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ある洋菓子店、下っぱ従業員の日常  作者: くろくろ
ショコラに添えて
33/40

ザッハトルテと憧れの。

追加分のアントルメを冷蔵庫に仕舞う。

そのときに目に付いた予約伝票を、何の気なしに見詰める。


名前の様な名字のお客さんが注文したのは、バレンタイン期間限定のハート型ザッハトルテだ。

メッセージが『HappyBirthday』と、名前の入ってない素っ気ないものだから、そのまま誕生日用のものなのだろう。


ハート型…は、ないから普通の型で焼いたチョコスポンジをハート型に切って、アプリコットジャムを挟んで、グラサージュを掛けて完成されたザッハトルテは、シンプルだけどその分、誤魔化しが効かない。

私のトリュフとは違って。


コンコン


窓がノックされて、姫先輩がこちらを覗き込んでいる。

冷蔵庫前に私がいることに気付いた姫先輩は、ぺしっと窓に伝票を張り付けた。

伝票の色がお客さんの控えだから、たぶん受け取りに来たのだろう。

伝票の名前を確認して、商品を渡しに行く。

ちょうど今見ていたザッハトルテのお客さんが、来店されたらしい。


「いらっしゃいませ、こんにちは」


挨拶しながら店頭に出ると、そこにはいつもと同じくスーツ姿の常連さんがいた。


「こんにちは」


にこやかに挨拶を返す彼は、普段後輩くんと来るよりずっと早い時間に来店してる。

…そういえば、この予約を受けたのは姫先輩らしく、今日の朝もこの伝票と私を見てはにやにやしてたな。

常連さんからのケーキの予約は、今日がはじめてだし、私用で使うらしく、自分の名前での注文だ。

前々から気にしてた名前を知り、それで私をからかうつもりだったんだな。

そう思って姫先輩を軽く睨むけど、何故か睨む前から彼女はしょげていた。

理由はわからないけど、申し訳なさそうに私を見る。


「あっ、それが予約してくれてた奴?」


可愛い声がして、店内にいたお客さんがこちらにやって来た。

姫先輩よりも少し年上位の女の人で、ショートボブが似合う可愛い人だ。

…その顔を見て、私はドキッとした。

動揺したけど女の人はそれに気付くことなく、常連さんの腕に自分の腕を絡めて、私の手にあるケーキを見ている。


「ご確認、お願いします」


ケーキを箱から出し、商品とメッセージを確認してもらう。

その間も、女の人の視線はケーキと…何故か私から離れない。


「こちらでよろしいですか?」


常連さんに聞くと、彼は困った顔で女の人を見下ろした後、頷いた。

素早く丁寧に、箱にケーキを仕舞って袋に入れる。


「ねぇ、今日は部屋にいってもいい?」


後ろの会話に一瞬、手が止まる。

心臓の音が、外に漏れ聞こえている気がして咄嗟に胸を押さえたが、厚手のコックコートとエプロンの上からじゃ、何の意味もない。


「今日は予定がある」


「え〜。じゃあ、ケーキが食べ終わるまででいいからさ!」


断られてるのに、食い下がる女の人。

常連さんの断る声は冷たいけど、腕は振り払うこともしないでそのままだ。

仲良いなぁと思うけど、自分が兄貴にしている姿を想像してぞわっとした。

きっ、気持ち悪い。


「貴崎さん、お会計お願いします」


「へっ?あっ、うん」


気の抜けた返事に、姫先輩は今までぼんやりしていたのだと思った。

今日、バレンタインだからと気合いを入れていたからそのことでも考えていたのかもしれない。

仕事して下さい。


常連さんが会計をし、やっと腕を解放した女の人がケーキを受け取るらしく、私の前に立つ。

常連さんを見てニヤッと笑っているけど、可愛さを損なわないってどんだけすごいんだよ。


「ふーん、あなたってパティシエなの?」


女性洋菓子職人をパティシエールというけど、普通はパティシエって呼ばれてる。

たったふたことだけど、それって何でだろう…って、現実逃避してみた。


ケーキを持つ手をキープしつつ、頷く。

女の人は、私の頭からカウンターから見える腰までを見てるけど、私は気が気でない。

店頭に出る前に払ったけど、エプロンがココアを使ってたから汚れてるかもしれないのだ。

あまり見ないで欲しい。


「そう。頑張ってね?」


上から下まで見終えた女の人は、私に向かって微笑んだ。

常連さんに向けたあの、意地悪そうな顔じゃなくて、優しそうな笑顔。

その笑顔と優しい言葉に、つい沸き上がるものを抑えられなくなってしまった。


ケーキを受け取った女の人に、前のめりになりそうな身体を抑えながら何とか言葉を口に出す。


「おおおお仕事、頑張って下さい。応援してますっ!」


うわぁっ、緊張し過ぎてどもった!!

恥ずかしい、恥ずかし過ぎる!

内心では混乱して『うわああぁぁっ』ってなってる私だけど、日々の接客で培ってきた笑顔を全面に頑張って出す。


「…私、別に有名人って訳じゃないよ?でも、ありがとう。頑張るわ」


もう1度、にっこり笑い掛けてもらったよ!!

私ごとき下っぱに馴れ馴れしく、『頑張って』なんていわれたのに。


じんわり余韻に浸っていると、彼女の横の常連さんが、『だから、連れてきたくなかったんだ』と呟いた。

もしかして、私のせい?


「ありがとうございました!」


いつだって、お客さんが帰るときは感謝の気持ちを込めて送り出してる。

今日は特に、気持ちがこもってるのは気のせいです。


「ラッシー、大丈夫?」


ふたりを送り出して、姫先輩は恐る恐る声を掛ける。

私の態度、やっぱりおかしかったのかと思ったけど、彼女が気にしてたことは別のことだった。


「ごめんね…煽る様なこといって。あの常連さんに付き合ってる人がいるなんて、考えてなかったよ」


ん?確かに、煽ってきてたけど、今ここで謝ることじゃないような。


「でも、何か上から目線っていうの?ジロジロ見てたし、感じが悪いっていうかさぁ」


「感じ悪くないですよっ!」


思わず、大きな声を出してしまい、姫先輩は後退る。


「視線はどうだか知りませんが、上の立場ですよ。さっきの人は有名な賞をいくつも取った、パティシエールの結城(ゆうき)(りつ)さんです!」


前に探してた雑誌は、彼女の記事が載っていたのだ。

律さんは、ザッハトルテやオペラなどのチョコケーキが有名だけど、誕生日がバレンタインだからかなぁ?

常連さんが買ったバースデーケーキは、律さんのためのものみたいだし。

大将のザッハトルテ、気に入ってくれたらいいな!


「結城…律。予約した常連さんの名前は…あぁ」


何やら、納得している姫先輩。

うー、律さんのことに関しての反応が薄過ぎますよ!



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