窓辺の幻影
「仕方ないわ……。もう一度、ミレーヌさんのところへ戻りましょう」
鍵の山を前にして心が閉じた私は、深呼吸をして立ち上がる。今度はあの泡で無様に転ばないよう、一歩一歩、氷の上を歩くような慎重さで廊下を進んでいく。
ミレーヌさんは、広大な回廊の仕上げにかかっていた。彼女の鏡のような体には、磨き上げられた床の輝きが冷たく反射している。
「わーい! 泡のじゅうたんだぁー!」
慎重な私とは対照的に、ピピンは歓声を上げながら、残った泡の上をこれでもかと滑っていく。
「ピピン、あなたのその無駄に詰まった綿は、知性ではなく遊びの衝動だけでできているのね。私の視界を汚さないでもらえるかしら」
ミレーヌさんのトゲだらけの言葉が飛ぶが、ピピンはいつも通り「えへへ、滑り心地最高ですぅ!」と全く気にする様子もない。私は申し訳なさで身を縮めながら、再び彼女に声をかけた。
「あの……ミレーヌさん。鍵の倉庫へ行ったのですが、あまりの数に見つけられなくて……」
「あら、あんなに分かりやすい場所にあるのに見つけられなかったの? 聖女様の眼光も、その程度の曇り空だということかしら」
ミレーヌさんは呆れたように肩をすくめる。けれど、その鏡の瞳がふと遠くを見つめていた。
「……いえ。私も、はっきりとは思い出せないわ。今の私の輝きには、何かが足りないのよね……」
私はピンとくる。彼女の鍵の記憶もまた、他の住人たちと同じように欠落しているのだと。彼女のパズルを解かなければ、あの「小さな鍵」には辿り着けない。
(……空を泳ぐクジラ、そして銀の刺繍。それがミレーヌ様の『ちぐはぐな思い出』……)
「ミレーヌさん、また来るわね!」
私はそう告げると、泡まみれでヌルヌルになったピピンをひっつかみ、角を曲がってその場を離れる。もはや、この城の謎を解くためのヒント手がかり製造機と化した綿の詰まった相棒に、知恵を借りる時。
「ねえ、ピピン。ミレーヌさんの言っていた……」
顔を近づけて問いかけようとしたその瞬間、ピピンが「ぷっ!」と、口に溜めていた泡を吹き飛ばしてきた。
パシャッ。
「……っ」
私の顔面は、真っ白な洗剤の泡で埋め尽くされました。
「あははは! セシリア様、泡のお髭が生えてますよぅ! 面白い顔ですぅ!」
「……もう、ピピンったら!」
視界を塞ぐ真っ白な泡に、私は思わず声を上げた。鼻先をくすぐる石鹸の香りと、いたずらっ子のようなピピンの笑い声。顔を拭いながら目を開ければ、そこにはお腹を抱えて転げ回る小さな相棒の姿がある。
「あははは! セシリア様、泡のお髭がとっても似合ってますぅ! 聖女様じゃなくて、泡の妖精さんですねぇ」
「……妖精さんは、こんなにヌルヌルしていないわよ」
溜息をつきながらも、頬を伝う泡の冷たさが心地いい。ミレーヌさんのトゲのある言葉でささくれ立っていた心が、不思議と解きほぐされていく。私は残った泡を払い、改めて真剣な眼差しをピピンに向けた。
「冗談はさておき。ミレーヌさんが仰っていた『空を泳ぐクジラ』……。この城で、そんな途方もないものを見たことはないかしら?」
ピピンは「うーん」と首を傾げ、短い指を口元に当てる。
「空を泳ぐクジラ……。あ! そういえば、城の北側にある『開かずの展望閣』に、変な窓がありましたよぅ!」
「変な窓?」
「はい! 特定の時間に、特定の角度から覗いた時だけ、外の雲が『おっきなクジラ』に変身するんですぅ。昔、アルカード様が『あれは城の守り神の彫像だ』って教えてくれました!」
展望閣。城の最も高い場所に位置し、常に濃い霧に隠されていると言われる塔の最上階。
『クジラの背中で、銀の刺繍をしていた』ミレーヌさんのあの記憶が、もし単なる空想でないとするならば、その不思議な景色の中に彼女の失われた「心」が隠されているに違いない。
「行きましょう、ピピン。ミレーヌさんに怒られる前に、その守り神に会いに行かなきゃ」
私たちは泡だらけの廊下を抜け、北の塔へと続く螺旋階段を駆け上がった。
登るにつれ、窓の外の景色は霧に包まれ、空気は次第に薄く、冷たくなっていく。
やがて辿り着いた、たった一枚の円形の窓がある行き止まり。
「セシリア様、ここですぅ! ほら、背伸びして覗いてみてください!」
ピピンに促され、私は円窓の向こう側に広がる雲海に目を凝らした。
すると、どうだろう。流れる雲が風に形を変え、西日に照らされた瞬間――。
遥か彼方の空に、悠然と尾を振る巨大なクジラの姿が浮かび上がった。それは雲でできた彫像のように雄大で、その背中からは、まるで誰かが銀色の糸で縫い合わせたかのような、幾筋もの美しい光線が地へと降り注いでいる。
「……綺麗。あれが、ミレーヌさんの見ていた世界……」
呆然と見惚れる私の横で、ピピンが窓枠に手をかけ、身を乗り出した。
「あ! セシリア様、見てください! クジラの背中の光が、ちょうど城のどこかを指してますよぅ!」




