第10話:残像のピント、震える逃走路
「……香織、なのか……?」
隆の声は、乾いた風に消えた。
植え込みの向こう側、先ほどまで確かに誰かがいた気配だけが、冷たく残っている。
「どうしたの、隆さん……? もっと、余韻を楽しみましょうよ……」
麗華が乱れた髪をかき上げ、とろけたような瞳で隆にすがりつく。だが、隆の脳内では、先ほどの「シャッター音」が耳鳴りのように鳴り止まない。
急いでズボンのファスナーを上げ、シャツのボタンを掛け違えたまま留める。
「麗華さん、悪い、行かなきゃ。今……誰かに見られたかもしれない」
「誰かって……まさか、奥さん? ふふ、いいじゃない。バレたらバレたで、あなたは私のものになるだけでしょ?」
麗華の指先が隆の頬をなでる。その無邪気なまでの狂気に、隆は初めて底知れぬ恐怖を感じた。彼女にとって、この不倫は単なる火遊びではなく、自分の人生を奪い去るための聖戦なのだ。
隆は彼女の手を振り払い、公園の出口へと走り出した。
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オフィスに戻っても、仕事など手につかなかった。
パソコンの画面を見つめていても、浮かんでくるのはレンズ越しに自分たちを捉えていたであろう、香織の冷ややかな視線の想像図だ。
(もし本当に香織だったら……。いや、でも彼女は今、会社で会議のはずだ。見間違いだ、そうに決まっている)
自分に言い聞かせながら、何度もスマホをチェックする。しかし、香織からのメッセージは一通も届かない。
代わりに、麗華から真っ赤なハートマークと共にメッセージが届く。
『また中に出してくれてありがとう。お腹の中が、ずっとポカポカしてるの。今夜、主人が急に出張になったわ。……家に来てくれるわよね?』
隆はスマホを机に叩きつけた。
逃げ場がない。妻の無言の圧力と、隣人の剥き出しの情欲。その板挟みで、胃がキリキリと痛む。
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その日の夜。
隆は最大限の警戒を持って帰宅した。
玄関を開けると、家の中は暗く、静まり返っている。
「……香織?」
返事はない。リビングへ向かうと、ダイニングテーブルの上に、一台のデジタルカメラが置かれていた。
隆の心臓が、喉から飛び出しそうになる。
震える手でカメラを手に取り、再生ボタンを押す。
液晶画面に映し出されたのは、真っ昼間の公園。
生垣の陰で、女を背後から激しく突き上げ、口を塞いで悦びに顔を歪ませる、自分の醜悪な姿だった。
何枚も、何枚も。
麗華の真紅のパンティが剥ぎ取られる瞬間も、白濁した液体が彼女の太ももを伝い落ちる瞬間も、すべてが鮮明なピントで記録されている。
「……綺麗に撮れてるでしょ?」
背後の暗闇から、香織の声が響いた。
振り返ると、彼女はキッチンで包丁を研いでいた。シャリ、シャリ、と規則正しい音が、静かなリビングに呪いのように反響する。
「隆。……私、決めたわ。あなたがそんなに『生身の熱』が欲しいなら……私が、あなたの望む以上の熱を、与えてあげる」
香織がゆっくりと顔を上げる。その瞳には、かつての愛の欠片もなく、ただ暗く澄んだ狂気だけが宿っていた。
「さあ、服を脱いで。……その女の匂いがついた皮膚、私が全部、綺麗にしてあげるから」




