らせた。

 隣のヒガシは両手の指で四角形を作って、カメラのようにしていた。

「いいねぇ。絵になるよな」

 文字通りお手製カメラというわけだ。ぼくは適当にうなずいた。

 すると、――おや、とヒガシは呟き、お手製カメラを下方向に向けた。

「……あれ、リエ先輩じゃないのか」

 え、とぼくは声を上げて、思わずそのカメラを覗きこんだ。その手の中には、確かにリエ先輩がいた。外の体育館裏を、独りテクテク歩いている。どうしてあんな所を歩いているのだろうか。

 ぼくが息を詰まらせるのと同時に、右肩にポンと手が乗っかった。

「行ってこいよ。どうせお前は会いたいんだろうに」

 親指のサインとウインクを送られて少々イラッときたが、ぼくはこの機会を逃したくなかった。素直にうなずいて見せる。

「……ああ、行ってくる」

 ぼくはヒガシにクルリと背を向けた。

 どうしてこんな時にワープが起きないんだ。空間限定でしてくれ、とぼくは心の中でボヤいたのだが、やはりそう都合良くはいかない。

 息も絶え絶えになりながら学校内を走り、下駄箱で靴を履き替えて、リエ先輩のもとへ向かう。汗が吹き出ないところに、季節の有り難みを感じた。

 体育館裏には、桜の木が一列に並んで植えられている。春の頃になるとその桜は綺麗に咲いて、学校中の生徒を引き寄せるのだが、シーズン外れのこの時期は誰も居ない。

 いつもなら、誰も居ないはずなのに。

「リエ先輩!」

 ぼくが呼び止めると、リエ先輩はビクッと肩を縮こませた。

 どうしたの、とリエ先輩は震える声で振り返ったのだが、ぼくはその顔を見て驚いた――目元は赤く腫れていて、いかにも泣いた跡を浮かべていたのだ。

「……先輩こそ……どうしたんですか」

 荒れた息を必死に整えながら言う。久しぶりにこんなに走った。

「……いや、なんでもないのよ。久しぶりね、十二月に会ったから……約二ヶ月半ぶりくらいかしら?」

「お久しぶりです、先輩」

 一体どうしたんですか、と続けると、リエ先輩は笑顔を見せた。

「なんにもないのよ……本当に」

「え、でも……」

 ぼくがリエ先輩の赤く染まる目元を指さすと、リエ先輩はそれを手でぬぐい、笑顔を桜の木たちへ向けた。

「ここはね、私の一番落ち着く場所なの。特にこの時期は最高。桜が今か今かと、咲くためのエネルギーを蓄えているのが目に見えるの」

 変わった趣向だが、別段今になって驚くこともない。リエ先輩が変わり者なのは理解している。リエ先輩が示した通りに桜に目を向けると、確かにそこにはたくさんの蕾がなっていた。

「……時空間を操ったら、その美しさはどうなるのかな」

 リエ先輩の声のトーンが下がり、ぼくは先輩に目を向け直した。

「……先輩、時空間論をどう思っていますか?」

 二人の白い息が浮かんだ。体育館裏を、思った以上に冷たい風が通り抜けていく。ここはどの場所よりも、数段寒かった。

 どうかな~、とリエ先輩は唇を尖らせた。でもその目は、どこかの幻想で見たような、崇高な輝きを発していた。

「……多分史学はもっともっと大変になると思うな。歴史という世界の繋がりの中で、その膨大な情報量を人類が上手く整理しきれるのかどうか」

「……真実は、分からないんですか?」

 リエ先輩は小さく笑った。

「ええ、解明されることも沢山。でも、混乱していくのも沢山。しかもそれは近代に近づいていくにつれ、ね」

「それは……」

 記録がより裏付けのある信頼されたものになっていく近代。にも関わらず、混乱とは。

 ぼくは唇を固く結んだ。

 風がビュー、ビュー、と吹いている。

「……知ることができないものも、あるの」

 リエ先輩がそう呟き、流れる涙を拭うのを見逃さなかった。

「……先輩どうしたんですか……」

「……いいえ。とってもありふれたことよ」



 3



 リエ先輩は何も語ってくれなかった。ぼくはいよいよ不思議になって悩んで、日課の図書室通いを怠った。ボーッとしてしまって、まるでゾンビのように帰り道を歩く。ヒガシには成果を聞かれたけど、何も報告出来ず、ヒガシは詰まらなそうにしていた。

