少しわがままな聖女
アルカード様が指先を鳴らすと、廊下の向こうから「服だけ」が歩いてきた。
燕尾服を完璧に着こなしているのに、首から上も、手袋の隙間も、中身は空っぽ。影さえも薄い、魔法の執事。
「セシリア。この城では、君の望みこそが絶対だ。何なりと命じるといい」
アルカード様の甘い許しを得て、私はふわふわと宙に浮くソファに深く身を沈めた。
目の前には、リアム……まだ名もなき執事が、食後のティーセットを運んでくる。
注がれたハーブティーは、見事なまでに二層に分かれていた。
上半分は、目が覚めるほど透き通った瑠璃色。
下半分は、ドロリと沈むような、致死量の毒を思わせる禍々しい漆黒。
「まあ、素敵……。少しだけ、肩が凝ったの。揉んでくれるかしら?」
私がそう口にすると、姿なき執事は音もなく私の背後に回り、丁寧な手つきで肩を解し始めた。体温のない、けれど確かな感触。
「次は、あそこの窓を開けて。それから、その辺りを飛んでいるカーテンを少し短く結んでちょうだい」
次々と気まぐれに頼みごとを重ねる私。
姿なき執事は、そのたびに服を翻し、魔法のように素早く、完璧に私の望みを叶えていく。
『私の中の悪魔を呼び起こして……私が壊れていく。なのに、それがとても心地よい』
かつての私が「わがまま」だと忌避した振る舞いさえ、今の私には最高の遊戯。
ふと、私は背後の気配に見上げるように問いかけた。
「ねえ、あなた。……お名前は?」
一瞬、執事の動きが止まった。
姿は見えないけれど、彼が驚きと困惑に立ち尽くしているのが空気で伝わってくる。
感情を持たないはずの魔法の残滓が、初めて「個」として認められたことへの戸惑い。
「……私の、名でございますか。……恐れ多くも、主より頂いた名は『リアム』と。ただの影に過ぎぬ私を、そのようにお呼びくださるのですか」
「ええ、リアム。素敵な名前ね。よろしくね、リアム」
私がその名を呼んだ瞬間。
中身のないはずの彼の燕尾服が、内側から淡く、銀色の光を放った。
まるで私の言葉が新しい命の灯火になったかのように、彼は深々と、誰よりも美しく膝を折った。
「御意のままに。セシリア様。私の魂は、今この時より、あなた様のものにございます」
その様子を、アルカード様は満足そうに、けれどどこか飢えた獣のような瞳で見守っていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、私の手を取る。
「……リアムにも、新しい役割ができたようだ。だがセシリア、夜はまだ始まったばかりだ。君に、どうしても見せたいものがある」
彼が私を導く先は、城のさらに深奥。
そこには、この世界の誰も知らない、そしてセシリアをさらなる「深淵」へと叩き落とす光景が待っているようです。




