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第6話 逃避行の残り香、静かなる断罪

麗華さんのマンションは、俺の家から歩いて十分ほどの距離にある。

 この「歩いて十分」という距離が、俺を狂わせる。妻に「ちょっとコンビニまで」と嘘をつき、足早に彼女のもとへ向かう道中、俺の心臓は常に早鐘を打っていた。


 麗華さんとの情事を終え、俺はコンビニのトイレで安っぽい石鹸を使い、何度も手を洗った。

 だが、鼻腔の奥にはまだ、あのピンクのブラジャーから漂っていた甘い香りと、浴室の熱気がこびりついているような気がしてならない。


「ただいま」


 重い足取りでリビングに入ると、香織がソファーで雑誌をめくっていた。

 彼女は顔を上げると、ふっと目を細める。


「あら、随分と長かったわね。……コンビニに行くだけじゃなかったの?」


「あ、ああ。途中で会社から電話があってさ。静かな公園のベンチで対応してたら、こんな時間になっちゃった。ほら、頼まれてた洗顔料」


 咄嗟についた嘘とともに、レジ袋を差し出す。香織はゆっくりと立ち上がり、受け取るついでに俺のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

 そして、獲物を定めるような仕草で、俺の首元に鼻を寄せる。


「……公園。どこの? うちのシャンプーとも、あなたの香水とも違う匂いがするわね」


 香織の指先が、俺の項をなぞる。その指が氷のように冷たくて、俺は思わず身を震わせた。


「……なんだろう。この、ちょっと安っぽくて、でも女の人が好きそうな……甘いフローラルの匂い。最近の公園は、そんな香りがするのかしら?」


「……気のせいだよ。誰かの残り香じゃないか?」


「そう。……ねえ、隆。さっきからあなたのスマホ、ポケットの中でずっと震えてるわよ。さっきの『会社の人』からじゃないの? 出なくていいの?」


 スマホを握りしめる手に力がこもる。画面は見られていない。だが、この異常な頻度の通知が、香織の疑念を確信に変えていくのが分かった。


「……後でいいよ。大した用じゃないから」


「ふふ、そう。……隆、あなた今日、なんだかいつもより優しいわね。……何か、私に後ろめたいことでもあるの?」


 香織は俺のワイシャツの胸元に手をかけ、シワを伸ばすふりをして、ゆっくりと顔を近づけてきた。


「今夜は、その『公園の匂い』が消えるまで、ゆっくりお風呂に入りましょうか。……私が、あなたの体、隅々まで洗ってあげる」


 香織の瞳には、逃げ場を奪うような、暗く深い光が宿っていた。

 ポケットの中で、またスマホが震える。麗華さんからの、終わりのない誘惑。


 目の前で、静かに牙を剥き始めた妻。

 そして、数分歩いた先のマンションで、俺を独占しようと企む隣人。

 俺の火遊びは、もう自分一人では消せないほどの業火となって、日常を焼き尽くそうとしていた。

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