星降るテラス
「怖かったですぅ……。セシリア様が、あの絵の中に吸い込まれて、そのまま消えちゃうかと思いましたぁ……」
小さな体を震わせ、目尻に涙をためて私を見上げるピピンを、私は愛おしさを込めて強く、壊れないように抱きしめた。
「ごめんなさい、ピピン。もう大丈夫よ。……私はここにいるわ」
「えへへ……。リアムもセシリア様も、みんな弱虫さんですねぇ」
涙を袖で拭ったピピンが、いつものように茶目っ気たっぷりに笑う。その無邪気な笑顔が、凍りついた私の心をゆっくりと溶かしてくれた。
部屋を出る際、私は重厚な扉の真鍮の取っ手に手をかけ、一瞬だけ指を止めた。またあの中に戻ってしまうのではないか――。けれど、思い切って開いた先にあったのは、夕暮れの柔らかな光が差し込む、見慣れた城の廊下だった。
「……よかった。本当に、帰ってきたのね」
「セシリア様、なんだか情緒不安定ですよぅ。ピピンと一緒に、お昼寝して元気を出すですぅ!」
私はピピンの言葉に甘え、泥のように眠りについた。
夢の中で、この美しい城が真っ二つに割れ、砂のように崩れ落ちていく光景を見たけれど……目を覚ました私を待っていたのは、私の顔面の真上にふかふかと鎮座して、幸せそうに寝息を立てるピピンだった。
「ふふ、もう。重いわよ、ピピン」
優しく彼女を退けると、窓の外は既に深い紺碧の夜に包まれていた。
ミレーヌが静かに「夜食の準備が整いました」と呼びに来る。食堂へ向かうと、そこには公務から戻ったばかりのアルカード様が待っていた。
「おかえりなさい、アルカード様」
「ああ、ただいま。セシリア。私がいない間、城は平和だったかい?」
「ええ……。とても、平和だったわ」
私はドレスのポケットに隠した、あの蒼い宝石と赤いハンカチの熱を意識しながら、精一杯の微笑みを返した。
食卓では、ピピンがヴェノマ様の「おぞましく苦いハーブティー」の失敗談を、身振り手振りで面白おかしく話し始めた。アルカード様も珍しく、喉を鳴らして楽しそうに笑っている。
「……あれは失敗ではなく、死というスパイスを加えた芸術よ。無作法な口には合わなかったかしらね」
ヴェノマ様のいつものブラックジョークが飛び出し、リアムが「お口直しを」と、銀のトレイを差し出す。この歪で、けれど家族のような温かな時間が、今の私には何よりも大切に思えた。
食後、皆が後片付けを始める中、アルカード様がそっと私の手を取った。
「セシリア、少し夜風に当たらないか。今夜は星がとても近い」
案内されたテラスに出ると、そこには夜の静寂と、宝石をひっくり返したような満天の星空が広がっていた。
アルカード様は私を椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろすと、長い指先で私の髪を優しく梳いた。
「見てごらん。星たちが、君を祝福しているようだ」
彼の瞳に映る星空は、あまりに美しくて、けれど底知れない孤独を湛えていた。
彼は私の肩を抱き寄せ、その逞しい胸に私を導く。彼の胸からは、穏やかな心音が聞こえてくるけれど、その鼓動はどこか、あの『砂の本』が脈打つ音と似ているような気がして……。
「セシリア。この城は、外の世界の悲しみから君を守るための箱庭だ。ここでは君を傷つけるものは何もない。……私のそばで、ただこうして夜空を眺めていてほしい」
アルカード様の甘い囁きが、ひんやりとした夜風と共に私の耳をなでる。
私は彼の肩に頭を預け、何もかもを忘れたふりをして目を閉じた。
彼の体温、揺れる影、遠くで聞こえるピピンとミレーヌの話し声。
このまま、この穏やかな嘘の中に溺れてしまえたら、どんなに楽だろう。
けれど、私の指先には、まだあの「無限の回廊」で感じた床の熱さが残っている。
(アルカード様……。あなたが隠そうとしているこの城の真実を、私は愛し抜くことができるのかしら……)
ロマンチックな夜の調べの中、私たちは一対の恋人のように寄り添っていた。
その足元で、私のポケットの中にある「蒼い宝石」が、アルカード様の指輪に呼応するように、微かに、けれど強く、光を放ち始めていた。




