第7話:沈黙の脱衣所、不在の検品
「……先に、お風呂入ってきちゃえば? ご飯、温め直しておくから」
香織はテレビに目を向けたまま、感情のない声で言った。いつも通りの、会話の乏しい夜。隆は「ああ」と短く答え、逃げるように浴室へ向かった。
脱衣所で服を脱ぎながら、隆は細心の注意を払う。
(よし、首の痕は鏡で見ても、石鹸でこすれば少しは引くはずだ。……スマホは、このスラックスのポケットの奥に。通知はオフにしている……)
浴室にシャワーの音が響き始める。隆は熱い湯を浴びながら、首筋の「麗華の痕」を執拗にこすった。
一方、リビング。
香織は夫が浴室に入ったのを確認すると、手に持っていた雑誌を静かに置いた。
彼女はキッチンへ向かうふりをして、脱衣所のカゴに放り投げられた隆のワイシャツに近づく。
かつては愛した男の服。今は、得体の知れない「不快感」を放つ布切れでしかない。
香織は指先で、襟元をなぞった。
「……やっぱり」
うちの洗剤ではない、華やかで少し甘すぎる柔軟剤の匂い。そして、首元のボタンの隙間に絡まっていたのは、昨日の水色とも違う、淡いピンクの細い繊維。
香織はそれを鼻に近づけ、冷たく目を細めた。
さらに、彼女の視線はスラックスのポケットへと向かう。隆が隠したつもりでいるスマホ。画面は真っ暗だが、彼女はそれを手に取ることはしなかった。
(今はまだ、中身を見るまでもないわ……)
彼女が探しているのは「証拠」ではなく、隆がいつ自爆するかという「タイミング」だった。
浴室から隆が出てくる。
「……ふぅ、さっぱりした。香織、次は入っていいよ」
香織は、キッチンで何事もなかったかのようにレンジのタイマーを回していた。
「そう。……ねえ、隆。さっき洗濯機に入れようとしたら、あなたのシャツ、なんだかすごく『若い女の子』が好むような匂いがしたわよ。最近の加齢臭対策って、あんなに甘いの?」
レンジの「チン」という無機質な音が、静かな部屋に異様に大きく響いた。
隆はバスタオルを握りしめ、濡れた足元が凍りつくような感覚に陥った。
「え、あ……ああ。最近の汗拭きシートって、結構匂いが強いのが多いからな。営業先で失礼にならないように、多めに使っちゃったかも」
「……そう。気をつけなさいね。あまり変な匂いさせてると、周りに勘違いされちゃうから」
香織は一度も隆と目を合わせることなく、温まった皿をテーブルに置いた。
バレていない。いや、核心は突かれていない。
だが、隆は自分のついた嘘が、砂上の楼閣のように脆いものであることを痛感していた。