 ――やっぱり先輩のこと、なにも分からない。

 悲しくなった。胸に重りが乗っかるみたいに、ぼくの心に襲いかかってくる。リエ先輩を求めても、答えを聞きたくても、結局は駄目だった。――ありふれたことって、なんなんだろう。

 冷たい風が体に染みた。澄んだ空気は、上空の星の輝きをさらに盛りたてる。出しゃばりの白線はこの時も存在していて、まるで天の川ようだった。

 産業革命当時には、見られなかっただろう風景だ。

 しばらく歩いて、やがてぼくは立ち止まる。

 高架下だ。

 二週間ここを歩いていても何も無い。もう幻想だと決めつけている。でもどうしてか心の奥底で、期待をしている自分がいる。刺激が欲しかったのかもしれない。でもその超常現象が、何とかしてくれると思っていた。

 暗くひっそりとした高架下で、ぼくはため息をつく。

「……リエ先輩……」

 頭上を、電車が通り過ぎていく――



 久しぶりの感じだ。久しぶりの心地だ。でも、やはり慣れないものがある。世界がまるで変わるわけだから、当然なのだけれど。

 しかし最初ぼくは目を疑った。その風景は現代そのもので、爆音も機械音も悲鳴も煙突もそこにはなかった。ただそこには机とイスが並び、沢山の人がいる。あの廊下を走った時の願いが、今叶えられてしまったのではないかと心配になった。

 そこは教室だった。ぼくの通う高校の、いつもの教室。

「現代。3年4組の教室」

 聞き慣れた声、ヒガシの声だ。でもそれが、ヒガシの声でないことは分かる。

「……お久しぶり」

「久しぶりだね。どうだい、元気だったかい?」

「屋上から突き飛ばされた時は死ぬかと思ったよ」

 ぼくは声を低くして言うが、あれしかなかったからさ、と男は微塵も反省していないようで、落ち着いて言う。ぼくはあきれるしかなかった。

「一体いつの時代なのさ、これは」

 ヒガシ似の男がぼくの隣に立ち、そして笑った。いつでもこの男はペッタンコの髪の毛をしていて、それでいて夏制服のままだ。

「……二ヶ月前だよ。少し、意外だったかな?」

 男の作ったような笑いも久しぶりだった。

「……ねえ、お前はあの白い線となにか関係があるのか?」

 奉天会戦の戦場にも行った。産業革命当時のリヴァプールにも行った。そして今度は、二ヶ月前の学校。思い返してみれば、奉天にもリヴァプールにも、白線はあった。不思議だ。白線の出現は一ヶ月前なのに。

「……さあ、一体何なんでしょう。ぼくはシステムだからね。よく分からないや」

 またも腑に落ちない答えを出され、ぼくは不満のため息を漏らす。

 教室はどうやらお昼時なようだ。ごった返す人々はぼくと男に興味も示さずに、それぞれランチを楽しんでいる。

「……ぼくらを認識しないのかな」

「そのはずだよ。奉天やリヴァプールでもそうだったじゃないか」

 そんなことに気づく余裕もなかった。どちらも現実離れしたような現実だったから。つまり、ぼくらはこの世界でのゲストというわけなのだろう。

 そんなごった返す教室の中で、独りサンドイッチを頬張る姿があった。

 リエ先輩だ。

「あ、先輩……」

 ぼくは目を疑った――どうして独りなんかで。どうしてそんなに、寂しそうに。

 リエ先輩の人柄を知る身としては、とても信じられない光景だった。むしろあの人は、人を集めるような存在なのに。先輩はうつむいて、昼食を食べている。

「……上村理恵。十八歳、だね」

 男はポケットに両手を突っ込んで、机に腰掛けた。その机で食事をする生徒はそれに意にも介さずに昼食を続ける。

「ついこの間まではクラスの中心のムードメーカーだったのさ。でも、こうなってしまった」

 淡々と話す男を、ぼくは睨む。

「……何でそんなことを知っているのさ」

 男はやれやれと首を振った。

「システムって言ったろう。知っていて同然なのさ」

 その崇高な目をぼくからリエ先輩へと移し、男はさらに続ける。

「……受験のこのシーズンともなると、人間関係も殺伐とするところがあってね。この教室にもその火種はあった。そしてそれは導火線に付いた火と同じで、いつかどこかに辿り着いて爆発するのさ」

