執事の忠言
昨夜の出来事を思い返すと、まるで現実の境界線が滲んでしまったかのような錯覚に囚われる。
眩いばかりに晴れ渡った翌朝。テラスに降り注ぐ陽光は、昨日までの不気味な迷宮も、あの無限に続く赤の部屋も、すべてを白く塗りつぶしてしまいそうなほど穏やかだった。
エランディアから訪れる王太子夫妻を迎えるため、アルカード様は夜明けとともに発たれた。海上貿易の要衝を担う賓客への対応とあって、公務はかなり多忙を極めているようだ。
(……少しだけ、寂しいわね)
主がいなくなった途端、あんなに広大だった城が、急に命を失ったガラクタの山のように見えてしまう。私は独り、テラスの手すりに身を預け、眼下の庭園を眺めた。
芝生の上ではピピンが相変わらずスライムを追い回し、ヴェノマ様は愛おしそうに花に触れ、ミレーヌ様は規則正しく箒を動かしている。昨日と変わらぬ、完成された平和。
そこへ、控えめなノックの音が響き、リアムが姿を現した。
「セシリア様。公爵様より、昨日渡し忘れた香水を届けるよう仰せつかりました」
彼が差し出したのは、朝露を閉じ込めたような美しいクリスタルの瓶。
「ありがとう。……ねえ、リアム。こちらへ来て、一緒にこの景色を眺めない?」
私は彼をテラスの端へと招き入れた。ここから見るエメラルド色の湖と深い森は、息を呑むほどに美しい。
「本当に綺麗な場所ね。……ずっとここにいたい、そんな風に思ってしまうほど。ねえ、あなたはどう思う? この城を」
問いかけられたリアムは、感情の読めない瞳で遠くの空を見つめた。
「……セシリア様が望まれるのであれば、私はそれを止める権利を持ちません。ですが」
一拍置いて、彼は静かに、けれど明確な拒絶を込めて言葉を継ぐ。
「……あまり、お勧めはいたしません」
「お勧めしない? 理由を聞いてもいいかしら」
「いいえ。……私には、そう感じる心が欠けておりますから」
淡々とした彼の横顔に、私はつい踏み込んだ問いを重ねた。
「じゃあ、あなたはここにいて楽しい?」
「ええ。悩みというものが存在しませんから。非常に、効率的で楽しいですよ」
あまりに率直すぎる彼の答えに、私は思わず吹き出してしまった。聖女としての品位も忘れ、テラスを揺らす風のように笑う私を、リアムは不思議そうに見つめている。
「ふふ、悩みがないから楽しいだなんて。あなたらしいわ、リアム」
「……お笑いになりますか。ですが、不思議なこともあるものです」
リアムは自分の透き通るような指先を見つめ、どこか遠い記憶を探るように声を落とした。
「あなたがこの城に来てから、何かが変わった……そんな気がいたします。砂の下に埋もれていた壊れた歯車が、急に音を立てて回り始めたような……そんな、落ち着かない感覚が」
彼の言葉を聞きながら、私はポケットの中にある「蒼い宝石」を指先でなぞった。
あの日、天文塔で触れた彼の「誇り」。
彼自身が気づいていない心の疼きが、この城の静寂を少しずつ、けれど確実に揺らし始めている。
「……そうね。私も同じよ、リアム。何かが、大きく変わろうとしているわ」
私は香水の瓶を胸に抱き、真っ青な空を見上げた。
遠くから聞こえる、街での歓迎式典の用意の音なぜか心地よく感じられた。




