聖女セシリア
悪魔が去り、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。
途端、抑え込んでいた恐怖が濁流となって押し寄せ、私の体を激しく震わせる。
「……あぁ……っ」
痛む心臓を押さえ、私は冷たい床に崩れ落ちた。涙が溢れて止まらない。けれど、その涙は絶望の色ではなかった。勝った。守り抜いた。その事実だけが、遠のきそうになる私の意識をこの世界に繋ぎ止めていた。
……………………。
どれほどの時間、そうして泣き崩れていただろうか。
やがて、静寂を破って複数の足音が近づいてくる。迷いのない、確かな足音。
その音は、私のすぐ目の前で止まった。
「セシリア」
聞き間違えるはずのない、愛しい人の声。
恐る恐る顔を上げると、そこには優しい笑みを浮かべたアルカード様が立っていた。瞳の奥に宿っていたあの暗い影は消え、清らかで高潔な魂を取り戻した、本来のアルカード様の姿がそこにあった。
「アルカード、様……」
彼の後ろには、呪いから解き放たれたリアム、ミレーヌさん、マダム・ヴェノマ。そして、翼を力一杯羽ばたかせる相棒のピピン。さらには、あの白いうさぎから元の姿へと戻った、知性溢れる賢者の姿もあった。
さらにその後ろには、かつてこの城の一部となっていた大勢の人々が、本来の姿で、穏やかな笑顔を浮かべて並んでいる。
そして本来の美しい城の光景。
アルカード様が静かに手を差し伸べてくれた。私はその手を取り、ふらつく足で立ち上がろうとする。けれど、酷使した体は思うように動かず、バランスを崩して倒れそうになった。
その瞬間、アルカード様の強い腕が私を優しく、力強く抱き寄せた。
「セシリア、ありがとう。……君が、私を、皆を、そして世界を救ってくれたんだ。君は紛れもない聖女だよ」
「セシリア! ありがとう!」
「聖女様、感謝いたします!」
仲間たちの、そして城の人々の祝福の声が幾重にも重なって響き渡る。
アルカード様は私を愛おしそうに見つめると、耳元で静かに囁いた。
「セシリア……本当にありがとう。心から、愛している」
重なる唇。それはとても長く、これまでの苦しみも、痛みも、すべてを溶かしていくような温かなキスだった。
「ヒュー! ヒューッ!」
ピピンの冷やかし混じりの歓声が響き、続いて城中を揺らすような、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
止まっていた時間が、今、最高に幸福な音を立てて動き出した。
私は、自分を信じてくれたすべての人々の笑顔に囲まれながら、ついにこの城の長い夜を終わらせることができたのだ。
〜 END 〜
最後まで読んでいただき、ありがとう御座いました。
悪魔が去り、呪いの霧が晴れた城には、数十年ぶりに「本当の朝」が訪れた。
窓から差し込む黄金色の光は、もはや冷たく歪んだものではなく、生きとし生けるものを等しく温める慈しみの光。城の住人たちは、自分たちが石や動物であった頃の記憶を、まるでおぞましい悪夢から目覚めた時のように語り合い、失われた時間を取り戻すべく活気に満ち溢れている。
アルカード様は、城主としての責務を果たしながらも、その表情からは常に険が消えていました。彼は私の手を取り、かつて絶望の象徴だった「あかずの間」を、今では美しい展望室へと作り変えたのです。
「セシリア。あの日、君が言ったという言葉を覚えているかい? 『悪魔が人間を愛したとき、そこは地獄ではなくなる』と。……今、この場所は、私にとっての天国だ」
彼と並んで見る朝日は、涙が出るほどに美しく、私たちの新しい物語の始まりを告げていました。
――
呪いが解けてから数週間後。平和が当たり前になってきた頃、庭園には笑い声が絶えません。
「セシリア! そのスコーン、私の分も残しておいてよね!」
ピピンは相変わらずの食いしん坊ですが、今ではアルカード様から特別に贈られた「金色のリボン」を首に誇らしげに巻いています。
「もう、ピピン。淑女のお茶会を邪魔しないでちょうだい」
そう言って笑うのは、本来の美しい貴婦人の姿に戻ったミレーヌさん。傍らではリアムが完璧な手つきで紅茶を淹れ、ヴェノマさんは相変わらず不思議な薬草の話を賢者(元うさぎ)と楽しげに議論しています。
私は、かつてガゼルの蹄に変わりかけていた右手をそっと眺める。今では傷一つない、柔らかな人間の手。
アルカード様が背後からそっと私の肩を抱き、私の手の上に自らの手を重ねてくれる。
「今日は最高の休日だな、セシリア」
「ええ、本当に……。でも、こうして皆で笑い合える毎日が、私にとっては最高の贈り物です」
そよ風が吹き抜け、庭園の木々がさらさらと歌うように揺れる。
悪魔に勝ったのは「論理」だったかもしれないけれど、この場所を守り抜いたのは、間違いなく私たちの「愛」と「絆」でした。
でも明日はエランディア国の、少し変わりものという王太子夫婦が来られるという。
でもラドバールと対峙した私にとって、もはや怖いものはこの世にない。