 いつもの変わらない昼食の光景でも、裏側にはとんでもなく黒いものが渦を巻いている。そんなことは昔からあったことだ。ぼくの生まれたころにあったのなら、どうせ太古からあるに決まっている。人間の残虐の記録は、人間の醜さの記録でもある。

「彼女は友達を庇った――事実を述べるとしたらそうさ。その裏に例えどんな謀略があるかは知り得ないけれどね。とにかく、彼女は友達をその醜い攻撃から救った。そして、身をもって防いだ」

「先輩に謀略なんてあるわけない!」

 大声を上げても、男は涼しい顔をしていた。少しばかりを驚いたようだが、その表情はまったく変わらない。

「そんなことは誰だって分からないはずじゃないのかい。そういう固定概念は闘争を生むよ。日中日韓、トルコとギリシアを見てごらんよ」

 ぼくが押し黙るのを横目で確認したのか、男はさらにさらに続ける。

「身をもって防いだら、当然その身が盾となる――彼女はすぐに敗れてしまった。そしてご覧、この通りさ。彼女のしたことは、偽善の行為と言われた。醜い行為だとされた……そう、ありふれたことさ。いかにもありがちでありふれた、人間関係のほつれさ」

 ぼくは我慢できずに立ち上がり、リエ先輩に駆け寄った。しかし、それがすぐに無意味だと分かった。リエ先輩はもちろん、他の人は相変わらずぼくらに気付かない。

「……先輩……」

 リエ先輩があの場所で泣いていた理由なのだろう。リエ先輩は優しい人だ。溜まりに溜めた悲しみを、人目のないあの場所で吐き出していたのではないだろうか。

 あの泣き腫らした目。

「善悪の判断は難しいところにあるのさ。だから、客観的に見る限りは表面を摘み取ることしか出来ない――断定というのは極めて難しい」

「……どういうことだ」

 声が、震えていた。

 男はポケットから手を出すと、ぼくの肩に置いた。

「君が変えるんだよ。君が塗り替えれば、それは良いものになる」

 唐突にそう言われて、ぼくは焦ったが、二、三秒の沈黙の跡に、

「……無理さ。ぼくにそんな力は……」

  ぼくはうなだれて首を振るしかなかった。

男がぼくの肩をグッと掴んだ。信じられないくらい強かった。痛かった。

「……君の思うことを全て、ぶつけてみれば良い」

 言い放たれたその言葉に、ぼくは男を見た。その姿が一瞬ヒガシと重なって――と言っても大差はないのだが――何やら変な心地を覚える。

しかし、このヒガシ似の男の言う通りだ。ぼくが、それを塗り替えるしかないのだろう。善も悪も判断出来ないのなら、それを善に出来るように、せめて先輩の中だけでも、無理矢理やってみるしかない。

