空白の記憶
案内された場所は、私が想像していた重厚な書斎とは正反対の空間だった。
床も壁も、一面が透明なガラスでできた広大なフロア。足を踏み出すたびに、自分の靴音が硬質に響き渡る。中央には、光を透過して七色に輝く幻想的なグランドピアノが鎮座し、その周囲にはハープやチェロといった楽器たちが、主を待つように静かに並んでいた。
「……素敵。でもアルカード様、ここは? 書斎へ向かうんじゃなかったのかしら」
私が不思議に思って尋ねると、アルカード様はふと足を止め、虚空を見つめるような仕草をした。
「書斎? ……ああ、そうだったね。私はあそこの、天井から雨が降り注ぐ書斎で、よく砂に書かれた文字を読んでいたはずだよ。……おや、おかしいな。あそこには確か、泳ぐ本棚があったはずなんだが」
アルカード様から漏れ出たのは、リアムたちと同じ、あの歪んだ記憶の断片だった。
彼ですら、自分の城の構造を正しく把握していない……?
背筋に冷たいものが走る。この城は、主の意識さえも蝕むほどに作り替えられているのかもしれない。
「……セシリア。君がこの城に来てから、私は今まで感じたことのないような情熱的な愛を感じているんだ」
アルカード様は私の困惑を塗りつぶすように、優しく、けれど有無を言わせぬ力強さで私の手を引いた。
「私はピアノの音色が大好きでね。だが、今のこの城で、この繊細な鍵盤を正しく叩けるのは、君しかいないんだ。……聖女の指先が奏でる調べを、私に捧げてくれないか?」
「私の演奏を……? ええ、喜んで。アルカード様が望まれるなら」
私は誘われるままに、ガラスの椅子へ腰を下ろした。
ピアノの譜面台には、既に一冊の楽譜が置かれていた。
透明で幻想的なこの部屋の中で、その楽譜だけが異常に古びており、紙は黄色く変色し、端がボロボロに崩れている。
「早く、早く! セシリア、ピピンも聴きたいですぅ!」
いつの間にかピアノの端にちょこんと座っていたピピンが、短い足をパタパタさせながらせがんだ。彼女はいつだって、空気が読めないほど楽しそうだ。
アルカード様は私の背後に立ち、冷たい掌をピアノの縁に置いた。
「さあ、始めておくれ。……君の音楽が、この城の静寂を塗り替える瞬間を、私はずっと待ちわびていたんだよ」
私は震える指先を鍵盤に添えた。
古い楽譜に記されたその曲は、なぜか見覚えがあるような……それでいて、決して弾いてはいけない禁忌の儀式のような、禍々しい気配を放っていた。




