名前の刻印
燃え上がるレストランの残骸を背に、私たちは夜の静寂を切り裂いて進んだ。
辿り着いたのは、雲を突き抜けるほど高く、天の川をその身に纏ったような黒真珠の城。
「……静かですわね、アルカード様。人の気配が、全くしないけれど」
私が囁くと、彼は重厚な黒檀の扉を、指先ひとつ触れずに開いてみせた。
「当然だよ。この城には、私たち以外の『不純物』は必要ない。君を迎え入れるために、すべてを掃い清めておいたんだ」
城内に足を踏み入れた瞬間、私の吐息は驚きに震えた。
そこは、物理の法則が愛に屈したような、幻想的な光景が広がっていたから。
豪華なシャンデリアは天井から解き放たれ、まるで深海の海月のように優雅に宙を漂っている。ベルベットのソファや、金細工のチェスト、美しい絵画たちまでもが、目に見えない魔法の奔流に乗ってプカプカと浮かび、ゆっくりと円を描いて踊っている。
「まあ……なんて自由で、美しい景色。まるで世界そのものが、重力から解き放たれて喜んでいるみたい」
私は、自分の足元さえもおぼつかなくなるような感覚に陥った。
いいえ、足元が浮ついているのは、魔法のせいだけじゃない。
『あなただけが、私を感じさせてくれる。……周囲の忠告が風のように通り過ぎていく』
宙を舞う花瓶から零れた一滴の水が、真珠のような粒となって私の目の前を通り過ぎていく。私はそれを指先で弾き、うっとりと笑みを浮かべた。
正気を失うということは、こんなにも心が軽やかになることだったなんて。
その時、背後からアルカード様の長い腕が私の腰を抱き寄せた。
彼の冷たい、けれど情熱を秘めた唇が、私の耳朶を微かに掠める。
「……ようやく、二人きりだ」
その低い声が、私の魂の奥底まで振動させた。
彼は、今まで一度も口にしなかった「禁断の鍵」を回すように、初めて私の名を呼んだ。
「セシリア。愛しい、私の絶望。……改めて、ようこそ。君が壊れ、新しく生まれるための『揺り籠』へ」
名前を呼ばれた瞬間、私の中で「かつての私」を繋ぎ止めていた最期の糸が、ぷつりと切れた。
自分の名前が、彼の唇から溢れるだけで、こんなにも甘く、卑猥な響きを持って私を支配するなんて。
『私をひざまずかせて……。私が壊れていく。なのに、それがとても心地よい……』
「もう、あの方たちが呼ぶ私の名前なんて思い出せませんわ。アルカード様、あなたの声だけが、私を形作っていく……」
私は宙に浮くソファへと導かれ、現実感を失った空間の中で、彼という深い深淵に身を沈めていった。
城の外で世界が滅びようとも、今の私には、この浮かぶ家具たちの円舞曲こそが真実だった。




