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第15話:偽りの隣人、蜜の共同体 (最終話)

 嵐のような一夜が明け、窓から差し込む朝日は、かつてないほど無慈悲で明るかった。

 リビングには、昨夜の狂乱の証拠が点々と残っている。


 しかし、そこにいたのは、互いに罵り合う男女ではなかった。


「……隆、ネクタイ曲がってるわよ」


 香織が、鏡の前でぼんやりと立つ隆の襟元を整える。その指先には、昨夜雅也に強く抱かれた時にできたであろう、薄い痣が残っていた。だが、彼女の表情は驚くほど穏やかで、まるで新婚当初のような慈愛に満ちている。


「あ……ああ。ありがとう、香織」


 隆の返事も、どこか虚ろだ。彼は昨夜、妻が別の男に喘ぐ姿を特等席で見せつけられた。そのショックと、それでも自分の中に芽生えた異常な興奮を、一生消えない刻印として魂に刻んでいた。


 ピンポーン。


 爽やかなチャイムが鳴り、玄関を開けると、そこには「完璧な笑顔」を湛えた高岡夫妻が立っていた。


「おはようございます、佐藤さん。昨日はゴミの出し方の相談で夜遅くまで失礼しました。これ、お詫びのコーヒー豆です」


 雅也は、昨夜隆を床に組み伏せた男とは思えないほど、理知的で温和な声を出す。その横では、麗華が清楚なワンピースに身を包み、控えめに微笑んでいた。


「まあ、ご丁寧にありがとうございます。ちょうど朝食が終わったところなの。……ねえ、よければ皆さんで一杯いかが?」


 香織が麗華の手を取り、キッチンへと招き入れる。

 女二人が笑い合いながらコーヒーを淹れる背後で、男二人は視線を交わす。


「……佐藤くん。次は週末の夜、うちのベランダで『飲み会』をしよう。君の奥さんも、楽しみにしていたよ」

 雅也が隆の肩を叩く。その掌の熱さが、隆に「逃げ場はない」ことを再認識させる。


 コーヒーの香りが漂う中、四人はテーブルを囲んだ。

 テーブルの下では、麗華の足が隆の脛をなぞり、香織の足は雅也の膝を愛撫している。


 社会的には「仲の良い隣人」同士。

 しかし、その内実はお互いの配偶者を交換し、肉体の熱だけで繋がった、壊れた者たちの共同体。


「……ああ、美味しいコーヒーね」


 香織が微笑み、隆の手に自分の手を重ねる。

 その手は冷たく、それでいて火傷するほど熱かった。


 隆は悟る。

 もう、あの「乾いた寝室」には戻れない。

 自分たちは、この美しい地獄の中で、骨の髄まで吸い尽くされながら生きていくのだ。


 ドラッグストアで手にしたあの『赤い誘惑』は、日常を焼き尽くし、真っ赤な欲望の果実へと姿を変えていた。


(完)

あとがき

 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

 本作は「身近に潜む背徳感」と「日常が崩壊していく美しさ」をテーマに執筆いたしました。


 最初は、レスに悩む真面目な男・隆が、ドラッグストアで手にした小さな『赤い誘惑』。それがまさか、隣人夫婦を巻き込み、妻を覚醒させ、自分たちの人生をこれほどまでに歪めてしまうとは、書き始めた当初の彼も予想していなかったことでしょう。


 特に、後半の香織の変貌ぶりには、作者である私自身も驚かされました。単なる被害者で終わらず、復讐を快楽へと昇華させ、雅也と手を組むことで主導権を握っていく彼女の姿は、ある意味でこの物語の中で最も力強い「救済」だったのかもしれません。


 四人が笑いながらコーヒーを飲むラストシーン。

 一見すると平和な風景ですが、テーブルの下では互いの配偶者を奪い合い、肉体の繋がりだけで均衡を保っている……。そんな「狂った日常」こそが、本作で描きたかった究極の背徳の形です。


 読者の皆様の中に、少しでも「ぞくり」とするような興奮や、拭いきれない違和感のようなものが残ったのであれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。


 また別の物語でお会いできることを楽しみにしています。

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