首席代書官
ロゴスではなかった。
目の前に鎮座するのは、地獄の首席代書官。
あまりに絶望的な格の違いに、喉の奥が引き攣る。教皇様がかつて、震える声で仰っていた。「奴は倒すべき敵ではない。遭遇した瞬間に、君たちの物語が強制的に『完結』させられる……抗いようのない決定事項なのだ」と。
地獄で最も狡猾にして、智を極めた悪魔が、今、私の目の前にいる。その事実を、心の一部がまだ受け入れられずに拒絶していた。
「さあ、セシリア。挨拶といこう。目の前にある天秤を見たまえ。……道化師は嘘で人を救い、騎士は真実で人を殺す。では、『100人の命を救うために、1人の無実な者を私に捧げる』という天秤があれば、君ならどうする?」
ラドバールの声が、数千の亡者の溜息のようにフロアを揺らす。
こいつはただの悪魔じゃない。論理そのもの、理そのもの。けれど、どこまでも穢れきっている。正解を求めてはいけない。こいつの「意図」を見抜かなければ、魂ごと飲み込まれる。
私は深く、肺の奥まで空気を吸い込んだ。そして、目の前の天秤を手に取り、迷うことなく地面に叩きつけた。
乾いた音と共に、恐怖や迷いが一気に吹っ切れていく。けれど、高鳴る鼓動だけはどうしても静まってはくれない。巨大な喋る紙切れの塊、ラドバールを見上げる。
「悪くないな。賢者を自称したあの哀れなうさぎは『それが最も合理的だ』と言い、アルカードは『私には選べない』と言ったよ」
「『合理的な犠牲』という論理は、あなたたち悪魔の得意分野でしょう? 聖女ならそれくらいは知っているわ。その計算に乗った時点で、私はあなたに負けたも同然だもの」
私の答えに、無数の瞳が怪しく光る。
「正しいと理解していても、それを口に出すのは知性だけでは補えないものだ。……しかし、ルールには従わなければならない。それはお前ではなく、城の彼らが自ら結んだ契約だからだ。彼らを解放してほしければ、私の遊戯に従うしかない。どうする? このまま去るのなら、止めはしないがね」
私の意志に、もう一滴の曇りもなかった。
「受けて立つわ。でも約束しなさい。必ず私と彼らを解放すると。……さあ、始めなさい」
悪魔に対して願いを乞うてはならない。強い意志を示し、命令形で相対する。それが聖女としての、私の矜持。
「ハッハッハッハッ! 楽しませてくれるというのなら、構わない。私はゲーム(論理)が好きでね。特に、魂を賭けた最高に不敬なゲームが。……では、さっそくいこうか。聖女セシリア」
ラドバールの頁が、地獄の業風に煽られるように、激しくめくれ始めた。