 ぼくは顔を上げて、うなずいた。

「――分かった」

 男は笑顔を浮かべただけだった。どこか、寂しさを感じさせる。

 男が何者なのか、時空間の移動が一体どうしてなのか、もうどうでも良かった。やるべきことがある。先輩はもうすぐ、卒業してしまうのだから。

 男の言うとおり、ぼくは目を閉じ、その時を待った。

 ――そしてぼくは、高架下に戻ってきた。溶けていくように、現実がぼくを覆っていくのが分かる。

 頭上を、電車が通り過ぎた。



 リエ先輩に会えたのは、卒業式の前日だった。その日、リエ先輩は体育館の裏で、蕾を眺めていた。暖冬と世間は言っているが、桜は未だに開花の予兆を見せていない。

「……先輩」

 あら、とリエ先輩は首を傾げてぼくを見た。

「どうしたの?」

 今回は、リエ先輩は泣き腫らしてはいなかった。しかしどこか曇った表情をしているのは分かる。

「先輩は、受験は……」

「もう終わったわ。あとは、合格発表を待つだけ」

 冷たい風が吹いた。リエ先輩は目を細め、悲しげな笑みを浮かべている。ぼくは拳を握りしめた。

「……先輩、あの十二月のこと、覚えてますか?」

「……ん?あ、ええ、インドの本はもう読み終わって――」

 違うんです、とぼくは三歩ほどだけリエ先輩に歩み寄る。

「……あの時……十二月に会ったとき、高架下で言ったこと、教えてほしいんです。電車が通った時……聞き取れなくて」

 腕を組んだリエ先輩はしばらく考え、やがて声を上げた。

「あぁ、あのことね!確か歴史観の話よね~……」

「はい、あの時に言ったことです」

 リエ先輩はフフッ、と髪の毛を揺らして笑った。制服のリボンも、風で揺れる。

「……私もね、あなたと同じように、悩んだ時期があったの。歴史の良いこと悪いことって、判断しちゃうのよね……」

 歴史を通してぼくと先輩は出会った。いつもリエ先輩は、ぼくを温かい目で見てくれていた――それを思い返すと、自然と瞳も潤んでくる。

 リエ先輩は、息を吸って、さらに続ける。

「でもね、こう考えることにしたのよ」


 ――全部、今に繋がっているんだ、て。


 その時、ぼくの頭の中を何かが駆け巡った――奉天・リヴァプールでの男の話、ヒガシの歴史観、先輩の話、男との教室での話――全てに合点が言った。全部、結びついた。

 そうか、ぼくは善悪に囚われていたんだ。歴史学を、そんな観点からしか見ることが出来ないと思っていた。

 全て、今に繋がっていく。その出来事が例え悪いことであったのなら、それを教訓にぼくらは学ぶことが出来る。例え善であったのなら、ぼくらはそれをさらに活かそうとすることが出来る。過去に善悪の判断は出来ない。今生きることに活かさなくて、何が歴史学だ。

 産業革命は、今のぼくらの生活を形作る、革新的な出来事だった。そこから発展した世界は、今へ今へと繋がっていく。それに伴って発生した惨劇は、全て改善の材料なのだ。

 ――そして、いずれ今も、何かのための経路になっていく。

 そうだ、だから全部、そうなんだ。

 ぼくは、リエ先輩の経路になりたい。

「先輩のも、何かに繋がっていくと思うんです」

 リエ先輩が驚いたような顔を見せたが、ぼくは気にせずに続ける。こうなればヤケだ、特攻だ。

「ぼくは先輩の味方です。先輩の今は、何か幸せに繋がっていく今になると思うんです――だから……その……大丈夫というか……」

 握りしめた拳、そして震える声。潤んだ目が、ぼくの口を抑えようとしている。結局何も力になれることなんて言えてないじゃないか。

 風がやけに冷たい。

「――大丈夫よ。わかっているわ」

 リエ先輩が、ぼくに微笑みかけた。ぼくは何も言えず、非力を感じながらうつむく。

「あなたの言う通りだわ。ありがとう」

 ぼくは大きく息を吸い、深く頭を下げた。

「……先輩、本当にありがとうございました。歴史をぼくに教えてくれて……歴史を一緒にやってくれて……」

 あまりの声の震えに、自分自身も驚く。

 リエ先輩の手が、ぼくの肩にふれた。

「……頑張ったわね。大丈夫よ、あなたがそんなに思ってくれるのなら」

 やがて一滴の雫が、地面に落ちた。泣いた顔を見せたくなくて、ぼくは頭を上げられない。過去は変えられない。だから良いことで塗り重ねようとした――励ましになったのかな。

自分の気持ちを伝えた。明日去っていく恩人への感謝を。そしてその気持ちを――リエ先輩への思いを。

 幸せにします、とまでは言えなかった。二ヶ月前の教室で男に言われたあのことは、そのまま実現出来なかったような気もする。でも、見とけよ幻想の男。お前が何者かは知らないが、お前との約束は果たす。

 一歩踏み出すことは、できるのだ。

 今か今かと春を待ちわびる桜の下、ぼくは勇気を振り絞って、涙をなんとか拭って、言った。



「メールアドレス……交換しませんか?」




 空には相変わらず、ヤツが横たわっている。これからは、新しい世界のシンボルになっていくんだろう。

――時は流れていく。

そんな『常識』が崩れつつある世界での、小さな小さな経路の話。




 どこかでヒガシが、男が、笑っている。


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